[あらすじ] 3年近く前からサンスクリットを独習している。
敬遠していた事をいろいろやってみる、の一環である。
サンスクリット独習の第一歩は、デーヴァナーガリー文字を読むことだった。
言語と文字は一対一の関係であったりなかったりする。
それには各々に歴史的な理由がある。
たとえばひらがなやカタカナは日本語のみに用いられる。
日本語は文字を持っておらず、漢字からひらがなが作られたことによる。
その漢字は中国から伝播して、朝鮮語、日本語などで用いられる。
アルファベットは多くの言語の表記に用いられる。
デーヴァナーガリーは、現代のインド諸語でも使われている。
サンスクリットだけの文字ではない。
サンスクリットはもともと文字は持っていなかった。
古典は口授で伝えられてきたのだ。
憶えやすいように、憶え間違いにくいように、
口伝の古典は韻律を持っている。
インドの韻律は拍数による。
ヨーロッパの詩で韻を踏むと言えば、母音を揃えることだ。
和歌も拍数による。
漢詩は拍数と脚韻の両方による。
サンスクリットはインド・ヨーロッパ語の源流である。
ヨーロッパの源なのに、アジア的な要素も併せ持っている。
位置的にも中間にある。
必然なのかもしれない。
文字の学習から始めて、音韻論のようなところを経る。
格変化や文法を理解するためには、サンスクリット独特の音韻変化を知ることが必須だからだ。
ただ、日本語の音便変化などが分かっていれば、
かなり自然に理解できる。
てなことは学習が進んだ今、振り返るから言えることで、
始めて2~3ヶ月頃は何をどうすれば良いのかわからず、
途方に暮れた。
どこかでサンスクリットが学べないか、インターネットで検索しまわった。
すると、ヨガの流行から、チャンティングというものを教えるよ
という教室はいくつか見つかった。
神々を讃えて歌うのだ。
違う。
私は文法からやりたいのだ。
ついに、東京大学仏教青年会というところで文法の入門講座一年コースというのを見つけた。
サンスクリットの文法を一年で、というのは実に駆け足だった。
その後も「サンスクリット・トレーニング」というテキストを使って独習を続けている。
※
昨年、東大仏青から案内が届いた。
このご時世だが封書で届く。
メールに切り替えてくれんものか。郵送料だってばかにならないだろうし。
きっと会員にじじばばが多いのだろうな。などと想像する。
年に一コース、「仏典とインドの古典を読む会」というのを催している。
そのテーマが「ヨーガ・スートラを読む」だった。
サンスクリットとほぼ同時に、ヨーガもちょっとやってみた。
敬遠してきたことの一つだった。
ただ、用語の意味が分からない。
もっと知りたいと思ってサンスクリットも始めたのだった。
文法の勉強に時間がかかって、なんのために勉強してんだか忘れかけていたが、
古典を読めるようになってくると、初心を思い出すことができるというものだ。
和訳も出ているので、原文と併せて読んで、講座に臨んだ。
※
[あらすじ] 錦糸町の河内音頭大盆踊り大会で、江州音頭がちょいちょい掛かる。
初代桜川唯丸のCD「ウランバンDX」を繰り返し聴いていた。
長い長いメドレーの中、般若心経がうたわれる。
ああそうだ、般若心経もサンスクリット原典で読んでみたい。
そう思って、岩波文庫の般若心経を買う。
なんと、デーヴァナーガリーで書かれたサンスクリットの般若心経で、
世界最古のものは日本に在るという。
舶来の物を有難がって倉に収めた日本人は実に物持ちが良い。すばらしい。
サンスクリットの般若心経は、漢訳されたものと構成が違うという。
これは、きちんと腰を据えて読まねばならんな。
※
9月に入って、東大仏青からまた封書が届いた。
受講したいものが有ればまだしも、無かったら本当に紙と通信費がもったいなブツブツ…
と開封すると、「仏典とインドの古典を読む会」、今年は去年と同じ講師で、
「バガヴァッド・ギータ―」を読むという。ほれきた。
サンスクリットを勉強し始めた頃、これが読みたかったのを思い出す。
確か、岩波文庫を持っているはずだ。
本棚から見つけ出すと、18章あるうち第4章までは読んである。
ここいらまで読んだところで、サンスクリットの学習のほうに回り道したのだろう。
※
ありゃ、すぐ隣に岩波文庫「般若心経」が有るじゃないの。持っていたか。新しく買っちゃった。
開いてみると、あちこちに付箋が貼ってある。
「漢訳仏典ではこういう語だが、サンスクリット原典では何々という語」
という解説ごとに付箋が貼ってある。
ああ、なんだ、持っていたか。
そういえば、これもサンスクリットに回り道する原因の一つだったのだ。
※
まったく忘れていた。
忘れる程度の動機なんだからたいして強い意志も衝動も大きな興味も無さそうな気もする。
けれど、あっちにちょっと、こっちでもちょっと、といったふうに
いくつかきっかけが重なると、おやこれは何がしかの意味だか方向づけだかが有るのかな、
なんてな気持ちになったのかもしれない。
たかだか三年前のことなのだが、よく思い出せない。
当時のブログを見りゃ何か書いてあるかもしれないが、
思ったことを全部ここに書いているわけではないので、
自分の気持ちなんざ読み取れやしない。
まあ、何らかのよろこび(ānanda)には到達するのかもしれない。
