旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

心に残る音楽会

2007-07-13 10:15:45 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 今週の月曜日(7月9日)、『永井由里 武久源造 デュオリサイタル』という演奏会を聞いた。永井さんはヴァイオリニスト、武久さんはチェンバロ演奏者である。この珍しい組み合わせのデュオリサイタルは、かつてない印象を残してくれた。
 永井さんの体全体を使ったダイナミックな演奏は、男性を思わせる力強さの中に伸びやかな音色をひびかせ、一方、武久さんのチェンバロは控えめな音色で、その演奏姿勢ともども、どちらかといえば静謐な感じさえ受けた。その合奏が何ともいえない、これまでにあまり聞いたことのない音楽の世界へ誘ってくれた。

 武久源造さんは目が不自由である。子供のときに目の病に受け今や全盲と聞いた。これも聞いた話であるが、祖先にドイツ系の血を持つそうで、そのいでたち、演奏姿勢は、まさにゲルマン民族の威厳と日本民族の静謐を併せ持つようであった。チェンバロを演奏しながら指揮する指の動きは、ゲルギェフの指揮を彷彿させるものがあった。
 それよりも驚いたことがある。武久氏は、目が不自由でも、演台に立って自己の楽器の音を発した響き具合で、その会場の広さや人の集まり具合(会場に何人ぐらいいるかなど)が分かるという。また、常人にはとても聞き取れない音を聞くことができるようで、ある演奏中に、二階の部屋の水道の水が漏れている音が気になる、と指摘したことがあるという。
 どのような感覚を持っているのだろうか? 想像を絶する世界に住んでいる人の演奏が、冒頭に書いた「かってない印象を残してくれた」のであろう。
                               


プロの厳しさ

2007-07-11 12:07:11 | 時局雑感

 

 昨日、「甥っ子の囲碁五段昇格祝い」に参加した感想を書いたところ、いつもコメントをくれるTNさんから、「いいはなしですね」というコメントを頂いた。短い言葉の中に、いつも見守ってくれている友の友情を感じて、私は喜びをかみしめた。その喜びの延長線で、少し続きを書いておく。

 
甥がプロ棋士を目指すかどうかについては、本人はもとよりその親(私の末弟)の方が悩んだのかもしれない。成功するかどうかは全く分からない。昨日書いたように、囲碁のプロ棋士には「一年に3人」しかなれない。その頭脳があれば、それなりの大学を出て安泰な生活を送ることは保証されている、と言えるのかもしれない。
 
事実、「東大には一年に2000人入る、しかし“一年に3人しか入れない”プロ棋士の可能性があるのに、なぜそれに挑まないのか!」というのが、甥を取り巻く“選択肢”であったようだ。このような比較に意味があるのかどうかは分からない。将棋の米長名人の兄弟はみんな東大生と聞くが、その中で米長氏は「私はプロ棋士の道を選んだが、兄貴は私より頭が悪かったので東大に行った」と語ったという逸話がある。真偽のほどは知らない。またそのような言が当を得ているのかどうかも分からない。
 
しかしプロの道が、その入り口において極めて厳しいことは言を俟たない。そしてその後はいっそう厳しい道が続くのであろう。
 
甥がその道をどう歩むのか、私は知る由もないが、この祝いの席で見せた一場面に私はひそかな期待を寄せたのであった。それは・・・・・・

 その席での余興に、本人の印象に残る二つの対局の棋譜による大盤解説が行われた。その一局は、大石を捕られて完膚なきまでに負けた碁であり、もう一局は「わずか半目」でかろうじて勝った碁であった。プロの「半目勝ち」には、“余裕を持って勝った”半目も、“やっと勝った”半目も、また負けたつもりが勝っていた半目もあるのかも知らない。しかし、余裕を持って勝ったとしても、半目はいずれにせよ「最小勝利」に違いあるまい。
 
大勝した一局を誇らしげに披露することも出来たであろうが、大敗した試合と、勝ってもギリギリの試合を選んだ甥の姿に、私は「プロとしての厳しさ」を見たのであった。

 その厳しさを持って、彼が崇高な人間形成に向かうことを、ひたすら祈ってやまないのである。
                            


甥の「日本棋院五段昇格祝い」に参加して

2007-07-10 17:30:02 | 時局雑感

 

 私の甥っ子に囲碁のプロ棋士がいる。末弟の長男で首藤瞬という。中学生頃からプロを目指し、確か17,18歳のときに日本棋院東京本院に入段(初段)した。
 日本棋院のプロ棋士には年に5人しかなれない。東京本院から3名、関西支部と中部総本部から1名、それに女流棋士1名の計5名である。わが瞬君は東京本院の3名の中に入ったが、それは過去一年、院生などの手合いで得た勝率の上位3名に入ったかどうかだけで決まった。その前年、4位であったので入段できず再び一年間苦闘した結果であった。そこには泣きも情実も入る余地はない。極めて厳しい世界である。
 
