観察に徹したい。
自分の都合が挟まると、見間違う。
事実も捻じ曲げるほど、感情は感覚も支配する。
きちんと論理的に思考を重ねている、と信じていても、
そんなもん大概は、自我でしかない。
※
こう考えるようになったのに、ひとつ思い当たる事がある。
大学生を短期間やっていた。
ドイツ語学科だった。
ドイツ人の教師がいた。
思い出そう。
そうだ、
ハインリッヒ・シュタインベルクという、いかにもいかにもドイツ人の名前の教師だ。
でも、正確にはポーランド人だったんだっけな、記憶があやふやだ。
ドイツ語というのは、文法もきっちりと論理的だ。
ひとつの文の構造がしっかりできている。
言葉からして、理屈が通っている。
その先生の授業は、ドイツ語のみで行われた。
授業の始まる前に、黒板にその日の授業の文法事項やキーワードを先生が書いて行く。
この部分の予習ができていないと、授業について行けない。
ドイツでの生活を舞台にして文法を学んで行く、という
その先生の作った教科書を使っていた。
そこで、ドイツ人の生活習慣についての質問が授業中時々あった。
日本人とちょっと違うドイツ人の行動について、理由を言わされるのだ。
例えば、
「ドイツ人はなぜしょっちゅう窓を拭くのか」
という質問をされるのだ。
知るか!
まず、こう聞かれるということは、きっとドイツ人は日本人よりしばしば
窓の掃除をするのだろう。
若きハインツは日本に来て、日本人があまり窓を掃除しないのに驚いたのだろうか。
学生たちは、理由をいろいろ考える。
「ドイツは天気が悪くて暗いから、なるべく明るくするため」とか
「窓が多いから」とか
「ドイツ人はきれい好きだから」とか
「日本よりガラス窓の文化が古いから」とか
とにかく答えを捻り出す。
2、3人の答えを聞いて、先生は「違う違う!♪#$&$KNBI#==¥$!!!」
とまくし立てる。
それでも教室の中を回って、学生を当てて行く。
必死で考えて、自分の答えを言おうとして、
「Ich denke, (私が思うには・・・)」
と始めると、即刻アウトになる。
次の人に順番が回る。
「イッヒ デンケ・・・」
「ナーイン!!」
「イッヒ デンケ・・・」
「ナーイン!!」
「イッヒ デンケ・・・」
「ナーイン!!」
という不毛のやりとりをいくつかやりながら、途中で先生が何やらまくし立てる。
どうやら、「イッヒ デンケ」がもういけないようだ。と、誰かが気付く。
先生は「おまえの考えなんか聞いてない。どうしてドイツ人が窓を拭くのか聞いているのだ」
とでも言っているらしい。
これが、ドイツ人の理屈だ。
なるほど。
言っているのは推測なのだが、そうは言わず、
「○○だから」と言ったことが正しいか間違っているか、という視点になるのだ。
これは新鮮であった。
そこにある事実と、自分の頭の中にある推測と、
その違いを意識するようになった。
※
シュタインベルクという苗字だった。
ドイツ語でシュタインは石、ベルクは山、の意味なので、
先生は「石山」と日本語で名乗ることもあった。
画数が少なくてラッキーでしたな。
頭のカタい、と言ってはきっと不正確なのだろう、
ドイツ人として当たり前に論理的なだけなのだろう、
その感じに、石山という名前はぴったりだと思ったものだ。
※
友達との会話なんて、ともすると推測と推測を言い合って
どれかもっともらしい推測を事実かのように結論としてまつり上げる、
なんてことをしばしばやっている。
石山先生がそんな会話を聞いたら、どれだけ「ナーイン!」を連発するだろう。
自分の都合が挟まると、見間違う。
事実も捻じ曲げるほど、感情は感覚も支配する。
きちんと論理的に思考を重ねている、と信じていても、
そんなもん大概は、自我でしかない。
※
こう考えるようになったのに、ひとつ思い当たる事がある。
大学生を短期間やっていた。
ドイツ語学科だった。
ドイツ人の教師がいた。
思い出そう。
そうだ、
ハインリッヒ・シュタインベルクという、いかにもいかにもドイツ人の名前の教師だ。
でも、正確にはポーランド人だったんだっけな、記憶があやふやだ。
ドイツ語というのは、文法もきっちりと論理的だ。
ひとつの文の構造がしっかりできている。
言葉からして、理屈が通っている。
その先生の授業は、ドイツ語のみで行われた。
授業の始まる前に、黒板にその日の授業の文法事項やキーワードを先生が書いて行く。
この部分の予習ができていないと、授業について行けない。
ドイツでの生活を舞台にして文法を学んで行く、という
その先生の作った教科書を使っていた。
そこで、ドイツ人の生活習慣についての質問が授業中時々あった。
日本人とちょっと違うドイツ人の行動について、理由を言わされるのだ。
例えば、
「ドイツ人はなぜしょっちゅう窓を拭くのか」
という質問をされるのだ。
知るか!
まず、こう聞かれるということは、きっとドイツ人は日本人よりしばしば
窓の掃除をするのだろう。
若きハインツは日本に来て、日本人があまり窓を掃除しないのに驚いたのだろうか。
学生たちは、理由をいろいろ考える。
「ドイツは天気が悪くて暗いから、なるべく明るくするため」とか
「窓が多いから」とか
「ドイツ人はきれい好きだから」とか
「日本よりガラス窓の文化が古いから」とか
とにかく答えを捻り出す。
2、3人の答えを聞いて、先生は「違う違う!♪#$&$KNBI#==¥$!!!」
とまくし立てる。
それでも教室の中を回って、学生を当てて行く。
必死で考えて、自分の答えを言おうとして、
「Ich denke, (私が思うには・・・)」
と始めると、即刻アウトになる。
次の人に順番が回る。
「イッヒ デンケ・・・」
「ナーイン!!」
「イッヒ デンケ・・・」
「ナーイン!!」
「イッヒ デンケ・・・」
「ナーイン!!」
という不毛のやりとりをいくつかやりながら、途中で先生が何やらまくし立てる。
どうやら、「イッヒ デンケ」がもういけないようだ。と、誰かが気付く。
先生は「おまえの考えなんか聞いてない。どうしてドイツ人が窓を拭くのか聞いているのだ」
とでも言っているらしい。
これが、ドイツ人の理屈だ。
なるほど。
言っているのは推測なのだが、そうは言わず、
「○○だから」と言ったことが正しいか間違っているか、という視点になるのだ。
これは新鮮であった。
そこにある事実と、自分の頭の中にある推測と、
その違いを意識するようになった。
※
シュタインベルクという苗字だった。
ドイツ語でシュタインは石、ベルクは山、の意味なので、
先生は「石山」と日本語で名乗ることもあった。
画数が少なくてラッキーでしたな。
頭のカタい、と言ってはきっと不正確なのだろう、
ドイツ人として当たり前に論理的なだけなのだろう、
その感じに、石山という名前はぴったりだと思ったものだ。
※
友達との会話なんて、ともすると推測と推測を言い合って
どれかもっともらしい推測を事実かのように結論としてまつり上げる、
なんてことをしばしばやっている。
石山先生がそんな会話を聞いたら、どれだけ「ナーイン!」を連発するだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます