「八の会」という年に一回ぐらい集まって飲む会がある。私は途中から加わったのだが十数年前からやっている会だ。技術屋さんが中心で、以前は情報交換と研鑽の場であったのだろうが、いまや第一線を退いた人が大半であるので、単に飲んで楽しむ会となったのであろう。
実に味わい深い人たちばかりだ。特に門外漢の私には、技術屋という人たちの、独特のもののとらえ方が面白く、毎年参加させてもらっている。
昨夜の会でも、隣りにいたH氏から突如「首藤さん、美味しい酒のことばかり書かないで『ダメな酒の本』を書いてくださいよ。それの方が参考になりますよ」と言われた。
そういえば、酒の本は『名酒めぐり』的な本がほとんどだ。自分自身を省みても、あちこちまわり美味しくない酒もずいぶん飲むが、それらは無視して美味しい酒についてばかり書いている。この姿勢は甘っちょろいのかもしれない。特に技術屋から見れば物足りないのだろう。
とはいえ、美味しくない酒について書くには、その酒を探して歩いて飲まねばならない。それも因果なものだ。しかもそこに書き連ねた蔵や関係者からは恨まれるであろう。それよりも、私は酒にも多様性を求め続けてきたし、それぞれの個性を重視したいと常に思っている。少々老(ひ)ねた酒でも、合わせる食によってはかえって美味しい場合すらある。
なかなか「これはダメな酒」と断じるのは難しい。それが甘いのであろうが、しかし、納豆でもくさやでも好きな人には堪らないのだ。
「月夜の夜以外は出歩かない覚悟で書きますか」とは言ってみたもの、実際に書くのはかなり難しいと思われた。しかし、酒文化発展のためにはそのような本は必要だろう。
なによりも、飲み屋でダメな酒に出会ったら「この酒はダメだ」という意思表示だけはしよう、と参加者にお願いした。少なくとも銘柄も確かめないで飲むことだけは止めよう、と話し合ったのだが・・・
それにつけても、ワインのようにボトルの提示とテイスティングを経た上で呑むかどうかを決めるという飲む人の主体性は、酒文化には絶対に必要なことであろう。