敬遠していた事をいろいろやってみる、の一環である。
サンスクリット独習の第一歩は、デーヴァナーガリー文字を読むことだった。
言語と文字は一対一の関係であったりなかったりする。
それには各々に歴史的な理由がある。
たとえばひらがなやカタカナは日本語のみに用いられる。
日本語は文字を持っておらず、漢字からひらがなが作られたことによる。
その漢字は中国から伝播して、朝鮮語、日本語などで用いられる。
アルファベットは多くの言語の表記に用いられる。
デーヴァナーガリーは、現代のインド諸語でも使われている。
サンスクリットだけの文字ではない。
サンスクリットはもともと文字は持っていなかった。
古典は口授で伝えられてきたのだ。
憶えやすいように、憶え間違いにくいように、
口伝の古典は韻律を持っている。
インドの韻律は拍数による。
ヨーロッパの詩で韻を踏むと言えば、母音を揃えることだ。
和歌も拍数による。
漢詩は拍数と脚韻の両方による。
サンスクリットはインド・ヨーロッパ語の源流である。
ヨーロッパの源なのに、アジア的な要素も併せ持っている。
位置的にも中間にある。
必然なのかもしれない。
文字の学習から始めて、音韻論のようなところを経る。
格変化や文法を理解するためには、サンスクリット独特の音韻変化を知ることが必須だからだ。
ただ、日本語の音便変化などが分かっていれば、
かなり自然に理解できる。
てなことは学習が進んだ今、振り返るから言えることで、
始めて2~3ヶ月頃は何をどうすれば良いのかわからず、
途方に暮れた。
どこかでサンスクリットが学べないか、インターネットで検索しまわった。
すると、ヨガの流行から、チャンティングというものを教えるよ
という教室はいくつか見つかった。
神々を讃えて歌うのだ。
違う。
私は文法からやりたいのだ。
ついに、東京大学仏教青年会というところで文法の入門講座一年コースというのを見つけた。
サンスクリットの文法を一年で、というのは実に駆け足だった。
その後も「サンスクリット・トレーニング」というテキストを使って独習を続けている。
※
昨年、東大仏青から案内が届いた。
このご時世だが封書で届く。
メールに切り替えてくれんものか。郵送料だってばかにならないだろうし。
きっと会員にじじばばが多いのだろうな。などと想像する。
年に一コース、「仏典とインドの古典を読む会」というのを催している。
そのテーマが「ヨーガ・スートラを読む」だった。
サンスクリットとほぼ同時に、ヨーガもちょっとやってみた。
敬遠してきたことの一つだった。
ただ、用語の意味が分からない。
もっと知りたいと思ってサンスクリットも始めたのだった。
文法の勉強に時間がかかって、なんのために勉強してんだか忘れかけていたが、
古典を読めるようになってくると、初心を思い出すことができるというものだ。
和訳も出ているので、原文と併せて読んで、講座に臨んだ。
※
[あらすじ] 錦糸町の河内音頭大盆踊り大会で、江州音頭がちょいちょい掛かる。
初代桜川唯丸のCD「ウランバンDX」を繰り返し聴いていた。
長い長いメドレーの中、般若心経がうたわれる。
ああそうだ、般若心経もサンスクリット原典で読んでみたい。
そう思って、岩波文庫の般若心経を買う。
なんと、デーヴァナーガリーで書かれたサンスクリットの般若心経で、
世界最古のものは日本に在るという。
舶来の物を有難がって倉に収めた日本人は実に物持ちが良い。すばらしい。
サンスクリットの般若心経は、漢訳されたものと構成が違うという。
これは、きちんと腰を据えて読まねばならんな。
※
9月に入って、東大仏青からまた封書が届いた。
受講したいものが有ればまだしも、無かったら本当に紙と通信費がもったいなブツブツ…
と開封すると、「仏典とインドの古典を読む会」、今年は去年と同じ講師で、
「バガヴァッド・ギータ―」を読むという。ほれきた。
サンスクリットを勉強し始めた頃、これが読みたかったのを思い出す。
確か、岩波文庫を持っているはずだ。
本棚から見つけ出すと、18章あるうち第4章までは読んである。
ここいらまで読んだところで、サンスクリットの学習のほうに回り道したのだろう。
※
ありゃ、すぐ隣に岩波文庫「般若心経」が有るじゃないの。持っていたか。新しく買っちゃった。
開いてみると、あちこちに付箋が貼ってある。
「漢訳仏典ではこういう語だが、サンスクリット原典では何々という語」
という解説ごとに付箋が貼ってある。
ああ、なんだ、持っていたか。
そういえば、これもサンスクリットに回り道する原因の一つだったのだ。
※
まったく忘れていた。
忘れる程度の動機なんだからたいして強い意志も衝動も大きな興味も無さそうな気もする。
けれど、あっちにちょっと、こっちでもちょっと、といったふうに
いくつかきっかけが重なると、おやこれは何がしかの意味だか方向づけだかが有るのかな、
なんてな気持ちになったのかもしれない。
たかだか三年前のことなのだが、よく思い出せない。
当時のブログを見りゃ何か書いてあるかもしれないが、
思ったことを全部ここに書いているわけではないので、
自分の気持ちなんざ読み取れやしない。
まあ、何らかのよろこび(ānanda)には到達するのかもしれない。
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