犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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ス山人

2017年03月12日 | よみものみもの
カタカナの「ス」は、私の苗字の須山の「須」の字の右下の部分からできた。
カタカナってヘンなの。

美食家、陶芸家、書家として知られた北大路魯山人は、
陶器のサインに何種類か使っているが、その中に「ロ」というのがある。
くちじゃない。ろ。
カタカナの「ロ」は「呂」からできた。
シンプル極まり無いサインだ。

私は、自分のサインに「ス山」というのを使っていた。
なんたって書きやすい。画数少ない。
小学校の先生に「このサインはあんまりじゃない?」と言われた。
フンだ。

「ロ」のことを知ったのは、私が陶芸を始めて、
「ス」と刻んでサインするようになってからだ。

それまでは魯山人なんか興味無かった。
というより、私はグルメというヤツが嫌いで、
魯山人も鼻についてしょうがない。
今は興味はあるが、やっぱり好きにはなれない。

「ロ」は、様々な技法を学んだ。
どこの窯に属してどの種類のやきものばかりを作って極める、
というのではなく、手当たり次第に模して作って習った。

私も、あれこれ勝手に真似してみて独習する癖があるので、
どこかしら共鳴する。
嫌いだけど。

図書館で、『魯山人の書』という本を見つけたので、
しかたないからちょっと読んでみた。

子どもの頃、実用書の書のテキストを買って、その一冊から学んだそうだ。
そして自分の書いた隷書を携えて上京し、
日下部鳴鶴(くさかべめいかく;1838-1922)や巌谷一六(いわやいちろく;1834-1905)などに師事するが、
鳴鶴に至っては「隷書は最後にやるものだ、楷書からやれ」ということを言われ、
独習することにしたという。

そのあたりを回想した本人の言葉が、あいかわらず傲慢的で痛快で腹立つ。

「私は十五六の頃、京都に居りまして独学的に書の研究をしきりにやって居ったのでありました。
(略)これは全く先生無しに独習でやっていたのでありました。(略)
そういうふうで私は字のうまい少年だといわれましたから、遂に日下部鳴鶴とか、巌谷一六とかいう
大家の門を叩いて教えを乞うということもしたのであります。
二三度師事してみまして、聞きました話はどうも合点がゆかないのです。
今になって考えますとそういう大家の書道の話というものは、実に幼稚だったのであります。
そうしてそれらの書家は書は上手なのではありましょうが、
その良さの意味が違うんだとわかりました。
そこで私は先生に尋ねるということなどの勇気がなくなってしまったのであります。
事実訊ねても訊ねる事は教えてもらえなかったのです。

一六居士の筆法は画を作るとき一画一画筆先をはなし改めて更に筆を入れる癖が特徴でしたが
私はそういう所が気に入りませんでした。
今考えますと字はどんな方法で書こうとよいのであります。
それをこうでなければ、ああでなければというのは書家流に堕した亜流であります。
日下部鳴鶴先生にも二度ばかり話をききにまいりましたが、
私の頭には鳴鶴先生の話がぴんとこないのでありました。
ただ技巧のことばかりしか言われないのみならず随分無理がありました。

たとえば最初どんな字体を習えばよいかと聞きますと、
楷書、行書、草書と順を追い、隷書とか篆書とかはあらゆる書を習得した後に
やるべきものだということでした。
それでは私の頭にピンとはこないのです。
そこで鳴鶴先生にも私はお別れをしたのであります。

そして私の考えました事は、現に大家と言われている人々はそもそも何に就いて
学んでいるのであるか、その根拠を確かめてみることだと私は思いまして、
支那の書道に物色の目をやっていますと、一六でも鳴鶴でも誰々の書などに拠って
研究しているとほぼ看破することができたのであります。」
(昭和8年)

それからは子ども相手に書道教室を営みながら隷書に励み、
日本美術協会に隷書の千字文を出品して優勝した。
審査員の中に一六も鳴鶴もいたということなので、
まあ、先生方も潔いことではある。



写真は、赤字印刷のプログラムに青ボールペンで書いたものを撮った写真を
まず赤の成分だけ上げて真っ赤にした昨日添えた写真を
さらに、色味を取り去ったものだ。

白地に黒い線となり、絵がよりよく見える。
弱みもあらわになる。
やめときゃよかったか・・・

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