戦後史を検討する作業をしはじめている。戦後政治史とともに思想史分野では、高等教育や青年、いわゆる若者の戦後史を捉えようとするなかで、書評でであった本、ちょうど、東大ついての本が2冊ほど紹介されていたものの中の1つ。加藤典洋についてはよく知らないが、奈良女子大学の小路田泰直が編者になって、議論した本があったことを思いだして、買ってみた。
加藤が病朱で書き、亡くなって後に出版された本である。いわゆる青春時代の回想もの。1948年生まれ、戦後ベビーブーム世代で、ちょうど1968年の前後に大学にいて、大学闘争・全共闘の世代、中途半端な位置にいたことを思いつつ、引っかかったものをかかえて、戦後の政治や文化に対して批判的視座をもってきた。その原点となるのが「東大はクソだ!」という感覚をえたときのことを書いているもの。
東大闘争の記録や回想は当事者の手によって様々まとめられているかと思う。1968年前後の時代をどう捉えるのかは、『夜明け前の子どもたち』などのドキュメンタリー映画の背景となっている。
共感するところは、中途半端にしていることの価値というか、割り切れないものを抱き続けることが原動力に成ると言うことかもしれないと思った。
解説で、瀬尾育生が、加藤の「ビオス(生活)」と「ゾーエー(生存)」について書いていることに触れて、いくつかを指摘している。「生存」と「生活」、「ただ生きている(剥き出しの生)」と「言葉(意味を)を生きる」というふたつの生、古代ギリシャでは分離されて概念化されていたのが、いつのまにか「生(ライフ)」という一つの言葉となったこと、その歴史を思想として提起していったのが、加藤だと言うことになる。この問題には、いつも悩まされるのだ。
2020年も終わろうとしているのだが、「ただ読んでいる」のと「意味を読み取っている」ということの違いということについても、気づかされた。『オレの東大物語』はだだ読んでいた・・・ただ読んでいるものは多いが、今日、今年図書館で借りて読んで、このブログでも紹介した『脳男Ⅱ』を自宅で発見して、「もう読んでいた」のだなと思って、ただ読んでいたことを思い知らされた。「ただ生きている」とはいえ、そのことの重大性を再度思ってみるが、強がり、へりくつだという自分がいる。
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