歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

堺市・ニサンザイ古墳 周濠に柱穴29ヶ所

2013年02月21日 | Weblog
 堺市文化財課が21日、堺市北区の陵墓参考地「ニサンザイ古墳」(5世紀後半)の周濠から木造の橋脚跡とみられる柱穴29カ所が見つかったと発表した。
 柱穴は各々一辺約70~90cmの正方形で、深さは最大約1m、柱の直径は約20cm。 一部の柱穴にはクヌギ材が残っていた。
 柱穴は古墳築造の最終段階から築造直後に掘られ、周濠を渡る橋が造られ、埋葬や祭祀の際に使った後、柱はすぐに抜き取られたと推定される。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2012.11.28ニサンザイ古墳 墳丘を巡る円筒埴輪や葺石が見つかる 全長は300mを超える


キーワード: 土師ニサンザイ古墳
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太田市・中世世良田環濠集落 北の堀の堀跡を確認

2013年02月21日 | Weblog
 太田市教委が発掘調査を進める「中世世良田環濠集落」(同市世良田町)から、北の堀の主要部分を構成するとみられる堀跡が確認された。
 同集落は周囲約1キロ四方を堀で囲まれた遺構で、新田館(総持寺)や長楽寺、八坂神社などが中にある。
[参考:上毛新聞]

過去の関連ニュース・情報
2010.5.16 府中本町・武蔵国府関連遺跡 現場説明会 2010.5.15
 武蔵国府関連遺跡そばにある天台宗の寺院で叡光山佛乗院安養寺は、寺縁起では、貞観元年(859)、円仁(慈覚大師)によって開山。その後、 中興開祖尊海僧正が勅命により永仁4年(1296)に再興したと伝えられる。天台宗上州世良田の長楽寺に属すと。明治維新前は武蔵総社大國魂神社の別当寺であった。明治16年(1883)には長楽寺の末寺を離れ比叡山延暦寺の直轄寺となる。
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桜井市・箸墓古墳 天理市・西殿塚古墳 立入り調査情報

2013年02月21日 | Weblog
 昨日20日、桜井市の箸墓古墳(全長約280m、3世紀後半)と天理市の西殿塚古墳(約230m、3~4世紀)で日本考古学協会など15学協会の研究者16人が初めて立ち入り調査を行った。
 その立入り調査の結果情報が公開されてきたので、少し整理をしてみた。

 箸墓古墳の前方部は、県立橿原考古学研究所などが昨年6月に航空レーザー測量で作製した立体図から、3段構成の可能性が高いとされていた。(注1) しかし、実際の様子や後円部との関係から、前方部も4段だった可能性が高い。また、古墳全体が石で覆われていた可能性が高いとしている。 [参考:毎日新聞]
 築造時期に極めて近い土器もある。 [参考:奈良新聞]
 石敷きが前方部と後円部の間にある「くびれ部」と呼ばれる場所に広がっている。 古墳の周りに置かれることの多い埴輪が確認されなかった。

 箸墓古墳と西殿塚古墳には土木技術上の違いがみられ、強度などから箸墓が先に築造された可能性がさらに高まった。 [参考:日経新聞]

卑弥呼の墓…新たな発見は?奈良の2古墳20日に調査(産経新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
(注1) 2012.6.5箸墓古墳 ヘリで3D測量 前方部は前面側面とも3段構造

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橿原市・菖蒲池古墳 墳丘東側に、堤と石敷き遺構が見つかる

2013年02月21日 | Weblog
 橿原市教育委員会が20日、菖蒲池古墳(7世紀中頃、一辺約30mの方墳)の東側で、墳丘と堀を囲む堤とみられる盛り土や、その外側に施された石敷きが見つかったと発表した。
 墳丘周囲に堀があり、その東側(墳丘から約20m)に版築技法により造られていた盛り土を確認した。 盛り土の東側には平らな面があり、南北4.5m、東西(幅)2m以上にわたって人頭大の川原石を敷き詰めた石敷遺構が出土した。 端の部分だけ板石を埋めて仕切りとしていた。
 通常は堤までが古墳で、その外側から施設が見つかるのは極めて異例。 外堤だった場合は墳丘を中心とした墓域が東西75m以上になると推測している。
 別の調査区では、墳丘の北東角も確認した。
 堀の幅は、古墳正面の南東角では約4mもあったが、奥の北東角では約20cmしかなかった。 古墳正面(南側*)から奥(北側*)に行くほど狭くなることも判明。正面から見た際の遠近感を出す工夫とみられる。 (*南北軸は西に約12度傾いている。)
 2011年の調査でも、墳丘東側で南北5.4m分の空堀が見つかり、底面幅が南側で4.3m、北側で3.5mだったことを確認し、遠近感で奥行きを感じさせる効果を意識した可能性があることが指摘されていた。
 古墳の被葬者は飛鳥時代の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(?-649)、興志(こごし、?-649)父子ら高位の人物とみられている。
 現地説明会は23日(土)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞、NHK奈良]

過去の関連ニュース・情報
2011.8.31 菖蒲池古墳 墳丘の東西幅が判明、東側から空堀も見つかる
 墳丘の東西幅が30・6m
2010.11.26菖蒲池古墳 2段構造の方墳と判明
 一辺約30mの方墳と判明
2010.3.30菖蒲池古墳 墳丘本体を初めて発掘調査、墳丘裾で石列が出土
 円墳と考えられていたが、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとする。
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