6、7年前から、サンスクリットを勉強している。
なんで?と聞かれることが多い。
なんでだっけ。
始める時には理由が有ったと思う。
始めてからは、続けることに意味が出てきたり、
面白さや新しい学びそのものの楽しさが理由になってきたりする。
で、なんでだったっけ。
マントラというものが有る。
日本にも、真言とか陀羅尼とかいう形で伝わっている。
中国経由で伝わっているので、漢字で書いたりする。
これが、
発音が大事で音に意味が有るのであって不正確に唱えても意味が無い、
と言われていたり、
いや、意味を知って念を込めて唱えれば良い、
と言われていたり、
音自体に意味が有るので、意味を知らなくて唱えても有効、
と言われていたりする。
なーにが本当なんじゃらい
と思ったのが、サンスクリットを勉強しようと思ったきっかけだった。
ただ、正しく発音したり、正しく意味を捉えられるようになるためには
相当に勉強しないといけない。
時間が掛かり過ぎそうだから、ずっと敬遠していたのだが、
なんだか手を出しちゃった、というところだ。
※
有名なところでいくと、般若心経の最後のところなんか、そうだ。
ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーぢーそわかー
と唱える。
元のサンスクリットから音をそのまま漢字に写して、こう書く。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶
漢字は普通、一字に意味が有るが、ここでは音を写しているだけだ。
諦の字にあきらめの意味は無い。僧にぼうさんの意味も無い。
元のサンスクリットをデーヴァナーガリー文字で書くと、こう。
गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा ॥
なんとなく読める気がしちゃうローマ字表記はこんな。
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
これをカタカナにすると、こうなる。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
意味は、
行く者よ 行く者よ 向こう岸へ行く者よ 向こう岸へすっかり行く者よ
さて。
インターネットで検索すると、下記のような解説も出てくる。
サンスクリットを知らなかったら、ありがたく受け止めてしまいそうだ。
~
サンスクリット語をそのまま音訳したもので「羯」は、行きなさいの意、「諦」は、悟りの世界、と言う意味である。
つまり続けて読むと、「羯諦 羯諦 波羅羯諦」は「往きなさい、往きなさい、彼岸へ往きなさい」となる(解釈には諸説あり)。
~
「諸説」も「諸説」ってところだ。
「悟り」と訳せるとすれば、bodhiの部分である。
ブッダの名前のもとにもなっている動詞√budh から作られた名詞だ。
呼格である。悟りよ。
gate を文法的にどう解析するか。
「行った」と訳す説も有る。
√gam の過去受動分詞 gata の男性、単数、処格で「行った」と取るという。
そうすると、処格をどういう意味で取るのだろう。
「行け」と訳す人も多い。
意味としては取りやすい。
動詞√gam(行く)の命令形はगच्छ gaccha ガッチャとなる。
上記の過去分詞として読んで、意味として「行け」と読む、ということのようだ。
日本語において、過去形で命令の意味を表現することが有る。
「さあもう行った行った」とか「早く食べた食べた」とか。
サンスクリットでもどこかで見た気がするけど、はてどこだったかいな。
慌てて文法書だのなんだのをめくるが、見当たらない。
講座の中で先生が説明してくれたんだったかな。
「過去形で命令の意味を表すことが有ります」
ええーーっ!あいや、日本語もそうか。という順番で頭に入った記憶が有るので、
たぶん間違い無い。はず…
gateは、√gam から派生したgati(行く者)という名詞の呼格。
繰り返していることからも、呼格と取るほうが自然に思える。
まあ、命令でも繰り返すけど。「行け行けとにかく行け」。
svāhā は漢訳の音写を経て日本語に入ると「ソワカ」になる。
サンスクリットの発音を唐の時代の中国語に写して漢字で表現し、
それを日本人なりの発音で読むので、ちょとづつズレてしまうのだろう。
動詞 su√ah から作られた形で、良く言う、つまり「いいね!」という意味。
「パラサムガテー」などと書いてあったりするが、
「パーラ」と伸ばすのが正確であり、
「サンガテー」と日本語の「ん」と同じように発音するのが正解。
表記に惑わされちゃいけないのだ。
進む者よ 進む者よ 彼岸へと進む者よ 彼岸にすっかり行った者よ 悟りよ 万歳
邁進して邁進して邁進して、その先に到達する場所が確かに有る。だから進め、ひたすら進め。
そんな感じなんじゃないかな、と思う。
※
と、ここまで意味を追った末に、考える。
意味を伝えたいのなら、意味を訳出すべきだ。
それなのに、この部分は音写したのは、
元の音のまま伝えたいからだろう。
意味はいくつかの解釈ができる、
どれかが正しいのかもしれないが、
掛け言葉のようなことが行われていて、二重三重の意味が籠められているのかもしれない。
そういった余地も含めての言葉だから、
元の音のまま唱えることが善いと考えられたのではないだろうか。
なんにせよ、
仏教徒でも研究者でもなんでもない私が
クーラーの効いた部屋で書いた戯言なのであります。
なんで?と聞かれることが多い。
