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多賀城市・多賀城跡 4期にわたる正殿の変遷と伊治公呰麻呂の乱の痕跡

2012年10月08日 | Weblog
 宮城県多賀城跡調査研究所が4日、国特別史跡・多賀城跡(陸奥国府跡)で、4期にわたり建て直されたとみられる正殿の規模や工法の変遷の全容が判明したと発表した。また、政庁の中心施設の正殿が、780年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失したことを示す焼土が、礎石を据えた穴の中から見つかった。
 正殿が何度か建て替えられていたことはわかっているが、呰麻呂の乱で焼失したかどうかは文献に記録が残されておらず、不明だった。正殿跡(東西27m、南北15m)の周囲では、焼土が見つかっていることから、正殿は、多賀城を襲った蝦夷の族長・呰麻呂の反乱の際に焼け落ち、その後、再建されたと推定されていた。
 わかったこと。
■1期(724~762年)
 正殿も含めすべての建物が掘立式で建てられた。 創建時の正殿は東西を軸として、掘立式ながら桁行5間、梁行3間、南側に廂(ひさし)の付く建物であった。
■2期(762~780年)
 2期以降は礎石式の正殿になり、新たに礎石を設置し直した新旧の据え穴などの痕跡を発見した。 2期の正殿は四面廂付きの建物に建て替えられた
■3期(780~869年)
 礎石を据えるために掘った穴の中からは赤黒い焼土が見つかったことから、不明確だった780年の蝦夷(えみし)の反乱(伊治公呰麻呂の乱)による火災後の3期にも建て替えられたことがわかった。礎石の周囲には、正殿の建築や解体を行う際に足場を組んだ際に掘った柱穴も多数確認され、そこからも焼土が見つかった。
 基壇の装飾が玉石から凝灰岩の切り石になった。
■4期(869~10世紀中葉)
 869年に「貞観大地震」が起こった。 たくさんの足場穴があり、第4期にも建て替えられた可能性がある。

 一般向けの現地公開会が7、9~11日に正殿跡で開かれる。いずれも午後2時から。
[参考:読売新聞、毎日新聞、宮城県HP]

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