歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

没後400年 特別展 「長谷川等伯」

2010年02月26日 | Weblog
 昨日、幸運なことに、あるメディアによる招待状が抽選で当り、午後6~8時にかけて東京国立博物館平成館で「長谷川等伯」展を観て来ました。比較的ゆっくりと落ち着いて観ることが出来ました。
 昨年5月に、等伯作と認定された金碧(きんぺき)画の「花鳥図屏風」も出展されていました。等伯と名乗る以前に本名信春で活躍していた40歳前後の作品という資料的にも価値もある作品です。また、描表装を含めると高さ10mにも及ぶ「仏涅槃図」(京都・本法寺)は展示室にも垂直に飾り切れないくらい、観る者を圧倒するものでした。見所満載といった感じです。また、厚さ30mmにもなる図録は見事で、今回展示されなかった、大絵馬「弁慶昌俊(しょうしゅん)相騎図(そうきず)絵馬」(京都・北野天満宮)も載っていてうれしい限りです。 
 ところで、等伯(1539-1610)は能登七尾(現在の石川県七尾市)の能登畠山氏の家臣奥村文丞宗道の子として生まれ、長谷川宗清(1508-1571)の元へ養子に迎えられたといいます。奥村宗道は等伯が生まれた当時、能登畠山氏第7代当主・義総(1491-1545)に仕えていました。

過去の関連ニュース・情報
2010.2.25奥村家菩提寺・本延寺(七尾市)で等伯の四百一回忌法要
 七尾出身の画聖長谷川等伯の命日にあたる24日、四百一回忌法要が、生家奥村家の菩提寺である七尾市小島町の日蓮宗本延寺で営まれた。[参考:富山新聞]
 2009.12.17 五反田散策・美術館めぐり 畠山記念館ほか
 2009.5.26 長谷川等伯作と判明 個人蔵の花鳥図屏風
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熊本市・二本木遺跡群 12世紀前半に副葬した初期高麗青磁碗が県内初出土

2010年02月26日 | Weblog
 県教委は24日、熊本市春日3丁目の「二本木遺跡群」(8~14世紀)で見つかった平安時代後期(12世紀前半)の土壙墓の中から、朝鮮半島で作られたとみられる初期高麗青磁碗(直径約15・5cm、高さ約5・7cm)が副葬品として出土したと発表した。初期高麗青磁が副葬品として完全な形で見つかったのは、県内で初めてという。同青磁が墓から出土したのは、九州では福岡県の博多遺跡群の1例のみ。青磁は祭事で供物をささげるために使う供献土器と見られる。貿易陶磁器を墓に供献する風習が広がるのは12世紀後半からで、この風習を半世紀ほど早く採用していた可能性が高いという。
 発掘調査は、九州新幹線の全線開通に備えた熊本駅周辺の整備事業に伴い実施され、墓は昨年12月に見つかった。男性とみられる人骨の一部があり、頭部の近くに初期高麗青磁碗や土師器の皿など4点の副葬品が置かれていた。
 初期高麗青磁は当時、入手困難でかなり高価であったとされる。このため、二本木遺跡群に青磁を所有できる富裕者がいたことを裏付ける証拠となるほか、博多や大宰府など当時の先進地域と同遺跡の係わりが深く、中九州では最も繁栄した都市だったことも示しているという。
 27日(土)午前10時、午後1時、午後3時の3回。現地説明会が開かれる。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、共同通信]

二本木遺跡群 「平安後期・中九州で最も繁栄の証し」 初期高麗青磁の椀出土(西日本新聞) - goo ニュース

過去のニュース、情報
2007.12.20 二本木遺跡群 南宋時代の磁器大量出土
 熊本市教委文化財課は19日、肥後国府があったとされる同市春日の二本木遺跡群から、南宋時代(十二世紀半ば~後半)の中国産磁器が完全な形で43点(注1) 出土したと発表した。この時期の中国産磁器がまとまって見つかるのは珍しく県内では例がないという。
 (注1) 青磁の碗9点と皿23点、白磁の皿11点で、直径は碗が13~15・5cm、皿9・5cm。青磁は文様や形状から、中国南部の龍泉窯(りゅうせんよう)や同安窯(どうあんよう)で焼かれた磁器とみられる。
 井戸を廃棄する際の祭祀に使った後で埋められたらしい。
 中国産磁器が見つかったのは、JR熊本駅と春日小学校に挟まれた調査区域。平安時代末から鎌倉時代にかけての集落跡とみられ、近くでは八世紀に中国で作られた唐三彩の陶枕(とうちん)の破片が県内で初めて出土している。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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別府市・鷹塚古墳 古墳時代後期末の方墳と断定、同時期県内初

2010年02月26日 | Weblog
 別府大学文化財研究所の発掘調査で、鷹塚(たかのつか)古墳(同市春木5-2)が、古墳時代後期末(6世紀後半)のものとしては県内初の方墳であることが分かった。県内の方墳は、次の飛鳥時代の古宮古墳(南北12.5m、東西12m、大分市)しか確認されていなかった。
 鷹塚古墳の大きさは、調査中の周溝部分から想定すると、一辺が30mを超えるとみられ、九州最大の方墳とされる甲塚古墳(東西約46.5m、南北36.4m)、橘塚古墳(一辺約40m)(ともに古墳時代後期末、福岡県)に匹敵し、九州でも有数の大型方墳となるという。
 6世紀末に造られたとみられる鷹塚古墳は、近くにある太郎塚・次郎塚両古墳とともに、実相寺古墳群の一つ。規模の確認を目的に、2008年度から調査を実施。当初は円墳と考えられていたが、古墳の形の基礎となる列石が円形ではなく直線だったため方墳の可能性が現れた。24日の調査で北西側の角を発見し、さらにそこから北と西にほぼ直角に伸びる二つの列石を確認でき、方墳と断定した。
 大和で当時流行した家型石棺も近隣で出土したと江戸時代の記録にあり、大和政権とのつながりを想起させるという。
 現地説明会が、27日(土)午前10時から開かれる。
[参考:大分合同新聞]




キーワード: 鷹塚古墳
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筑紫野市・峠山遺跡 官道「豊後道」の一部が見つかる

2010年02月26日 | Weblog
 筑紫野市教委は25日、同市針摺東5の峠山遺跡(とうげやまいせき)で、奈良時代に大宰府政庁と大分の豊後国府を結んでいた官道「豊後道」の一部とみられる遺構が見つかったと発表した。一帯の豊後道は南路と北路が並行して走っていたことがわかっているが、新たに見つかった官道は、これまでの研究で想定していなかった場所にある。南路と北路を斜めにつなぐ形になっており、バイパスの役目を担っていた可能性もあるとしている。
 同遺跡は大宰府政庁の南東約4・3kmに位置している。
 新たに見つかった遺構は延長約16m。幅9mと大規模なもので、両脇に幅1.5~2m、深さ0.8mの側溝を備えていた。人や馬などが通った跡とみられる凹凸もある。出土した土器などから8世紀後半から11世紀(平安時代末)に使われていたとみられる。
 同遺構の東側には古代の官衙跡が出土した岡田地区遺跡などもあり、この付近が交通の要衝であったことがうかがえるとする。
 大宰府政庁からは京へつながる大宰府道、豊後国府(大分市)を結ぶ豊後道など放射線状に6本が出ていたとされる。
 現地説明会が27日午前10時と午後1時から開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

過去のニュース・情報
 2008.8.7 大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘



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