🌸前田利長(家康に服従し「加賀百万石」を築いた)
☆父・利家の方針を180度転換
*お松の方を人質に差し出す
☆思い切った土下座外交で日本一の石高を得た
⛳前田利家の代では「百万石」達せず
☆江戸時代随一の石高を誇った「加賀百万石」
⛳前田利家の代では「百万石」達せず
☆江戸時代随一の石高を誇った「加賀百万石」
*利家の時代は前田家の所領は百万石に届いていない
☆前田利長は、父である利家の路線を大きく改変した
*家康との関係を築き直して「加賀百万石」の礎を築いた
*家康との関係を築き直して「加賀百万石」の礎を築いた
*父の利家は能登と加賀半分の大名であった
(前田一族としてはおよそ80万石)
☆利長は独立した大名であり、独立した家臣団を編成していた
☆利長は独立した大名であり、独立した家臣団を編成していた
☆前田利家の政治的な重みはたいへんなものだった
*利家は懸命に徳川家康の専横を抑え込んでいた
*利家が生きている内、豊臣政権は何とか一つにまとまっていた
*利家が病没するや、石田三成と加藤清正らの衝突が起きる
*家康はその抗争に乗じ、三成を失脚させた
☆家康は、天下分け目の大戦が政権奪取に必要だった
*敵として家康に選ばれたのが、前田利長だった
*家康は前田に謀反の動きありと、加賀征伐を呼びかけた
*家康は前田に謀反の動きありと、加賀征伐を呼びかけた
☆利長が選択したのは思い切った土下座外交
*父の利家は家康と張り合い、成果を挙げていた
⛳徳川への従属派VS豊臣応援派
☆利長の土下座外交
⛳徳川への従属派VS豊臣応援派
☆利長の土下座外交
*重臣を家康のもとに派遣して前田家の潔白を説明させた
*母のお松の方を人質として江戸の家康に差し出す
*養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠の次女)
*結婚させることを約束し徳川家と友好関係を築いた
*関ヶ原の戦いでは、前田家は加賀国内の西軍勢力を討伐した
☆前田家は、戦後の論功行賞で加賀を全て与えられた
*加賀・越中・能登を領する「加賀百万石」が誕生した
☆金沢城内での横山長知が大田長知を暗殺した大事件
*横山の背後には利長が構築した家臣団がいた
*横山の背後には利長が構築した家臣団がいた
(前者は徳川幕府への従属やむなし派)
*太田には尾張以来の利家家臣団の後援があった
*太田には尾張以来の利家家臣団の後援があった
(心情的には大坂の豊臣を応援したい派)
*利長は豊臣派の動きを抑えるために、横山に太田を斬らせた
☆家臣団が割れた原因は、利長の後継にあった
*利長には子ができなかった
*利家が側室に産ませた利常を養子として跡継ぎにした
(利家の正妻お松の方が産んだもう一人の男子、利政がいた)
☆利長は、徳川家の大切な姫を利常の妻とすると明言した
*利政ではなく利常が後継者の流れになった
⛳徳川秀忠の次女が金沢に輿入れ
☆お松の方は、能登を失って浪人した実子の利政
⛳徳川秀忠の次女が金沢に輿入れ
☆お松の方は、能登を失って浪人した実子の利政
*もう一度世に出ることを熱望していた
☆尾張以来の重臣たち、お松の方と深い絆がある
*お松の方は、反対勢力のシンボルだった
☆徳川秀忠の次女・珠姫はわずか3歳で金沢に輿入れした
☆徳川秀忠の次女・珠姫はわずか3歳で金沢に輿入れした
*利長は利常に早々に家督を譲り、富山に移った
*徳川の婿となった利常を重んじる姿勢を内外に示した
*この後、利長は大坂の陣が始まる直前に世を去った
(敬称略)
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⛳出典『THEMIS4月』
前田利家の代では「百万石」達せず
(ネットより画像引用)