昨夜は、三井ホーム時代のOB3人といっぱい飲(や)った。忘年会という意味合いではない。当時(既に10年近く前になる)を懐かしみ、なんとなく感性の合う4人が集まったというわけ。
場所は神楽坂4丁目にある「おいしんぼ」・・・正確には「京都ぎをんおいしんぼ神楽坂店」。神楽坂らしい狭い路地の石畳を、上がったり下がったりして着くところに風情がある。4人で、丸い小さいちゃぶ台を囲み飲むあたりもいい。
酒も京都らしく伏見をはじめ京都、奈良の酒ばかり。最初に「純米大吟醸」、「純米吟醸」、「特別純米」三種の“利き酒セット”が出てくるのも素晴らしい。すべて純米酒というところがいい。
利き酒セットの後は、いろんな酒を二合ずつ注文したが、お銚子ではなく大きな竹の容器で運ばれてきて、竹の柄杓(ひしゃく)で猪口(ちょこ)に注いで飲む。なかなか味なものであった。
酒はさておき、話は当然ながら三井ホームの今昔に及んだ。私はかねてから思いつづけていたのであるが、差し障りもあるのであまりしゃべらなかった次のような感想を話した。
「・・・銀行を退職して三井ホームにお世話になったのは20年前になるが、最初の感じはすこぶる良かった。ホームメーカーで大きいのは大和ハウスや積水ハウスであるが、いずれも“ハウス”という社名だ。それに反し三井ホームは社名を“ホーム”とする。これが素晴らしいと思った。ハウスはハードであり正に不動産というにふさわしい。しかしホームというのは“住居(すまい)”、“生活の場”、“リビング”などというソフトウエアを指すと思う。『ああ、三井ホームは、ハウスではなくホームを売っているのだ。素晴らしい会社だ』と思い、わくわくしたのを思い出す。・・・ただその後15年、その思いはだんだんしぼんでしまい、三井もやっぱり“ハウス屋”か? という思いで退社したのだが・・・」
この意見には3人ともほぼ同意してくれたように思う。そして、「いつから、なぜそのようになったのか?」に話は弾んだが、それをくどくど書くのはやめる。ただ、四人の一致したところは、衣食住という人間が生きる上の根源的な物を取り扱う企業には「それなりの哲学が求められるべき」こと、医療、教育などとともに、食、住は、その哲学を持たない者にやらせてはいけない、ということであった。
それらが、哲学なき利益中心主義者に委ねられてきたツケを、いま日本国民(世界の人々?)は払わされているのであろう。
断っておくが、こんな話ばかりしていたわけではない。おいしい酒と料理の話がほとんどを占めたことは言うまでもない。