松江市埋蔵文化財調査室は、同市朝酌(あさくみ)町の「魚見塚遺跡」で、奈良時代につくられた古代道路の一部が出土したと発表した。出雲国風土記に記されている官道「枉北道(きたにまがれるみち)」である可能性が高いという。
市教委の委託を受け、市スポーツ・文化振興財団が調査したところ、現地表面から深さ約1・2mの地中で、長さ20m、最大幅3mの遺構を検出。西側には側溝があり、波板状の土坑やなどが見つかった。
風土記では、枉北道は出雲国府(松江市大草町)から隠岐方面へ北に延びるとする内容の記述がある。
「自国東堺去西廿里一百八十歩、至野城橋。〔長三十丈七尺、廣二丈六尺。〕飯梨河。又西廿一里、至国庁・意宇郡家。北、十字街。即分為二道。〔一正西道。一枉北道。〕
枉北道、去北四里二百六十六歩、至郡北堺朝酌渡。」
同遺跡付近は、古代の官道「山陰道」から北へ分岐し、枉北道が通っていた場所と推定されている。
同時に出土した遺物などから、同財団は、8世紀後半頃の枉北道が敷設されていた路盤の一部だったとみている。
[参考:産経新聞、読売新聞]
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朝酌町
キーワード:朝酌町、魚見塚古墳、魚見塚遺跡
市教委の委託を受け、市スポーツ・文化振興財団が調査したところ、現地表面から深さ約1・2mの地中で、長さ20m、最大幅3mの遺構を検出。西側には側溝があり、波板状の土坑やなどが見つかった。
風土記では、枉北道は出雲国府(松江市大草町)から隠岐方面へ北に延びるとする内容の記述がある。
「自国東堺去西廿里一百八十歩、至野城橋。〔長三十丈七尺、廣二丈六尺。〕飯梨河。又西廿一里、至国庁・意宇郡家。北、十字街。即分為二道。〔一正西道。一枉北道。〕
枉北道、去北四里二百六十六歩、至郡北堺朝酌渡。」
同遺跡付近は、古代の官道「山陰道」から北へ分岐し、枉北道が通っていた場所と推定されている。
同時に出土した遺物などから、同財団は、8世紀後半頃の枉北道が敷設されていた路盤の一部だったとみている。
[参考:産経新聞、読売新聞]
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