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橿原市東池尻町 「磐余池」候補地から堤や建物跡(6世紀後半)を発見

2011年12月16日 | Weblog
 橿原市教委が15日、同市東池尻町で日本書紀や万葉集に登場する「磐余池」とみられる人工池の堤の遺構と大型建物跡などが出土したと発表した。 日本書紀には、磐余池のほとりに用明天皇(?-587、在位585-587)が池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)を営んだとの記述があることから、宮殿の関連施設だった可能性もある。 これまで飛鳥時代(7世紀)より古い天皇の宮殿は確認されていなかった。
 一帯は藤原京跡の一角で、地形や「池」のつく地名の多いことなどから磐余池の候補地とされていた。 10月から市道拡幅工事に伴って発掘したところ、厚さ約1.4mの土を盛って斜面を整えた跡が見つかり、長さ81m、幅8m、高さ2mの堤跡を確認した。
 周辺の地形などから、堤は「へ」の字状に伸び、幅20~55m、高さ3m、長さ約330mと推定される。複数の谷の水を堰き止め、南北約600m、東西約700mの範囲に、手のひら形をした面積8万7500㎡の池を形成したらしい。 平安時代までは存在したとみられる。 川を堰き止めるダム式の人工池としては、狭山池(7世紀前半、大阪狭山市)が最古とされてきたが、さらに年代を遡り国内最古となる。
 さらに、堤の上で南北17.5m以上、東西4mの掘立て柱建物跡が出土した。 一緒に出土した土器から、6世紀後半ごろに建てられたとみられる。 堤と並行して築かれており、池を眺める用途だった可能性が高いとしている。
 磐余池は、天武天皇の第3皇子で、謀反を企てたとして686年に自害に追い込まれた大津皇子の辞世の句「ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(万葉集3-416)に詠まれ、橿原市や隣の桜井市周辺にあったと考えられてきた。
 現地見学会は17日(土)午前9時から開かれる。
[参考:時事通信、朝日新聞、読売新聞、産経新聞]

 橿原市教委の現地見学会資料では、「大藤原京左京五条八坊の調査」としている。

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