犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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「わかりあえるさ」の間違い

2017年03月08日 | 椰子の実の中
「わかりあえる」という言い回しを、よく耳にする。

これが、子どもの頃からなんだか疑わしく思えて嫌いだった。
ほんとにわかりあえるのか?
ごく身近な人、家族や友達だって、わかりあっている気はしない。
そもそも、私の恋愛対象が女性だってことも知らないだろ。

「ちゃんと話し合えばわかりあえる」
なんだか条件を付けてきたな。
これも疑わしいな。
ちゃんと話し合えるのか?
まず、話を聞いてくれるのか?
思いっきり否定してきたり、お茶を濁したり、笑ったりしないか?

「わかりあえる」気がしない。
かと言って、
他人同士がわかりあうことなんて不可能さ
などとさとったふうを気取ることも気に入らない。

なぜ、そんなことになるのか。
実は、「わかりあえる」と言っている人も、
「わかりあうのなんて無理さ」と言う人も、
「わかりあう」ということの意味を履き違えているだけなのだと思う。



一例を挙げれば、
女性として生まれ育って、でも恋愛感情を抱く対象は女性で、
自分の性別の認識は女性ではなく、かと言って男性でもない、
という私個人が経験してきたことや、その経験を通じて感じてきたことを
別の個人が「わかる」わけはない。

何年か年上の人の、酒の席での家庭の苦労話に
うんうん、わかるわかる、と相槌を入れていたら、
ぶっ叩かれたことがある。
もっともだ。
ひとりもんの私に、先輩の苦労はわかるわけがない。

けれど、たとえば友達と酒を飲んで体験談なんぞをし合った時には
「うん、わかる、わかるよ」
という相槌は、嬉しく、救われた心地になったりもする。

ということは、相手が自分のことを「わかり」そうか「わかり」そうじゃないか
ということで、「わかる」と言われた時の自分の気分が左右されるのか。

それは、私自身の例についても同様だ。
あんまりヒラヒラと「わかる」と言われたらやっぱり疑わしい気持ちになるけれど、
「簡単にわかるなんて言えないけど、その悔しい気持ちはわかるよ」なんて言われたら
ほっとしたりする。



どうやら「わかる」という日本語には「共感する」という意味があるようだ。
という意味がある、というよりも、
「わかる」を「共感する」という意味で使うことが結構多そうだ。

「うん、わかるよ」と相槌を打つ時には、
「その気持ちに共感して、私も痛みを感じるよ」というような意味が
「わかる」に籠められる。

ただ、「わかりあえるさ」だ「話せばわかる」といったふうに言う時にも
「わかる」を「共感する」という意味で使ったり捉えたりすることが、
間違いのもとなんではないだろうか。

つづく

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