その後、二段、三段と順調に昇段、四段にもそこそこ上がったがしばらく足踏み、昨年高勝率をあげて今回めでたく五段に昇段した。以前この世界では、五段以上を「高段者」と称して特別扱いしていたと言う。いはばプロ中のプロと言うわけであろう。瞬君は25か26歳と思うが、その年でいっぱしのプロ棋士になったことを、私も身内として誇りに思う。

 しかし、問題はこれからかもしれない。勝負の世界であるから技術力は欠かせないのであろうが、これから上の勝敗は、それに加えて何か「人間力」みたいなものにより決まるのではないか? 周囲はちやほやしてくるし、収入もよくなっていくだろう。そこに最大の敵、“高慢”や“慢心”が入り込むスキが生まれる。

 日々精進を重ねて欲しい。そして何よりも“立派な人間”になって欲しい。…その立派な人間というのがどのような人間なのか、未だ私にもわからないのであるが。
                     


つい手が出た焼酎「伊佐美」

2007-07-07 10:42:46 | 

 

 最近の本格焼酎ブームの牽引車の一つに「3M」(森伊蔵、魔王、村尾)がある、と書いた。しかし私には、これらの酒が有名になる前から好んで飲んでいた焼酎がある。大口市の「伊佐美」である。
 この蔵は明治32年創業と言われているので、明治18年創業の森伊蔵などより新しい蔵である。しかし私にはずーっと昔からある蔵に思え、私の中の焼酎としては「古典的な焼酎」に位置する。
 なんといってもラベルが面白い。上が満開の桜で下がたわわに実った稲である。つまり、春と秋が一緒になっている。最初はそのような面白さに惹かれたりしたのであるが、飲んで美味しくなければ続けて飲むことはしない。私にとって不思議に離れない焼酎である。
 もちろん、伊佐美ファンは私に限らない。その底辺は相当に広い。3Mに常に肩を並べている焼酎の一つである。

 一昨日、名古屋出張で栄町のUという飲み屋にぶらりと入った。初めての店であったがなかなか気に入った。日本酒のメニューに徳島の「芳水」があるので、久しぶりに味わった。
 その酒のメニューの前に、昨日も書いたようにたくさんの焼酎の銘柄が並んでいた。他店の例にもれず、筆頭に森伊蔵、次が魔王、ところがその次に伊佐美が並び、この3銘柄だけが他の焼酎の二倍近い値段となっていた。つまり別格なのである。
 私が「森伊蔵と魔王は分かるが、なぜ伊佐美を選んだか?」と板前さんに問うと、「とにかくおいしいんですよねえ」と応えた。
 つまり実力は争えないのである。私は、同じく「きりっとして美味しいから選んだ」と板前さんの言う「芳水」をたっぷり飲んだ後でもあり、そろそろ引き上げようかと思っていたが、どうしても伊佐美を飲みたくなって、ついに注文して、その夜はいささか飲みすぎた。
 いい酒というのはそのようなものであろう。
                                


本格焼酎(乙類)が勢いをつけた焼酎ブーム

2007-07-06 22:11:55 | 

 

 消費量の低下を続ける日本酒は、純米酒――特に純米吟醸酒(いわゆる本物の日本酒)などにより歯止めをかけようとしているが、焼酎は、正に本物の焼酎”本格焼酎”により、焼酎ブームを巻き起こした。
 日本酒の地酒ブームの発端となったのが、頑固に本物を追求し続けた「越乃寒梅」などの地方の小蔵であったように、質の高い焼酎ブームに先鞭を付けたのも、垂水市の「森伊蔵」など小蔵であった。農家との契約栽培による原料サツマイモ《コガネセンガン》にこだわり、昔ながらの製法でじっくり熟成醗酵させた森伊蔵の味を、本物を求める嗜好家は見逃さなかった。やがて続いた魔王村尾と「3M」などと呼ばれて、焼酎ブームを引っ張っている。ただ、プレミアムなどついて庶民の口に届かないのが気になるが・・・・・・。
 ついに焼酎の消費量は日本酒を抜いて(平成12(2000)年)、いまやデパートなどの酒売り場でも主要な位置を焼酎が占めている。多くの飲み屋でも、日本酒より先に焼酎の銘柄が並ぶ。しかも以前のように「焼酎」と掲げられるのではなく、芋、麦、黒糖、泡盛など種類ごとに、産地と銘柄が正確に書き並べられている。日本酒も「お酒」とだけ書かれていたメニューが、今や吟醸、純米、本醸造などの種類と産地、銘柄が書かれるようになったから隔世の感があるが。

