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京都市上京区 聚楽第跡 本丸の石垣遺構を確認

2012年10月07日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日、豊臣秀吉が16世紀後半に造営した「聚楽第」跡地(京都市上京区)で本丸推定地の南端約1100㎡を調査し、本丸の石垣の一部とみられる遺構が見つかったと発表した。 本丸を囲む堀の南側の北端とみられるという。
 本丸を囲む東西約200m、南北約320mの堀(幅約40m)の南側から2、3段に積まれた石垣(高さ8m)が東西約7mにわたって見つかった。 石は計11個あり、長さ約100〜70cm、幅約50cm前後。 北之丸の堀からも石垣が発掘されているが、本丸では初めて。
 北側の1か所では施設跡とみられる柱穴(縦約1・5m、横約1・2m、深さ約50cm)も見つかった。 周辺から金箔を施した瓦片3個が出土した。
 聚楽第は豊臣秀吉が1586年、平安宮跡の内裏近くに造営を始め、87年に完成した。 91年1月(注1)、天正遣欧使節を伴い帰国したイエズス会のヴァリニャーノ巡察師、ルイス・フロイスらが聚楽第で秀吉、秀次と謁見している。 ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で「壮麗で、感嘆せずにはいられない」と記している。同年12月に秀吉が養子・秀次(1568-1595)に関白職とともに譲り渡した。 93年に秀吉は嫡男・秀頼が生まれると、秀次に謀反の疑いをかけて自害させ、聚楽第を取り壊した。1595年のことである。
 桃山時代の「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)には石垣に囲まれた天守などの本丸が描かれている。
 現地説明会は7日午前10時~午後3時に開かれる。上京区西辰巳町の辰巳公園に集合。
[参考: 2012.10.4産経新聞、10.5毎日新聞、10.7読売新聞]

(注1) 天正19年1月8日(1591年3月3日)、天正遣欧使節(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)は聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽を演奏した。ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prés)の「千々の悲しみ」を演奏したと推測されている。

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キーワード: 伊東マンショ、伊東祐益
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