大阪純米酒フェスティバルからの帰途、中野さん(事務局長)がある女性参加者の話をしてくれた。それは・・・、「日本酒へのこだわりは、最初は大吟醸、次に純米酒・・・その燗酒・・・生もと、山廃・・・と辿ってきた」という話。
思い起こせば、私もほぼ同じ跡を辿った。30数年前、ある蔵で飲んだ大吟醸に眼が覚めたのが発端。それから一時は、純米大吟醸、その生酒、搾りたて・・・などを求めた時期があったが、やがてその香りの強さと冷で飲む風潮(当時は吟醸酒を燗などしたら叱られたものだ)に抵抗を感じ、純米酒を求めるようになった。
それは同時に燗酒(あるいは常温酒)志向でもあり、米の味を求めることとあいまって生もと、山廃純米に進む。数年前から日本酒の感想を聞かれると、「山廃純米(もっといえば山廃純米吟醸)の燗酒が日本酒の低迷を救うのではないか・・・?」と言い続けて来た。
最近の晩酌は、ほとんど純米吟醸の常温かぬる燗である。米の味や甘味が豊かな生もと、山廃つくりならいっそう良い。
ただ、このような傾向が日本酒を高価なものにして、特殊な人たちの飲み物になるのではないか?、という前述の問題提起(昨日のブログ)は、これまであまり気にしなかったものであった。国酒たる日本酒が国民から離れてはいけない。
ただ、重ねて言うが、われわれはアル添酒や三増酒を造るなとか飲むなとか言っているのではない。当然造られ飲まれてよいが、「醸造酒としての清酒とは区別せよ」言っているだけだ。
焼酎と同じように、甲類と乙類に分ける方法もある、と言うのが高瀬さん(委員長)の妥協案である。しかしそのときは、純米酒こそを甲類と呼びたいものだと思う。