なんでだっけ。
始める時には理由が有ったと思う。
始めてからは、続けることに意味が出てきたり、
面白さや新しい学びそのものの楽しさが理由になってきたりする。
で、なんでだったっけ。
マントラというものが有る。
日本にも、真言とか陀羅尼とかいう形で伝わっている。
中国経由で伝わっているので、漢字で書いたりする。
これが、
発音が大事で音に意味が有るのであって不正確に唱えても意味が無い、
と言われていたり、
いや、意味を知って念を込めて唱えれば良い、
と言われていたり、
音自体に意味が有るので、意味を知らなくて唱えても有効、
と言われていたりする。
なーにが本当なんじゃらい
と思ったのが、サンスクリットを勉強しようと思ったきっかけだった。
ただ、正しく発音したり、正しく意味を捉えられるようになるためには
相当に勉強しないといけない。
時間が掛かり過ぎそうだから、ずっと敬遠していたのだが、
なんだか手を出しちゃった、というところだ。
※
有名なところでいくと、般若心経の最後のところなんか、そうだ。
ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーぢーそわかー
と唱える。
元のサンスクリットから音をそのまま漢字に写して、こう書く。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶
漢字は普通、一字に意味が有るが、ここでは音を写しているだけだ。
諦の字にあきらめの意味は無い。僧にぼうさんの意味も無い。
元のサンスクリットをデーヴァナーガリー文字で書くと、こう。
गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा ॥
なんとなく読める気がしちゃうローマ字表記はこんな。
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
これをカタカナにすると、こうなる。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
意味は、
行く者よ 行く者よ 向こう岸へ行く者よ 向こう岸へすっかり行く者よ
さて。
インターネットで検索すると、下記のような解説も出てくる。
サンスクリットを知らなかったら、ありがたく受け止めてしまいそうだ。
~
サンスクリット語をそのまま音訳したもので「羯」は、行きなさいの意、「諦」は、悟りの世界、と言う意味である。
つまり続けて読むと、「羯諦 羯諦 波羅羯諦」は「往きなさい、往きなさい、彼岸へ往きなさい」となる(解釈には諸説あり)。
~
「諸説」も「諸説」ってところだ。
「悟り」と訳せるとすれば、bodhiの部分である。
ブッダの名前のもとにもなっている動詞√budh から作られた名詞だ。
呼格である。悟りよ。
gate を文法的にどう解析するか。
「行った」と訳す説も有る。
√gam の過去受動分詞 gata の男性、単数、処格で「行った」と取るという。
そうすると、処格をどういう意味で取るのだろう。
「行け」と訳す人も多い。
意味としては取りやすい。
動詞√gam(行く)の命令形はगच्छ gaccha ガッチャとなる。
上記の過去分詞として読んで、意味として「行け」と読む、ということのようだ。
日本語において、過去形で命令の意味を表現することが有る。
「さあもう行った行った」とか「早く食べた食べた」とか。
サンスクリットでもどこかで見た気がするけど、はてどこだったかいな。
慌てて文法書だのなんだのをめくるが、見当たらない。
講座の中で先生が説明してくれたんだったかな。
「過去形で命令の意味を表すことが有ります」
ええーーっ!あいや、日本語もそうか。という順番で頭に入った記憶が有るので、
たぶん間違い無い。はず…
gateは、√gam から派生したgati(行く者)という名詞の呼格。
繰り返していることからも、呼格と取るほうが自然に思える。
まあ、命令でも繰り返すけど。「行け行けとにかく行け」。
svāhā は漢訳の音写を経て日本語に入ると「ソワカ」になる。
サンスクリットの発音を唐の時代の中国語に写して漢字で表現し、
それを日本人なりの発音で読むので、ちょとづつズレてしまうのだろう。
動詞 su√ah から作られた形で、良く言う、つまり「いいね!」という意味。
「パラサムガテー」などと書いてあったりするが、
「パーラ」と伸ばすのが正確であり、
「サンガテー」と日本語の「ん」と同じように発音するのが正解。
表記に惑わされちゃいけないのだ。
進む者よ 進む者よ 彼岸へと進む者よ 彼岸にすっかり行った者よ 悟りよ 万歳
邁進して邁進して邁進して、その先に到達する場所が確かに有る。だから進め、ひたすら進め。
そんな感じなんじゃないかな、と思う。
※
と、ここまで意味を追った末に、考える。
意味を伝えたいのなら、意味を訳出すべきだ。
それなのに、この部分は音写したのは、
元の音のまま伝えたいからだろう。
意味はいくつかの解釈ができる、
どれかが正しいのかもしれないが、
掛け言葉のようなことが行われていて、二重三重の意味が籠められているのかもしれない。
そういった余地も含めての言葉だから、
元の音のまま唱えることが善いと考えられたのではないだろうか。
なんにせよ、
仏教徒でも研究者でもなんでもない私が
クーラーの効いた部屋で書いた戯言なのであります。
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