自分で知覚できないから魂を信じない。という意見を読んだ。
もっともな気もする。
※
話がいきなりズレる感じがするが、
「自分の知らないものは無いものだ。」
というのは、差別の構造の中で、危険な要素だ。
同性愛について、学校のクラスの中で話したことがある。
ある60歳くらいの男性が言った。
「でも、今まで会ったことが無い。」
だから、ちっともいないように思える。ということだ。
あのー、目の前にいるんですけど。
見方を知らないと、目の前にいるものも、そのものには見えない。
※
魂でも、霊でも、神でもいいのだが、その手のもの(失礼!)も
見方を知らないと、目の前に存在していても、見えない。
見えないから、在るということが、信じられない。
「魂を信じない」を言い換えてみると、
「魂が在ることが信じられない」
「魂が在ることを信じない」
「魂が無いと信じる」
「魂は無い」
「魂が在ると信じる人がいる」
「魂を信じる人がいる」
「魂は無いと思う」
それぞれニュアンスが違う。
魂を知覚しない人は、魂の存在は信じる信じないの問題になる。
一方、魂を知覚する人にとっては、魂は存在するものである。
信じる信じないの問題ではない。
在るのが見えているのだから。
※
ただ、信じないというところに入り込んだ人には、
存在するものも見えなくなりがちだ。
私に面と向かって「同性愛者に会ったことがない」と言うことが、
良い例だ。
※
私は、霊感が無い。
霊は、見えない。知覚できない。
しかし、在るのだと思う。
信じているのではない。
信じる信じないの問題ではなく、在る無いの問題なのだと思っているからだ。
※
私は神を信じない。
信じる信じないの問題ではなく、在る無いの問題だと思っている。
神のような、何か、力のようなものが存在するのではないか、
と、ぼんやり想像している。
※
自分に知覚できないものは信じない、無いと言うのは、
愚かなことだと思う。
なぜ私がそう考えるようになったかと言うと、
気が見えるようになってきたからだ。
日本の伝統的な鍼灸の治療では、
鍼を用いて、気に作用することで、身体に出た症状を治す。
伝統鍼灸の勉強会に行くと、先生方先輩方は
「表面の気に鍼をします」とか「ほら今そこの気が流れた」とか言う。
さも見えているかのように言っている。
と、私も思っているクチだった。
自分に知覚できないので、信じられなかったのだ。
しかし、始原東洋医学という一派に出会い、
的確な練習を積むことによって、
気を感じ取る知覚を鍛えた。
すると、見えるようになってきた。
独特の知覚なので、見えているわけではないが、
五感にたとえるなら、見えるというのが一番近いだろうか。
とにかく、今までの私にとって無かったものが、在るようになった。
在る以上、信じる信じないの問題ではない。
それは、在るとしか言いようがない。
※
私は魂を見たことがない。
どんなものかも知らない。
しかし、無いと言えない。
信じないとも言えない。
もっともな気もする。
※
話がいきなりズレる感じがするが、
「自分の知らないものは無いものだ。」
というのは、差別の構造の中で、危険な要素だ。
同性愛について、学校のクラスの中で話したことがある。
ある60歳くらいの男性が言った。
「でも、今まで会ったことが無い。」
だから、ちっともいないように思える。ということだ。
あのー、目の前にいるんですけど。
見方を知らないと、目の前にいるものも、そのものには見えない。
※
魂でも、霊でも、神でもいいのだが、その手のもの(失礼!)も
見方を知らないと、目の前に存在していても、見えない。
見えないから、在るということが、信じられない。
「魂を信じない」を言い換えてみると、
「魂が在ることが信じられない」
「魂が在ることを信じない」
「魂が無いと信じる」
「魂は無い」
「魂が在ると信じる人がいる」
「魂を信じる人がいる」
「魂は無いと思う」
それぞれニュアンスが違う。
魂を知覚しない人は、魂の存在は信じる信じないの問題になる。
一方、魂を知覚する人にとっては、魂は存在するものである。
信じる信じないの問題ではない。
在るのが見えているのだから。
※
ただ、信じないというところに入り込んだ人には、
存在するものも見えなくなりがちだ。
私に面と向かって「同性愛者に会ったことがない」と言うことが、
良い例だ。
※
私は、霊感が無い。
霊は、見えない。知覚できない。
しかし、在るのだと思う。
信じているのではない。
信じる信じないの問題ではなく、在る無いの問題なのだと思っているからだ。
※
私は神を信じない。
信じる信じないの問題ではなく、在る無いの問題だと思っている。
神のような、何か、力のようなものが存在するのではないか、
と、ぼんやり想像している。
※
自分に知覚できないものは信じない、無いと言うのは、
愚かなことだと思う。
なぜ私がそう考えるようになったかと言うと、
気が見えるようになってきたからだ。
日本の伝統的な鍼灸の治療では、
鍼を用いて、気に作用することで、身体に出た症状を治す。
伝統鍼灸の勉強会に行くと、先生方先輩方は
「表面の気に鍼をします」とか「ほら今そこの気が流れた」とか言う。
さも見えているかのように言っている。
と、私も思っているクチだった。
自分に知覚できないので、信じられなかったのだ。
しかし、始原東洋医学という一派に出会い、
的確な練習を積むことによって、
気を感じ取る知覚を鍛えた。
すると、見えるようになってきた。
独特の知覚なので、見えているわけではないが、
五感にたとえるなら、見えるというのが一番近いだろうか。
とにかく、今までの私にとって無かったものが、在るようになった。
在る以上、信じる信じないの問題ではない。
それは、在るとしか言いようがない。
※
私は魂を見たことがない。
どんなものかも知らない。
しかし、無いと言えない。
信じないとも言えない。
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