八月四日と八月六日の二日をかけて、『八月五日帖』を臨書した。
五日にはそんなこと忘れて他の事をしていた。
謝安(しゃ・あん 320-385)という人の手紙である。
7人の甥たちに、弟の謝万(しゃ・ばん)の死んだ悲しみを伝えたものだそうだ。
ひどく悲しんでいることはなんだか伝わってくる。
こんな大昔の手紙、その写真が
今はインターネットで探すと手に入るので、とてもありがたい。
しかもカラーだ。
墨書にカラーもクソも無いだろうと思うかもしれないが、
モノクロだと、墨で書いた文字の線なのか、汚れや陰なのか、わからないのだ。
昔はあの手この手で複製を作って、手本として珍重していたことを思うと、
なんと環境良いことだろう。
インターネットで古典の臨書が復興して、
書の世界が少し変わったりしないかな。
さて。
泣く、という言葉で私たちはすぐ涙を流すことを思い浮かべるんじゃないだろうか。
どうやら中国人はひと味違うんじゃないかと思う。
この手紙の中に使われている、「慟」も「号乕(號の俗字)」も「口匋」も、
「なく」意味だが、どれも涙する意味ではない。
その証拠に、さんずいなんか無い。
液体が出ていない。
口だったり号だったりと、音が出ている。
嘆き悲しんで声をあげることが、「なく」なのだ。
ハンカチなんか目元に当ててめそめそしくしくずるずるやるなんてことはしない。
おうおうと声をあげるのが、大陸的悲しみ方なのだ。
民族違うなあ。
五日にはそんなこと忘れて他の事をしていた。
謝安(しゃ・あん 320-385)という人の手紙である。
7人の甥たちに、弟の謝万(しゃ・ばん)の死んだ悲しみを伝えたものだそうだ。
ひどく悲しんでいることはなんだか伝わってくる。
こんな大昔の手紙、その写真が
今はインターネットで探すと手に入るので、とてもありがたい。
しかもカラーだ。
墨書にカラーもクソも無いだろうと思うかもしれないが、
モノクロだと、墨で書いた文字の線なのか、汚れや陰なのか、わからないのだ。
昔はあの手この手で複製を作って、手本として珍重していたことを思うと、
なんと環境良いことだろう。
インターネットで古典の臨書が復興して、
書の世界が少し変わったりしないかな。
さて。
泣く、という言葉で私たちはすぐ涙を流すことを思い浮かべるんじゃないだろうか。
どうやら中国人はひと味違うんじゃないかと思う。
この手紙の中に使われている、「慟」も「号乕(號の俗字)」も「口匋」も、
「なく」意味だが、どれも涙する意味ではない。
その証拠に、さんずいなんか無い。
液体が出ていない。
口だったり号だったりと、音が出ている。
嘆き悲しんで声をあげることが、「なく」なのだ。
ハンカチなんか目元に当ててめそめそしくしくずるずるやるなんてことはしない。
おうおうと声をあげるのが、大陸的悲しみ方なのだ。
民族違うなあ。
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