私はXジェンダーである。と言うことにしている。
今ある言葉の中で、自分を指して言うのに一番しっくりくる
かなー、
と思うから、使っている。
ただ、他人から見たらそれは
トランスジェンダーだったり、レズビアンだったり、
FTMだったり、FTXだったり、ただ女性だったり、
性別不詳だったり、中性的だったり、
いろいろな言葉で表されるのだとも思う。
言葉は時代によって生まれたり消えたりする。
より細かく分けて名付けられていったりする。
細かく分けることは、「しっくりくる表現」を見付けるためには役に立つと思う。
しかし、「分ける」とはやはり差別に繋がりかねないところも有る。
差異を探して分けているのだから、自他の違いをより意識することになる。
カテゴリーを細かく分ける作業と同時に、
違いが有ることは問題ではなく当たり前のこととして受け容れるという
通念が進んでいく必要が有るのだと思う。
※
しかし、自他の違いにおおらかになれるとも限らないとも思う。
個体としての偏りが有って、他者との相性なども有る。
好き嫌いはどうしても生じる。
多様性と好き嫌いは表裏一体で、
身体性と情動は別物ではない。
※
政府の要人の発言が話題になっているようだ。
ニュースを見ないようにしている私も、
この話題を取り上げた動画を見て、知ることとなった。
具体的な発言内容を調べて、どこに問題が有るかきっちり述べることもできるけれど、
そこまではやらないことにする。
それでも何かちょっとだけでも自分の思ったことを書いておこうかな。
散発的になるけれど。
※
「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだ」というようなことを言ったという。
これを聞いて、まず当事者である私は、身の縮む思いがする。
自分の隣に住んでいる人が、このように思う人だったらと想像したら、怖い。
それは、「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだ」と思う人の不快感と、
私の「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだと思う人が隣に住んでたら怖い」と思う私の不安感を
比較することは難しい。
けれど、この二つの感情の質感の違いのようなものが伝えたいと思った。
※
批判を受けて、「差別感情は無い」といったような弁明をしていると聞く。
えっ!?「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだ」というのは差別感情じゃないと言うのか??
例えば、「LGBT当事者に部屋を売ったり貸したりしちゃいけない」という法律を作ったとしたら、
こりゃ差別だ。
政治の世界の人は、こういう法律を作る力を持っている。
そういう立場に有る人の発言であるという点が一つ問題ではある。
ただ、個人的な感情を口に出しちゃっただけで、
別に法律的にLGBTを排斥しようとしているわけではない、
という言い訳なのだろうけれど、
それならそうと具体的に述べるべきだろう。
感情的には差別している。
個人的に「イヤ」と思うことも差別にあたるかと言えば、
あたる。
なぜなら、隣人を個人としての付き合いの中で見ているのではなく、
「LGBT」という括りで見ているからだ。
人を見ないで、レッテルを見ている。
例えば私が
「政府の高官なんてこんなもんだわな」と言ったらこれは差別ということだ。
※
「他の秘書官にも聞いたがみんなイヤと言う」といった発言も有ったとさ。
身内の数人に聞いたら同調してもらえた、というだけの話だ。
子どものようなリサーチ。
「みんな持ってる」とか「みんな言ってる」は、せいぜい2人いれば使える言い回しだ。
笑うしかない。
笑うとなんだか楽しいような気がしてくる。
あはは。
※
「同性婚を法制化したら、国を捨てる人もでてくる」というようなことも言ったとか。
というわけで、この人はいづれ日本から出て行くと思う。
自分でそう言っているのだから。
どこの国へ行くのだろう。
行先によっては、日本にいるよりも叩かれると思う。
サイナラ
今ある言葉の中で、自分を指して言うのに一番しっくりくる
かなー、
と思うから、使っている。
ただ、他人から見たらそれは
トランスジェンダーだったり、レズビアンだったり、
FTMだったり、FTXだったり、ただ女性だったり、
性別不詳だったり、中性的だったり、
いろいろな言葉で表されるのだとも思う。
言葉は時代によって生まれたり消えたりする。
より細かく分けて名付けられていったりする。
細かく分けることは、「しっくりくる表現」を見付けるためには役に立つと思う。
しかし、「分ける」とはやはり差別に繋がりかねないところも有る。
差異を探して分けているのだから、自他の違いをより意識することになる。
カテゴリーを細かく分ける作業と同時に、
違いが有ることは問題ではなく当たり前のこととして受け容れるという
通念が進んでいく必要が有るのだと思う。
※
しかし、自他の違いにおおらかになれるとも限らないとも思う。
個体としての偏りが有って、他者との相性なども有る。
好き嫌いはどうしても生じる。
多様性と好き嫌いは表裏一体で、
身体性と情動は別物ではない。
※
政府の要人の発言が話題になっているようだ。
ニュースを見ないようにしている私も、
この話題を取り上げた動画を見て、知ることとなった。
具体的な発言内容を調べて、どこに問題が有るかきっちり述べることもできるけれど、
そこまではやらないことにする。
それでも何かちょっとだけでも自分の思ったことを書いておこうかな。
散発的になるけれど。
※
「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだ」というようなことを言ったという。
これを聞いて、まず当事者である私は、身の縮む思いがする。
自分の隣に住んでいる人が、このように思う人だったらと想像したら、怖い。
それは、「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだ」と思う人の不快感と、
私の「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだと思う人が隣に住んでたら怖い」と思う私の不安感を
比較することは難しい。
けれど、この二つの感情の質感の違いのようなものが伝えたいと思った。
※
批判を受けて、「差別感情は無い」といったような弁明をしていると聞く。
えっ!?「(LGBT当事者が)隣に住んでたらイヤだ」というのは差別感情じゃないと言うのか??
例えば、「LGBT当事者に部屋を売ったり貸したりしちゃいけない」という法律を作ったとしたら、
こりゃ差別だ。
政治の世界の人は、こういう法律を作る力を持っている。
そういう立場に有る人の発言であるという点が一つ問題ではある。
ただ、個人的な感情を口に出しちゃっただけで、
別に法律的にLGBTを排斥しようとしているわけではない、
という言い訳なのだろうけれど、
それならそうと具体的に述べるべきだろう。
感情的には差別している。
個人的に「イヤ」と思うことも差別にあたるかと言えば、
あたる。
なぜなら、隣人を個人としての付き合いの中で見ているのではなく、
「LGBT」という括りで見ているからだ。
人を見ないで、レッテルを見ている。
例えば私が
「政府の高官なんてこんなもんだわな」と言ったらこれは差別ということだ。
※
「他の秘書官にも聞いたがみんなイヤと言う」といった発言も有ったとさ。
身内の数人に聞いたら同調してもらえた、というだけの話だ。
子どものようなリサーチ。
「みんな持ってる」とか「みんな言ってる」は、せいぜい2人いれば使える言い回しだ。
笑うしかない。
笑うとなんだか楽しいような気がしてくる。
あはは。
※
「同性婚を法制化したら、国を捨てる人もでてくる」というようなことも言ったとか。
というわけで、この人はいづれ日本から出て行くと思う。
自分でそう言っているのだから。
どこの国へ行くのだろう。
行先によっては、日本にいるよりも叩かれると思う。
サイナラ
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