私が竹村修一先生に接したのは昭和29(1954)年から33(1958)年、ゼミナリステンして親しく学んだのはその後半2年であった。当時大分大学にはマルクス経済学系の先生は3人のみで、九州大学を経て講師として着任間もない先生は、その中核的存在として輝いていた。後に経済学部長まで勤め上げるが、講師から助教授という最も熱い時期の教鞭を受けた。
卒業後も先生を慕う学徒は多く、東京在住者だけでも最盛期は2、30人集まり、毎年「師を囲む会」を続けていた。その会は先生の死後も続いて、今年は10回忌を迎えたので、これを機に生地を訪ね墓参を行うことになったのである。
今回の同行者は総勢9名、うち3名が33年卒の同期生で、このG君とHさんと行動を共にすることとなった。
19日(日)12時45分、快晴の高知龍馬空港に降り立ちバスで高知駅に直行、夜の宴会までの時間を使って先ずは桂浜を訪ねる。G君が高知は初めてというので、桂浜とはりまや橋だけは見ておこうというわけだ。
ここの眺めはいつ見ても素晴らしい。松や砂浜の美しさもさることながら、海岸線から太平洋を望む雄大さは他に比類ない。坂本竜馬のような大きな人間が生まれた理由がわかるような気がする。
その龍馬の像が高台に建っている。遥か太平洋の彼方を見つめているとも、また江戸を見つめているとも言われている。タクシーの運転手さんの説明によれば,「昭和3年にこの地の青年が当時2万5千の寄付を集め建てた。同じく高知出身の岩崎が金を出そうと言ったがそれを断り、自分たちの手で建てた」とのこと。確かに銅像の裏にはその旨の記載があり、4名の青年の名が記されてある。
「高知の青年の心意気ですね」というと、「土佐の“いごっそう”だ」と運転手さんは胸を張った。