 やはり本物が文化を育てていくのである。何を飲んでも同じ味の甲類焼酎やアル添三増酒では、酒屋も飲み屋も「焼酎」とか「お酒」と書くしかなかったであろうし、注文する方もそれで足りたのである。しかし、銘柄ごとに味が違い、微妙な個性を主張するようになれば、それぞれの銘柄を正確に示して初めて商売が成立し、その競合の中で質が高められていくのである。
                             


本格焼酎こそ日本民族の酒

2007-07-03 21:41:41 | 

 

 単式蒸留器による蒸留酒こそ、原材料の風味や成分、そこに係わる微生物などを取り込み、食品としての蒸留酒(酒)を造ることができる。イギリスの伝統的な蒸留酒スコッチウィスキーが、ポット・スチルなる単式蒸留器で造られてきたとおりである。
 それに反して連続式蒸留器は、ほとんどの成分を除去していってエチルアルコールだけを抽出していく・・・。前回も書いたように、エチルアルコールだけでは酒ではない。酒たるゆえんはエチルアルコールとともに残る原材料の風味成分によるのである。
 焼酎でいうならば、単式蒸留器で造られる乙類焼酎こそ酒であり、連続式蒸留機で作られる甲類焼酎は酒ではない、と思っている。問題は、酒ではないものが「甲」と呼ばれ、本物が「乙」と呼ばれていることである。日本酒造組合の『本格焼酎&泡盛小百科』は、そのいきさつを次のように書いている。

「連続式蒸留機は明治の終わり頃西洋から導入され、これからできるピュアなアルコールを水で希釈したものが「新式焼酎」と呼ばれました。それに伴って在来の焼酎は「旧式焼酎」と呼ばれることになってしまったのです。舶来崇拝の明治の風潮の中で、日本伝来のものは古臭くみえたのでしょうか。
 さらに昭和24年になって新式は甲類へ、旧式は乙類と改められ現在に至っています。新旧から甲乙へ、学校の成績ではあるまいし、これではいけないと奮起して、乙類焼酎を「本格焼酎」と呼ぶことが認められたのが昭和46年のことです」

 日本伝来の食文化の一つ焼酎も、明治以来の外国崇拝思想の犠牲になってきたようだ。しかし、本物とはいえ乙と格付けされた焼酎を、本格焼酎と名づけた気概が、未だ日本民族に残っていたことに、せめてもの救いを感じた。
 いつの日か、本格焼酎を甲類と呼ぶ日が来るであろうか・・・
                             


蒸留酒(その2)

2007-07-01 13:46:54 | 

 

 醸造酒の歴史は相当に古い。というより、いつ誕生したかは定かでないと言ったほうが良いだろう。糖分さえあれば、それに自然界に住む酵母が働きかけてアルコール発酵は起こるので、人の手が加わらなくても酒は出来たであろう。人の手によるワインやビール造りの跡も、数千年前の史実として多くの発掘調査が示している。紀元前2200年(今から4千年以上前)の中国で、当時の禹(う)王に儀狄(ぎてき)という男が酒(当然、醸造酒しか考えられない)を献じたという伝説があるので、醸造酒の歴史は古い。
 
それに反して蒸留酒の歴史は、せいぜい500600年とされている。それは、蒸留器の開発が13世紀から15世紀にかけての時期であるからだ。もちろん、蒸留知識については、人類は相当古くから持っていたようだ。モノの本によればアリストテレス(紀元前384322)は既にワインの蒸留に触れていたというので、少なくとも2千年以上前から蒸留の仕組みは分かっていたのであろう。そしてそれなりの蒸留の仕掛け(蒸留器)も持っていたに違いない。
 
しかし当時を含めそれ以降の蒸留技術は、専ら錬金術に向かったようだ。蒸留酒を生み出すには、前述したように13世紀以降の本格的蒸留器が生み出されるまで待たねばならなかった。それとて、最初は“薬としての酒(スピリッツ)”の製造が主目的であったのであるが。
 
そしてその蒸留器の発展に応じ、特に連続式蒸留器の開発により蒸留酒の質も変化していったのである。単式蒸留では、蒸発しない成分こそ除かれるが、様々な蒸発成分を通じて原材料の味や風味は残るが、連続蒸留を続けていけば純粋アルコールに近くなり、それは加水や味付けによってしか食品(酒?)にはならないからである。つまり原材料とは縁もゆかりもない酒になっていくと言えよう。
                            


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