慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

徳川慶喜公お墓散策(11/12/20)

2011年12月20日 | 観光





徳川慶喜公お墓(日暮里谷中墓地)

散歩がてら、考える事(悩み)有り、慶喜公のお墓散策しました
今日は『山本五十六』の映画も散策しました

慶喜の将軍までの足跡
水戸藩邸にて第9代藩主徳川斉昭の七男として生まれる
慶喜は、学問・武術に優れ、斉昭も他家に養子には出さず、暫時手許に置いていた
一橋家の世嗣としたい、第12代将軍徳川家慶の意向が伝えられ一橋家を相続

将軍継嗣
黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、第13代将軍・徳川家定は病弱でした
慶喜本人は、将軍継嗣となることに乗り気ではなかったが跡継ぎになりました
 「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうがいい」の手紙を斉昭に送っています


戸定邸(松戸市)

将軍職
慶喜政権は、会津藩・桑名藩との連携を軸に、朝廷との関係の強化をし運営していました
慶喜は、フランスから240万ドルの援助を受け、富国強兵策の推進しました
   実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励しました
  (松戸戸定公園に遺品多々あります)


二条城(大政奉還)


薩長が武力倒幕路線を予期した慶喜は、政権返上を明治天皇にして、翌日勅許されました(大政奉還)
  慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念して、打開策を推進しました


五稜郭(北海道函館)

戊辰戦争
政権に慶喜も加わる予定だったが、薩摩藩らは慶喜を新政府から排除しました(王政復古)
慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突しました
  鳥羽・伏見の戦いで、徳川幕府軍が形勢不利になると自らが指揮をする兵に
 「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と命を下し江戸へ退却しました
慶喜は鳥羽・伏見の戦いでの撤退原因について、天皇に対峙する覚悟が無かったいわれています
結果、勝海舟と西郷隆盛の交渉で、江戸城は新政府軍に明け渡されました
彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は水戸へ向かい、新政府に対して恭順を示しました
   徳川家による政権は幕を閉じた

晩年の慶喜
戊辰戦争の終結を受けて、駿府改め静岡に居住しました
慶喜は、政治的野心は持たず、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送りました
  徳川家で一番長生きした、最後の将軍です

何か心に『考える事』ある時は、偉大な人のお墓・業績を見るのも一案と思います

コメント
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