[あらすじ] もうすぐ東京国立博物館で顔真卿展が有る。
その前にいくらかでも臨書して、知見を持っておきたい。
一年自習して一年サボった後なので、筆は重い。
顔真卿(がん しんけい 709-785)の楷書が、
今現在の楷書のお手本になっている。と言っていいのだろう。
私は、書を始めてみてやっと、楷書の成立が遅いことを知った。
なんでも始原を辿りたい癖が有るので、行草をさらりと舐めたら
隷書をやった。
隷書を理解するにはやはり更に遡らなければならない。
篆書も練習し、甲骨文字も書いてみた。
そこからまた、書の発展を追って篆隷草行と練習してみた。
時をかける書道。
楷書の元祖ってどこなのだ、と調べると、
鍾繇(しょう よう 151-230)だってことらしい。
宣示表など、いくつか臨書してみた。
小さい文字をコツコツと石に刻んだのね、という感覚。
それから、王義之(おう ぎし 303-361)の楷書。
これも小さい。
そこからちょいと時代は下って、唐の
虞世南(ぐせいなん 558-638)の「孔子廟堂碑」だの
欧陽詢(おうようじゅん 557-641)の「九成宮醴泉銘」だの
褚遂良(ちょすいりょう 596-658)の「雁塔聖教序」だのを臨書した。
どれも、非常に緊張する。
線が細くてはじめは驚いた。
しかし、親しんでくると、その緊迫感がたまらない。
細い線だが、ゆっくりと引く。
短い一画の中にも、抑揚が有る。それをよく見て、真似る。
三つの中では褚遂良が一世代下だ。
それだけでも、表現に少し自由さが有る。
そこへいくてえと、顔真卿なんざさらに100年は後だ。
あーもー自由奔放。
そして力強い。
筆をドンと置いてバッと引いてグッと止める。
後の楷書ほどそうだが、「多宝塔碑」でとっくに十分そうである。
私はね、これがちょっと嫌い。
何か、顔真卿の書というと、好き嫌いで語られることが多い気がする。
鍾繇はもちろんのこと、王義之なんて、好き嫌いで語っている場合じゃない。
書というものの基本なんだから。という風に扱われる。
なのに、顔真卿は好き嫌いを言われる。
なぜかというと、顔真卿の書には自己が出ているからなのだろう。
個性的、と言えばいいのか。
現代から見たらお手本になっているのだから、今さら個性には見えないのかもしれないが、
時代の流れに沿って見ていくと、顔真卿登場で「なんじゃこりゃ」と思う。
これが、近代的ということなのだと思う。
初唐の大家の中で一世代下の褚遂良に表れているのも、近代の芽生えなのだろうと思う。
そんなことを思いながら、「多宝塔碑」を臨書する。
まだ顔真卿節は爆発してはいない。
しかし既に「ドン、スー、グッ」のリズムは有る。
隷書や初唐の楷書と違って、ゆっくり書いているだけでは似てこない。
ときに勢いが必要だ。
あ、書を始めて一年ばかりのクソ初心者の言うたわごとですからね、全部。
ほーれ、ほんでもって例の如く「月」でつまづく。やれやれ。
その前にいくらかでも臨書して、知見を持っておきたい。
一年自習して一年サボった後なので、筆は重い。
顔真卿(がん しんけい 709-785)の楷書が、
今現在の楷書のお手本になっている。と言っていいのだろう。
私は、書を始めてみてやっと、楷書の成立が遅いことを知った。
なんでも始原を辿りたい癖が有るので、行草をさらりと舐めたら
隷書をやった。
隷書を理解するにはやはり更に遡らなければならない。
篆書も練習し、甲骨文字も書いてみた。
そこからまた、書の発展を追って篆隷草行と練習してみた。
時をかける書道。
楷書の元祖ってどこなのだ、と調べると、
鍾繇(しょう よう 151-230)だってことらしい。
宣示表など、いくつか臨書してみた。
小さい文字をコツコツと石に刻んだのね、という感覚。
それから、王義之(おう ぎし 303-361)の楷書。
これも小さい。
そこからちょいと時代は下って、唐の
虞世南(ぐせいなん 558-638)の「孔子廟堂碑」だの
欧陽詢(おうようじゅん 557-641)の「九成宮醴泉銘」だの
褚遂良(ちょすいりょう 596-658)の「雁塔聖教序」だのを臨書した。
どれも、非常に緊張する。
線が細くてはじめは驚いた。
しかし、親しんでくると、その緊迫感がたまらない。
細い線だが、ゆっくりと引く。
短い一画の中にも、抑揚が有る。それをよく見て、真似る。
三つの中では褚遂良が一世代下だ。
それだけでも、表現に少し自由さが有る。
そこへいくてえと、顔真卿なんざさらに100年は後だ。
あーもー自由奔放。
そして力強い。
筆をドンと置いてバッと引いてグッと止める。
後の楷書ほどそうだが、「多宝塔碑」でとっくに十分そうである。
私はね、これがちょっと嫌い。
何か、顔真卿の書というと、好き嫌いで語られることが多い気がする。
鍾繇はもちろんのこと、王義之なんて、好き嫌いで語っている場合じゃない。
書というものの基本なんだから。という風に扱われる。
なのに、顔真卿は好き嫌いを言われる。
なぜかというと、顔真卿の書には自己が出ているからなのだろう。
個性的、と言えばいいのか。
現代から見たらお手本になっているのだから、今さら個性には見えないのかもしれないが、
時代の流れに沿って見ていくと、顔真卿登場で「なんじゃこりゃ」と思う。
これが、近代的ということなのだと思う。
初唐の大家の中で一世代下の褚遂良に表れているのも、近代の芽生えなのだろうと思う。
そんなことを思いながら、「多宝塔碑」を臨書する。
まだ顔真卿節は爆発してはいない。
しかし既に「ドン、スー、グッ」のリズムは有る。
隷書や初唐の楷書と違って、ゆっくり書いているだけでは似てこない。
ときに勢いが必要だ。
あ、書を始めて一年ばかりのクソ初心者の言うたわごとですからね、全部。
ほーれ、ほんでもって例の如く「月」でつまづく。やれやれ。
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