歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

伊勢原市 西富岡・向畑遺跡 4000年前の漆塗り土器が出土 2/20現場見学会

2010年02月19日 | Weblog
 かながわ考古学財団による西富岡・向畑(むこうばた)遺跡(同市西富岡120)の発掘調査で、縄文時代の漆塗り土器が出土した。完全な形のものは全国的に珍しいという。
 土器は漆で赤と黒に塗り分けた壺型。谷底の水を利用したさらし場とみられる水場遺構から出土し、周辺からは水の流れを制御するための杭いや穴も見つかった。一緒に出土した木材やクルミの殻から、約4千年前とみられる。
 西富岡・向畑遺跡は、第二東名高速道路建設に伴う事前調査として、2007年4月から発掘調査を実施している。遺跡は、富岡丘陵の西側から南側にかけて南北約2kmわたって広がる遺物散布地。旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良・平安時代、中世の遺構・遺物が見つかっている。縄文時代では主に後期(4,000~3,000年前)の遺構が中心となっている。
 20日(土)午前10時~11時30分と午後1時~15時に現場見学会が開かれる。
[参考:産経新聞、かながわ考古学財団HP]

追記:2010.2.20
 2月20日に現場見学会が行われた。250名が訪れたという。
 漆塗り土器は高さ17cm、胴回り24cm、口径14cm。渦巻き文様で赤く色付けされている。




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奈良県斑鳩町・中宮寺跡 心柱立てる櫓の柱穴とみられる遺構を確認

2010年02月19日 | Weblog
 斑鳩町教委は18日、国史跡・中宮寺跡(同町法隆寺東2)で創建当初(7世紀前半)の塔の中心を貫く心柱を立てるために使った櫓の柱穴とみられる遺構が見つかったと発表した。
 古代寺院で心柱を立てるための施設跡が確認されたのは初めてという。塔の建築方法を考える上で貴重な発見としている。
 昨年8月から、室町時代に移築された現・中宮寺の東約400mにある塔の基壇跡を調査。以前の発掘調査で地表面から深さ約2.5mに心柱の礎石があることが分かっていた。今回は礎石の西側で柱穴2つ(深さ80cm超)を確認。礎石をはさんで南北にそれぞれ約5mずつ、西に約50cm離れた位置にあり、礎石の近くに建てられた櫓の柱穴とみられる。柱は基壇(約14m四方)を造る途中に抜き取られていた。櫓の底面は四角に組まれていたと考えられることから、今回発見された柱穴の西側にもさらに2か所あったとみられる。
 調査の結果、「版築」の手法で基壇を造る途中で掘られ、基壇完成後に版築で埋め戻されていたことが分かった。
 塔の基壇跡は1963、84年度にも調査。心礎の石は花崗岩製で東西1・75m、南北1・35m、厚さ0・8mの直方体。当時の地表から深さ約2mに埋められており、東側に幅約3m、奥行き3・5mの土の斜面が作られていた。この斜面に先端部分に綱などをくくり付けた柱を置き、西側に建てた櫓の頂上に滑車などを置き、綱などをかけて人力で心柱を立ち上げたらしい。
 中宮寺は飛鳥時代に聖徳太子が建立し、金堂や塔が一直線に並び、塔は絵図などから三重塔とみられ、近くにある同時代の法起寺三重塔(国宝)などとの比較により、高さは約20mと推定される。
 今回の調査では、金堂を挟んで塔の北側にあるとされる講堂の推定地も発掘したが、土が深く削られていたため、遺構は確認できなかった。10年度は南門の推定地などを調査する。
 現地説明会は21日(日)午前10時~午後4時に開かれる。
[参考:2/18毎日新聞、共同通信、2/19読売新聞]

過去のニュース・情報
 2009.4.8 奈良県斑鳩町・中宮寺 金堂跡基壇、再建時も同じ柱位置
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岐阜市岐阜公園内 織田信長公居館跡発掘調査 「手水」のための穴と池が出土

