犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
犬のこと、人の心身のこと、音楽や自作のいろいろなものについて

うむ

2014年12月29日 | 椰子の実の中
自分で知覚できないから魂を信じない。という意見を読んだ。

もっともな気もする。



話がいきなりズレる感じがするが、
「自分の知らないものは無いものだ。」
というのは、差別の構造の中で、危険な要素だ。

同性愛について、学校のクラスの中で話したことがある。
ある60歳くらいの男性が言った。
「でも、今まで会ったことが無い。」
だから、ちっともいないように思える。ということだ。

あのー、目の前にいるんですけど。

見方を知らないと、目の前にいるものも、そのものには見えない。



魂でも、霊でも、神でもいいのだが、その手のもの(失礼!)も
見方を知らないと、目の前に存在していても、見えない。
見えないから、在るということが、信じられない。

「魂を信じない」を言い換えてみると、

「魂が在ることが信じられない」
「魂が在ることを信じない」
「魂が無いと信じる」
「魂は無い」
「魂が在ると信じる人がいる」
「魂を信じる人がいる」
「魂は無いと思う」

それぞれニュアンスが違う。

魂を知覚しない人は、魂の存在は信じる信じないの問題になる。

一方、魂を知覚する人にとっては、魂は存在するものである。
信じる信じないの問題ではない。
在るのが見えているのだから。



ただ、信じないというところに入り込んだ人には、
存在するものも見えなくなりがちだ。

私に面と向かって「同性愛者に会ったことがない」と言うことが、
良い例だ。



私は、霊感が無い。
霊は、見えない。知覚できない。

しかし、在るのだと思う。
信じているのではない。

信じる信じないの問題ではなく、在る無いの問題なのだと思っているからだ。



私は神を信じない。

信じる信じないの問題ではなく、在る無いの問題だと思っている。
神のような、何か、力のようなものが存在するのではないか、
と、ぼんやり想像している。



自分に知覚できないものは信じない、無いと言うのは、
愚かなことだと思う。

なぜ私がそう考えるようになったかと言うと、
気が見えるようになってきたからだ。

日本の伝統的な鍼灸の治療では、
鍼を用いて、気に作用することで、身体に出た症状を治す。

伝統鍼灸の勉強会に行くと、先生方先輩方は
「表面の気に鍼をします」とか「ほら今そこの気が流れた」とか言う。

さも見えているかのように言っている。

と、私も思っているクチだった。

自分に知覚できないので、信じられなかったのだ。

しかし、始原東洋医学という一派に出会い、
的確な練習を積むことによって、
気を感じ取る知覚を鍛えた。

すると、見えるようになってきた。

独特の知覚なので、見えているわけではないが、
五感にたとえるなら、見えるというのが一番近いだろうか。

とにかく、今までの私にとって無かったものが、在るようになった。

在る以上、信じる信じないの問題ではない。
それは、在るとしか言いようがない。



私は魂を見たことがない。
どんなものかも知らない。
しかし、無いと言えない。
信じないとも言えない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  | トップ | 貴重な感じがしなくなってき... »

コメントを投稿

椰子の実の中」カテゴリの最新記事