県教育文化財団が27日、これまで山陰最古とされていた4世紀後半の「馬ノ山2、4号墳」(湯梨浜町、国史跡)を半世紀さかのぼる古墳時代前期中葉(4世紀前半)の前方後円墳が、鳥取市本高(もとだか)の本高古墳群のうち本高14号墳で見つかったと発表した。
前方後円墳は3世紀半ばから大和王権で作られ始めたとされ、わずか数十年後には、因幡地方にも畿内と深いかかわりを持つ人物が存在した可能性が高いとしている。
国道9号(鳥取西道路)改築事業に伴う調査で、6月から本高古墳群の古墳21基のうち8基の発掘調査を行った。平野部に突き出た尾根筋に沿い、直径30mの円墳と見られていた墳丘(後円部)の東側で、長辺33mの方墳部分(前方部)が出土した。前方部は細長く柄鏡のような形で、後円部は直径30~33mの楕円形で、2段に造られ、古い前方後円墳の特徴を示していた。墳丘は、地山を削って築造しているほか、張り石がないなど山陰の独自性も見られる。また、埴輪や葺石はなく、日本海沿岸地域の初期段階の前方後円墳の特徴と共通していた。
全長63mの大きさや、鳥取平野を見渡す位置にあることから、この地方に権勢を誇っていた豪族が築いたとみられる。
石室はないが、埋葬施設が後円部の墳頂部に2基、前方部に2基、くびれ部など周辺部に2基を確認した。
くびれ部の埋葬施設から出土した、小型丸底壺(高さ9cm、幅8cm)が築造期の判断材料となった。
前方後円墳は、箸墓古墳(奈良県桜井市)などが最も古く、3世紀半ばに登場して周囲に広がっていったとされる。一方、山陰の墳墓は、3世紀前半まで四隅突出型など方墳が長く使われていた。
日本海側の前方後円墳は、関野1号墳(富山県小矢部市)、安保山2号墳(福井市)があり、本高14号墳の発見は、北陸と同時期に前方後円墳が導入されていたことを示した。 発掘調査は12月中旬までの予定。
28日午後1時から、現地説明会が開かれる。
[参考:山陰中央新報、日本海新聞、読売新聞、朝日新聞、鳥取県教育文化財団HP]
前方後円墳は3世紀半ばから大和王権で作られ始めたとされ、わずか数十年後には、因幡地方にも畿内と深いかかわりを持つ人物が存在した可能性が高いとしている。
国道9号(鳥取西道路)改築事業に伴う調査で、6月から本高古墳群の古墳21基のうち8基の発掘調査を行った。平野部に突き出た尾根筋に沿い、直径30mの円墳と見られていた墳丘(後円部)の東側で、長辺33mの方墳部分(前方部)が出土した。前方部は細長く柄鏡のような形で、後円部は直径30~33mの楕円形で、2段に造られ、古い前方後円墳の特徴を示していた。墳丘は、地山を削って築造しているほか、張り石がないなど山陰の独自性も見られる。また、埴輪や葺石はなく、日本海沿岸地域の初期段階の前方後円墳の特徴と共通していた。
全長63mの大きさや、鳥取平野を見渡す位置にあることから、この地方に権勢を誇っていた豪族が築いたとみられる。
石室はないが、埋葬施設が後円部の墳頂部に2基、前方部に2基、くびれ部など周辺部に2基を確認した。
くびれ部の埋葬施設から出土した、小型丸底壺(高さ9cm、幅8cm)が築造期の判断材料となった。
前方後円墳は、箸墓古墳(奈良県桜井市)などが最も古く、3世紀半ばに登場して周囲に広がっていったとされる。一方、山陰の墳墓は、3世紀前半まで四隅突出型など方墳が長く使われていた。
日本海側の前方後円墳は、関野1号墳(富山県小矢部市)、安保山2号墳(福井市)があり、本高14号墳の発見は、北陸と同時期に前方後円墳が導入されていたことを示した。 発掘調査は12月中旬までの予定。
28日午後1時から、現地説明会が開かれる。
[参考:山陰中央新報、日本海新聞、読売新聞、朝日新聞、鳥取県教育文化財団HP]
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