2010年02月19日 | Weblog
 岐阜市教委は18日、「織田信長公居館跡地」(岐阜市大宮町岐阜公園内)の第4次調査による発掘調査の結果、池と手を洗う「手水(ちょうず)」とみられる穴(水溜)の遺構の一部を発見したと発表した。周辺から、瀬戸・美濃産の陶器や中国磁器などが出土し、出土品から信長が岐阜城に入城した1567年から関ケ原の合戦の前哨戦で落城した1600年までの間に造られたと推定される。近くでは、巨石を用いた石組みも確認され、一帯は庭園だったとみられる。
 手水や池は、室町時代の将軍邸の庭によく見られ、革新的なイメージが強い信長が将軍家の伝統や権威も取り入れようとしていた可能性があるという。
 金華山西側の約300㎡を調査し、穴と池は山裾の斜面から見つかった。池は東西約4m、南北約5m、深さ約30cm。穴(水溜)は直径90cm、深さ30cmで、穴の周囲は石で丸く囲まれていた。池の底には砂や小石、川原石が敷かれ、周囲には護岸用の石組みがあった。
 山の斜面を流れる水が水溜に入り、そこからあふれた水が池に流れ込む仕掛けだったとみられる。手水や池は居館の奥にあり、こうした配置は、室町将軍足利義政の別荘「東山殿」などに類似しているという。
 これらの発見は、1569年に岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書簡に記されている庭や池、茶室の描写と整合性があるという。
 27日午後0時半~午後3時、調査現場が公開される。
[参考:毎日新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
 2008.10.7 岐阜市岐阜公園内 織田信長公居館跡発掘調査 茶室の遺構発見か
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松原市・羽曳野市・河内大塚山古墳 陵墓参考地を立ち入り調査、古墳が未完成の可能性が浮上

2010年02月19日 | Weblog
 去る12日宮内庁の許可を得て、日本考古学協会など16の学会16人は18日午後、大塚陵墓参考地に指定される全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳・河内大塚古墳(全長335m、松原市・羽曳野市)の立ち入り調査を行った。前方後円墳の前方部北西の渡り堤から墳丘内に入り、約2時間にかけて墳丘外縁部を歩いて全体の形状などを観察した。
 その結果、前方部が後円部のような盛り土がほとんどなく、平坦だったことが分かった。通常の古墳の前方部は山のように盛り上がっていることから、古墳が未完成で被葬者が納められていない可能性が浮上した。また、墳丘内に埴輪や葺石が存在しないことが確認された。
 河内大塚山古墳は、これまでの宮内庁の測量調査で、後円部(高さ20m)に比べて前方部(高さ5m)が極端に低いとされているが、詳細は不明だった。
 古墳は中世に城として利用された(注1)と伝えられ、築城の際に前方部が平坦に整地されたとの見方もあったが、研究者からは「大量の土を移動させた痕跡が見当たらない」との意見があり、前方部が未完成のまま造営工事が終了するという、巨大古墳では極めて異例な状況だった可能性が浮かび上がった。その一方、古墳の築造時期などに結びつく遺物などは見つからなかったという。
[参考:産経新聞、読売新聞、日経新聞]

(注1) 大塚山古墳は、中世に丹下氏によって丹下城が墳丘内に築かれた。また、江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には天満宮(大塚社)が祀られた。大正14年に陵墓参考地となり、昭和3年に立ち退いた。
 「ガウランド 日本考古学の父」/ヴィクター・ハリス、後藤和雄(編)(朝日新聞社、2003)にはガウランドが撮影した明治前期の写真が掲載されており、一文には「墳丘は一部開墾されていて、背の低い苗木らしいものが見える。墳丘の段築の有無については現在疑問視する説もあるが、写真は歴然としていて、3段の様子がよくわかる。」と記されている。

過去のニュース・情報
 2010.2.13 河内大塚古墳 陵墓参考地、18日より府内初調査
 2008.12.10 河内大塚山古墳 発掘中の陵墓参考地を考古学研究者らが見学 周濠浅かった
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