歴歩

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能美市・和田山23号墳 5世紀末の須恵器に、「未」と「二年」の文字

2013年09月19日 | Weblog
 石川県能美市教育委員会は19日、同市和田町の国史跡「和田山・末寺山(まつじやま)古墳群」の和田山23号墳(円墳、直径22・5m)から出土した古墳時代中期(5世紀末)の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることを確認したと発表した。文字が刻まれた須恵器としては国内最古で、「未」は十二支の「ひつじ」、「二年」は時期を示していると考えられるという。 文字の普及の過程を知る一級の資料としている。
 須恵器は、1977年に和田山23号墳で行った発掘調査で、墳丘の西側周溝から約50個が出土した。 市教委が出土品を改めて調査したところ、文字があったのはこのうちの2個だった。
 小型の壺(口径10.4cm、高さ15.3cm)の側面には、2cm四方の大きさの「未」
 高坏(口径11.8cm、高さ5cm)の蓋の表面には、縦3.5cm、横1.3cmで「二年」
の文字が刻まれていた。串のような道具で刻んだとみられ、製作に携わった工人らが刻んだ可能性が高いという。
 須恵器は、古墳時代の4世紀末ごろから作られ始めた(注1)。文字が刻まれた古墳時代の須恵器は、これまでに桜生(さくらばさま)古墳群(滋賀県野洲市)で6世紀後半〜7世紀半ばの小型の壺が、また野々井古墳群(堺市)で6世紀頃と推定される鉢のような器の破片の出土例がある。
 国内での文字使用は5世紀半ばとされる。5世紀後半の稲荷山古墳(埼玉県行田市)で出土した鉄剣などに文字が記されているが、この時代は有力者が系譜や功績を記す政治目的が主と考えられていた。 今回の発見は、文字の使用が5世紀末には上流階層にとどまらず、幅広い階層に文字文化が広がっていた可能性を示すものとしている。
 須恵器は21日から10月27日まで、能美市立博物館で展示される。
[参考:時事通信、毎日新聞、共同通信、北國新聞、読売新聞、朝日新聞]

(注1)須恵器の製作開始時期については、近年では4世紀末頃からとされるようになってきているが、今回の報道では、須恵器は5世紀初頭頃に朝鮮半島から伝わった、としているものもある。

5世紀土器に「未」「二年」=広い層に文字普及か―石川県の和田山・末寺山古墳(時事通信) - goo ニュース

5世紀末の須恵器に刻まれた文字確認…国内最古(読売新聞) - goo ニュース

日本最古の文字入り須恵器か 文字普及示す 石川・能美(朝日新聞) - goo ニュース




キーワード: 和田山・末寺山古墳群、桜生古墳群
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出雲市・斐川中央工業団地予定地内から島根県内最古のガラス玉が出土

2013年09月19日 | Weblog
 出雲市文化財課が18日、斐川中央工業団地予定地内(同市斐川町直江)で弥生時代中期(約2千年前)の竪穴住居跡からのガラス玉や、奈良時代の「山陰道」とみられる道路遺構などが見つかったと発表した。
 ガラス玉は透き通った濃い青(直径4・5~6・0mm、孔径1・0~2・5mm)で、5個が出土した。島根県で最古という。
 ほかに、鉄斧(てっぷ)が出土した。
 調査地南側の標高28mの尾根上からは側溝を備えた「山陰道」とみられる道路遺構(長さ60m、幅9m)が見つかり、「波板状凹凸面」などが確認された。県内で山陰道とみられる遺構は、松江市の松本古墳(松江市乃木福富町)に次いで2例目という。
 現地説明会は21日(土)午前10時と午後1時半の2回開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、出雲市HP]

過去の関連ニュース・情報
2013.9.6 鳥取市・青谷横木遺跡 9~10世紀の因幡国気多郡の地方支配を示す出挙木簡が出土
 古代の幹線道路「山陰道」と考えられる幅9mの道路遺構を確認。
2010.9.9 鳥取市・松原1号墳丘墓 弥生後期前葉(約1900年前) 521点の青色のガラス玉が出土
2010.9.5糸島市・三雲・井原遺跡 遥か遠い海から渡った黄色と紫色のガラス小玉
 出土したガラス小玉(弥生時代後期(1-2世紀))に、国内では極めて珍しい黄色と紫色の小玉が含まれていたことが4日、分かった。
2009.11.22 富山市・百塚遺跡 弥生時代後期~古墳時代の埋葬施設 ガラス玉が出土
 方形周溝墓の埋葬部分からは、直径3~5mmの美しい鮮やかな青色のガラス小玉が約70個見つかった。

追記 2013.11.30
 奈良時代の官道「山陰道」とみられる道路遺構について、文化庁と島根県教育委員会とで協議した結果、あらためて遺構の重要性を確認し、出29日、雲市が保存する方針を固めたことが分かった。
 尾根上を縦断する形で東西30m以上にわたって延び、地盤改良工事の凹凸面や側溝もはっきりと見られる。
[参考:山陰中央日報]




キーワード:杉沢遺跡
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