犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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問いかける

2016年03月30日 | 椰子の実の中
[あらすじ] 「わかる」ために「わけ」てゆくと、
部分だけを見ることに陥りがちだ。

分析して理解を進めると、木を見て森を見ない状態になる。
木のことには詳しいが、森がどうしてできているのかとんとわからない。
「わかる」ことは「わける」ことなので、ものごとがバラバラになってしまい、
全体像はかえって見えなくなるのだ。

全体を把握するためには、だから、わかろうとする以外の方法を取ると良い。
それは、問いかけを持つ、という方法だ。
疑問を持つと、そのことについて「わかる」ために、あれこれ調べたりする。
しかし、この方法では全体を見ることができなくなる。
あれこれの細部に分け行って迷い込む。

理解する作業とは別に、ただ問いかけを持ってそのまま問いを置いておく、
という方法もしかけておく。
そうすると、ある時、こたえがやってくる。

何かいい思いつきがひらめいた、という体験は誰しもあるだろう。
あれに似ている。
ぼーっとしている時や、散歩している時や、お風呂に入っている時や、寝覚めなど
ある時ふとした瞬間にストンとこたえはやってくる。

そのためには、まず問いかけを持っておくことが必要だ。
問わないことにはこたえは無い。
だから、途方もない事でもいいから、問いかけは持っておいたほうが良い。

何かについてちょっと聞いたら、それについて知っている人に会ったり、
まったく関係ないところでまたそのキーワードに出くわしたり、という
偶然が重なることがある。
これも似ている。
これも、ちょっとだけ知って、「どういうことだろう?」と思っておくことが大事だ。
思っておくと、寄ってくる。

問いかけを持ったら、忘れてかまわない。
常にそのことについてアンテナを張っている、なんて必要は無い。
ただ、問いを持っていないことについていきなりこたえが来ることは無い。
私が突然、数学のミレニアム問題が解ける、なんてことは起きないのだ。

全体についてのこたえは、大きい。
ものごとを理解する時は、事が細かくわかれて、ひとつひとつが言葉で表せる状態だが、
全体についてのこたえは、全体がドドーンと入ってくるので、イメージ的だ。
もし言葉で入ってきたら、相当うるさいだろう。
問いかけが大きいほど、こたえは非言語的なので、謎めいた印象を与えるかもしれない。
けれど、問いかけを持っていれば、いつか
宇宙の始まりだって見られるかもしれない。
まあ、言語で思考することに慣れきった現代人である私たちには、
こたえが見えてもそれと気付かないかもしれないけれど。

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