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伊賀市・霊山寺 石造宝塔 伊行元の作と判明

2008年12月26日 | Weblog
 伊賀市教育委員会は25日、同市下柘植の霊山山頂(標高765.8m)にある鎌倉時代の石造の宝塔(霊山寺所蔵)を市文化財に指定した。
 石造宝塔は、霊山山頂にあった鎌倉時代の寺院跡から、笠(高さ40cm、縦・横62cm)、塔身(高さ41cm、直径53cmの円柱形)、基礎部分(高さ38cm、縦・横66cm)が確認された。ともに花崗岩製。下から基礎、塔身、笠、相輪で構成される宝塔のうち、相輪部分は失われ、塔身と基礎は山頂の石室にある聖観音菩薩像の台に、笠は近くの五輪塔に、それぞれ使われていた。
 市教委が各部の拓本を取るなど調査を進めた結果、基礎に「永仁3年」(1295年)、「大工伊行元」と彫られていることが確認できた。伊行元(い・ゆきもと)は行末の孫に当たるとみられる。
伊派は東大寺を復興した重源上人が中国から招致した石工の子孫とされ、大和を中心に優れた石造物を多く残した。重源上人は新大仏寺(伊賀市富永)とのかかわりが深かったため、今回の石造宝塔についても、伊派の一族が伊賀で仕事をしていたことをうかがわせるという。伊派が伊賀地域でも活躍していたことを証明する貴重な資料という。
 伊行元の作品としては、大宇陀春日神社の五輪塔(奈良県宇陀市)や藤原不比等の墓と伝わる十三重石塔(奈良県桜井市)が確認されている。
 伊派が作った石造物の発見は、昭和48年、奈良県大和郡山市の額安寺の宝篋印塔が確認されて以来、35年ぶりとなった。
 市教委は、聖観音像が現在も信仰されているため、塔は復元せず現状のまま保存する。
[参考:産経新聞、中日新聞]

霊山寺(れいざんじ)
最澄が開基したと伝えられる古刹。山頂765mに大伽藍があったらしい。江戸時代に標高395mの現在の場所に再興された。
本尊は十一面観音世音菩薩(像高1.8m)、江戸時代初期作。

参考:前出
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か

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