曽野綾子さんの『老いの才覚』を今さら、少しだけ読んだところ。
一行ごとに、自分の意見が書かれている。
あんまりたくさんの意見が書いてあるので、いちどに少ししか読めない。
だから、少しだけ読んだところ。
うなづける内容もあれば、それはちょっと違うのでは、というものもある。
ただ、自分の意見をはっきり述べることはとても大事だと感じた。
私は今43歳。
中途半端な年齢だと思っている。
上にはお年寄り。
下には子どもたち。
なんとなく、若輩の私の意見なんて、あまり価値も無く、
ひとも耳を貸さない、と思ってしまっている。
早いとこ年を取って、意見に箔が付くといいな、なんて。
いかんな。
こんなこっちゃ、年を取ったところで結局
わたしみたいなとしよりのいうことはだれもきにかけないでしょう
なんて言うようになるだろう。
今できないことはこの先もできないぞ。
周りを見渡した上で、意見を言いたいものだ。
※
曽野さんがこの本で「才覚」と呼んでいるものは、
ある場面に向かった時に自分ので対応する力
といったことのようだ。
判断力、機転、工夫、臨機応変、などと言いかえられそうだ。
この力を持たない人が現代には多い、と嘆いている。
戦争を生き抜いたはずの高齢者ですら、それを失っている、と。
友人が、私をほめてくれたことがある。
いつも、ではどうすれば良いか、と考えていて、言ってくれる、と。
そうかもしれないな。
なぜ才覚をなくしたのか。
曽野さんは問いを投げかけたら、次の行にはもう自分の答えを書く。
ものすごくテンポが速い文章だ。
説得力もある。
才覚のない老人が増えた原因は、
基本的な苦悩つまり戦争による死の恐怖や貧困による飢えや不治の病が
なくなったこと、
戦後の教育思想、
読書をしなくなったこと、と述べている。
自分のできることは自分でやり、もっと苦しんでいる人にその分の機会を回す。
そういったことには、苦悩を持っていることや、人を敬うことや、
ことばをきちんと使うことが基礎になっているというのだ。
豊かさによって失ったものがあること、
人と人との関わり方が変化してきていること、
日本の言葉が危機であること、などに共感する。
私の意見は追々書いていきたい。
一行ごとに、自分の意見が書かれている。
あんまりたくさんの意見が書いてあるので、いちどに少ししか読めない。
だから、少しだけ読んだところ。
うなづける内容もあれば、それはちょっと違うのでは、というものもある。
ただ、自分の意見をはっきり述べることはとても大事だと感じた。
私は今43歳。
中途半端な年齢だと思っている。
上にはお年寄り。
下には子どもたち。
なんとなく、若輩の私の意見なんて、あまり価値も無く、
ひとも耳を貸さない、と思ってしまっている。
早いとこ年を取って、意見に箔が付くといいな、なんて。
いかんな。
こんなこっちゃ、年を取ったところで結局
わたしみたいなとしよりのいうことはだれもきにかけないでしょう
なんて言うようになるだろう。
今できないことはこの先もできないぞ。
周りを見渡した上で、意見を言いたいものだ。
※
曽野さんがこの本で「才覚」と呼んでいるものは、
ある場面に向かった時に自分ので対応する力
といったことのようだ。
判断力、機転、工夫、臨機応変、などと言いかえられそうだ。
この力を持たない人が現代には多い、と嘆いている。
戦争を生き抜いたはずの高齢者ですら、それを失っている、と。
友人が、私をほめてくれたことがある。
いつも、ではどうすれば良いか、と考えていて、言ってくれる、と。
そうかもしれないな。
なぜ才覚をなくしたのか。
曽野さんは問いを投げかけたら、次の行にはもう自分の答えを書く。
ものすごくテンポが速い文章だ。
説得力もある。
才覚のない老人が増えた原因は、
基本的な苦悩つまり戦争による死の恐怖や貧困による飢えや不治の病が
なくなったこと、
戦後の教育思想、
読書をしなくなったこと、と述べている。
自分のできることは自分でやり、もっと苦しんでいる人にその分の機会を回す。
そういったことには、苦悩を持っていることや、人を敬うことや、
ことばをきちんと使うことが基礎になっているというのだ。
豊かさによって失ったものがあること、
人と人との関わり方が変化してきていること、
日本の言葉が危機であること、などに共感する。
私の意見は追々書いていきたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます