武田じゅうめい 愛と誠と正義

色即是空とは、すべての存在は虚無であると知る。
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世田谷一家惨殺事件の恐怖、犯人は特定された。

2016年12月31日 | 事件

世田谷一家惨殺事件、Mの悲劇。

事件は、今から16年前、2000年12月30日午後11時30分頃、年の暮れに起こった。
まことに微力ながら、この事件を書き続けることが、この恐るべき宮沢家・惨殺事件を風化させない為に、せめてもできることだと思っている。
そして動かぬ物的証拠をつかんでいながら、なぜ警察は沈黙を守るのか。
ジャーナリストの斉藤寅が、執念で追い詰めた真犯人と事件の真相を著した力作「世田谷一家殺人事件」(2006年6月発刊、草思社)がある。

犯人は宮沢さん一家4人を無慈悲に惨殺した後も、そのまま宮沢家に居座り、翌朝の大晦日の朝、午前10時頃、玄関から出て行った。
惨殺された宮沢みきおさん一家は、主人のみきお(当時44歳)、東大卒の外資系経営コンサルタント会社員、妻の泰子(41歳)、長女・にいな(8歳)、長男・礼(6歳)の4人暮らしだった。そして隣家には(みきお)さんの父母が住み、どこにでも普通にある家庭環境であった。
さて、この事件の核心部からずばり述べたいと思う。

★犯人のプロファイル:
犯人は韓国人の男、名前は韓(ハン)。犯行当時は20代、16年経った今は40代と推察する。写真から割り出した犯人の当時の特徴は、細面、頬はこけ、三白眼、髪は無造作、唇は薄く目の下の隈が目立つ。


★犯人とする物的証拠、
宮沢家の現場に残された指紋と、ハンが大阪で住んでいた木造アパート内に残されていた指紋が一致。そのアパートの借主は韓国人のハンと判明。さらにハンが日本に来る前に住んでいたソウルの団地の部屋に残された指紋と一致した。


★状況証拠
1)犯人が現場に残した靴跡から、犯人のシューズは韓国製スラセンジャーと判明。
そのサイズ28センチは韓国内でしか販売されていなかった。

2)犯人が残した迷彩色のヒップバッグ(韓国製)の中から採取されたチタン製バリウムという化学物質は、触媒や電子部品(携帯電話の部品、コンデンサー)の塗装に使われるが、工場や研究所などの特定の場所でしか使われていない。この化学物質を製造する工場は九州に多い。ハンは九州のある大学に留学していたと見られることから、化学工場でアルバイトをした際に付着したものと思われる。

そしてハンの犯罪仲間であった複数の中国人も、その化学工場でアルバイトをしていたことが分かっている。

3)犯人のハンは宮沢家の惨殺現場で大の排泄をしている。その排泄物には消化されなかった松の実が混じっていた。松の実は韓国料理によく使われる。
(例えば参鶏タン)

4)ハンは宮沢みきおさんと格闘になり、犯人も手に傷を負い出血した。(ハンの血液はA型、宮沢さん一家にA型はいない)。

その際、犯人は自ら止血を行ったが、その方法は軍隊で用いる止血用ラテックスが使われた。そのラテックスの粉末を現場で採取。つまり徴兵制の国、韓国での軍隊経験があった。


5)現場に残された犯人のA型血液のDNA鑑定による人種分析が行われた。その結果、朝鮮系のDNAに分類されると判定された。

6)アジア系犯罪集団に属するメンバーの証言によれば、ハンは犯罪グループの中心的メンバーであり、他のアジア系外国人に対して仲間になるように勧誘を行なっていた。


★犯行の動機。
犯罪集団の情報網によると、宮沢家には金塊(インゴッド)が隠されている情報を得た。そのインゴッドを奪取するのが目的だった。


★犯行グループの実態。
韓国人のハンがリーダーになり、中国人留学生を仲間に引き入れた犯罪グループ。
その後、日本の資産家を襲った複数の強盗殺人事件は、中国人と韓国人の混成グループであることが明らかになっている。


さて、当時の惨殺現場にタイムトリップしてみよう。
宮沢家の内部情報と家族構成は前もって調べられ、綿密に襲撃計画が練られた。
ハンと中国人らは別々に、京王線千歳烏山駅を降り、世田谷区上祖師谷の宮沢家へ向かった。宮沢家の周辺は公園に囲まれ、家が3軒しかない。リーダーのハンと中国人2名の計3人は陽も落ちて暗くなった午後5時30分ころ、宮沢家の近辺で落ち合った。3人は闇に溶け込むように黒い服を着込み、宮沢家の裏手の繁みに潜んだ。
そして、いよいよ行動を開始する時がやってきた。時計を確認すると時刻は午後11時25分。ハンは、いよいよ行動開始のシグナルを身体の隅々にまで送り始めた。
それからのハンの動きは素早い。顔を黒い布で覆い、皮手袋をはめた。
まず宮沢家の裏側にある二階の風呂場の窓口に取り付いた。そしてドライバーを使ってアルミ製の窓格子を静かにはずし、風呂場の磨りガラスを万能ナイフでもって切り抜く。そこから手を差し入れてロックをはずし屋内に侵入した。

韓国軍の特殊部隊で鍛えられたハンは、ゲリラの接近戦で訓練した音を立てない歩行術を試しながら、まず3階の屋根裏部屋に上がって行った。そこには6歳の男児「礼ちゃん」が眠っていた。犯人は革の手袋をはめた指をしならせると礼ちゃんの首を一気に絞め上げ殺した。その瞬間、礼ちゃんの鼻から血潮が大きく噴き上がった。

次に二階のリビングへ降り、ドアの前に立つと、躊躇なくノブに手をかけて室内に入った。そこには母・泰子さんと8歳の娘がいた。驚いて声も出ない母娘に、ハンは無言のまま母娘に素早く接近するや、アーミーナイフを鋭く横に払い、泰子さんの胸を切り裂いた。泰子さんは倒れこみ、激しく鮮血が飛び散ったが、まだ死んではいなかった。
次にハンは娘の「にいなちゃん」に向かうと、ナイフを胸部にまっすぐに突き刺した。
その瞬間、にいなちゃんの胸から血潮が噴水のように噴き上がった。母親は必死の思いで娘をかばおうと犯人を睨みつけたが、ハンは情け容赦なく母と娘に最期のトドメを刺した。その瞬間、母親の「絶叫」が隣家まで聞こえたという。

そして、一階で仕事をしていた主人の「みきおさん」が妻の叫び声を聞き、不審な思いに駆られながら階段を上ってきた。その時、二階のドアの背後で待ち伏せしていたハンは、階段を上ってくる「みきおさん」の前に飛び出し、いきなりアーミーナイフで「みきおさん」の右胸を突き刺した。その衝撃で「みきおさん」はズドーンと階下に落下。その雷鳴のような音も隣家に聞こえたという。時間は午後11時28分頃だったと証言する。隣家は後に語った、「隕石が落ちたような音だった。けれどそれが宮沢家からのものだとは分からなかった。離れた所で、空から石が降って来たような鈍い音に聞こえた」と。しかし「みきおさん」はそれで死んだわけではなかった。
二階の階段から一階へ転落した「みきおさん」は、重傷を負いながらも必死に立ち上がり、階段を再び上り始めた。それに気づいたハンは迎え討つように階段を降り、その途中で揉み合いになった。しかし、「みきおさん」に立ち向かう余力は残されていなかった。
揉み合いの最中、「みきおさん」の指はナイフで切り落とされ、絶望の淵に追い込まれた次の瞬間、ハンの持つ鋭利なナイフは、「みきおさん」の胸と腹の境目を深く突き刺し、最期のトドメを刺した。そして、「みきおさん」は崩れるように階段を滑り落ちて行った。さらにハンは死亡した「みきおさん」を、執拗にナイフで刺したことが死体解剖の結果、判明している。

ハンの襲撃目的は、金塊12.5Kgを3本(計37.5Kg)奪うことだった。宮沢家にインゴットが隠されているという情報をつかんでいたのだ。当時のレートは1グラム約1000円で約3千7百万円。(2016年のレートなら、その4倍以上になる)
ハンは一家4人を惨殺してから、外の繁みに潜んでいた仲間の中国人2人を中に引き入れた。その後、3人は宮沢家の1階から3階までしらみ潰しに金塊を探したが、結局、発見できなかった。代わりにお金の入った財布と、棚の中にあった20万円の現金を奪った。

次にハンは、「みきおさん」のパソコンを使って、インターネットを始めたのだ。
ネットの訪問先は、埼玉県内のとある研究所、宮崎県内の化学工場、祖師谷留学生会館、そして劇団四季のホームページ(劇団四季には多数の韓国人が所属)、それからメールを一通、ある所へ送った。メールの内容は、金塊がなかったことに対するクレーム、そして勝ち誇ったような事件の報告。そのメールは送信後に消去された。
今から16年前の2000年当時、警察はインターネットに関する知識は全く無かった。知識と経験がない分、ベテラン捜査員の関心外であった。このことは重大な犯人の手掛かりを初動捜査で見逃したことになる。なぜなら外国人犯罪グループは、ネットで情報交換と連絡を行なっていたのだ。今は普通のツールだが、2000年当時はネットの初期であったという背景がある。しかしネットの足跡以外に犯人の残留品は数多くあったのだ。指紋、血液、排泄物、汗の油脂、靴跡、衣服、バッグなどの証拠品が多数残留しており、犯人逮捕は時間の問題だという油断があったといわれる。

さて主犯のハン、当初3人で襲撃する計画を立てていたが、中国人2人が怖気づいたことを察知し、一人で襲撃をすることに急遽、計画を変更したという。
そして宮沢家の親子4人は、アーミーナイフと関孫六の柳刃包丁(銀寿)で何度もメッタ刺しにされ、6歳の息子は鼻から血を大量に噴き出すほどに圧迫絞殺された。
しかも宮沢夫妻は死んだ後も、何度も執拗に刺されたことが分かっている。

ハンはハンカチ大の布の真ん中に穴を開け、そこに包丁の柄を入れ滑らないように固定した。それは訓練されたレンジャーの手口だ。布の色は黒。そしてハンは襲撃時に同じ黒い布で顔を覆っていた。そして、黒い布は現場に残されていた。
ハンは犯行後、中国人2人を家の中に引き入れ、冷蔵庫にあったバニラアイスとメロンを食べ、ペットボトルのお茶を飲み、翌朝の午前10時頃まで宮沢家に潜んでいた。

さて大晦日の朝になった。隣に住む母親が不審に思い、宮沢家の玄関を開けた瞬間、目に飛び込んで来たものは、散乱した書類の山、そしてその中から異様に白い、「みきおさん」の素足が突き出ていたという。
犯人たちは、多くの残留品、血痕、指紋、排泄物をそのままにして姿を消した。
それは犯人達が捕捉されない自信を持ち、同時に凶行を誇示する傲慢さの表れではなかったか。邪悪な蛇のような冷酷さと訓練された技能を持つテロリストの犯人像が浮かび上がってくる。フランス香水ドラッカーノアールをつけた韓国人。


★事件から16年が過ぎようとしている。日本の警察は何をやっているのか。
動かぬ物的証拠として事件現場、大阪のアパート、韓国ソウルの団地のそれぞれの場所に、犯人であるハンの指紋が発見され、すべてが一致した。だとすると、桜田門は既に犯人のプロファイリングは終了しているということだ。それにも関わらず、国際指名手配のアクションを起こさない理由とは何か。
そういう中にあって当時、共同通信が短い記事を発信した、事件から3年になろうとする2003年8月24日、日本の警視総監である石川重明が、韓国ソウルへ出張した。国際組織犯罪対策について、韓国警察のトップと会談を持ったというのが公式な理由だった。ところが警視庁桜田門の最高司令官が業務で外国を訪問するというのは前代未聞だったという。それまで東京を留守にして外国へ出かけた警視総監はいなかった。果たして、その会談の本当の中身は何だったのか。警視総監が韓国まで訪問して、トップ会談を持つ意味は何だったのか。
もし、世田谷一家惨殺事件の核心部、犯人の特定と引渡しについて秘密の交渉があったとしたら、頂上会談の意味はあったかも知れない。なぜなら血の惨劇の犯人が韓国人だとすれば、センセーショナルな国際問題になり政治問題にもなる。もし韓国側が、それを封殺しようとしたならば、桜田門を飛び越えて誰を使うのが最も効果的なのか。コリアコネクション、桜田門に睨みが利き、官邸と霞ヶ関に話を通し、闇の向こうに葬る力を持つコリアコネクション。表の顔には日韓議員連盟というコリアコネクションがある。そして歴史の裏面には、日韓の闇に深く関わったフィクサーと大物政治家が存在する。


さて当時、私は祖師谷の宮沢家の前に立った。
誰も住んでいない、おぞましい事件のあった悲劇の家。(現在、取り壊された)
陽は照っていたが北風が冷たかった。人が住まぬ家の寂寥、耳を澄ませ、目を閉じると木枯らしの音さえ、泣いているようだった。  
この事件は、決して風化させない。


(じゅうめい)

 

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