滋賀県教育委員会は23日、戦国武将・石田三成の居城「佐和山城」の遺跡(彦根市佐和山町)から、武家屋敷跡の堀を発見したと発表した。秀吉が用いた「桐紋」をかたどった銅製紐金具などが見つかった。佐和山城の実態を初めて明らかにする貴重な史料とする。
遺構は、江戸時代後期に描かれた「佐和山城絵図」(重文)に「侍屋敷」と記された北東側の山裾「奥ノ谷」で出土。今回の調査では幅2~3mの堀が見つかった。堀は東西約250m伸び、その堀から約20~30m間隔で溝を南北に伸ばし7区画以上に区切っていたとみられ、橋を支える杭や門柱のような木も残っていた。城郭周囲の武家屋敷は堀で区画される例が多く、今回の発掘はその実例といえる。
一緒に出土した土器類の年代から、1590年~1600年に佐和山城主だった三成の時代のものとみられる。
また、堀などから見つかった桐の文様をかたどった銅製の紐金具は、箱の留め金の一部(縦5cm、横3・7cm)とみられ、皇室の菊紋代わりに用いた「五三桐(ごさんのきり)」が刻まれていた。
堀跡から、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、珍しい陶磁器も出土し、豊臣秀吉の甥で関白を務めた秀次の失脚後、三成は秀次の家臣を多く抱えたとされ、県教委は「この屋敷に住まわせたのだろう」としている。
佐和山城は京都と東北を結んだ陸路と琵琶湖の湖上交通の要衝にあり、石田三成が、天下統一の戦略拠点として修築した。関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、城は解体され、彦根城の建築に使われた。
現地説明会は26日午前10時、午後1時半の2回。(雨天決行)
■佐和山城: 戦国時代に近江の六角氏と浅井氏が争奪を繰り広げ、織田信長も攻略した。石田三成の入城は1590年で、1600年に関ケ原の戦いで三成が敗北して3日後、落城した。徳川家康の家臣・井伊直政が城主となり、彦根城築城に伴って1604年に廃城となった。
[参考:時事通信、産経新聞、京都新聞]]
武家屋敷の堀と紐金具発見=石田三成の居城跡-滋賀(時事通信) - goo ニュース
佐和山城年表
鎌倉時代 佐保氏(宇多源氏・佐々木定綱(1142-1205)の子・時綱が佐保氏を名乗る)が築城したとされる。
戦国時代 浅井氏の支城となる。浅井氏の家来・磯野員昌が城主となる。
元亀年間(1570-1573) 磯野員昌(生没不詳)が織田信長と戦う。
1571 磯野員昌が降伏し、代わって織田信長の家臣・丹羽長秀(1535-1585)が入城する。
1582 本能寺の変後の清州会議で、戦功のあった堀秀政(1553-1590)に与えられる。
その後、堀家の転封に伴い堀尾吉晴(1544-1611)が入城した。
1590 五奉行の一人石田光成(1560-1600)が入城した。
遺構は、江戸時代後期に描かれた「佐和山城絵図」(重文)に「侍屋敷」と記された北東側の山裾「奥ノ谷」で出土。今回の調査では幅2~3mの堀が見つかった。堀は東西約250m伸び、その堀から約20~30m間隔で溝を南北に伸ばし7区画以上に区切っていたとみられ、橋を支える杭や門柱のような木も残っていた。城郭周囲の武家屋敷は堀で区画される例が多く、今回の発掘はその実例といえる。
一緒に出土した土器類の年代から、1590年~1600年に佐和山城主だった三成の時代のものとみられる。
また、堀などから見つかった桐の文様をかたどった銅製の紐金具は、箱の留め金の一部(縦5cm、横3・7cm)とみられ、皇室の菊紋代わりに用いた「五三桐(ごさんのきり)」が刻まれていた。
堀跡から、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、珍しい陶磁器も出土し、豊臣秀吉の甥で関白を務めた秀次の失脚後、三成は秀次の家臣を多く抱えたとされ、県教委は「この屋敷に住まわせたのだろう」としている。
佐和山城は京都と東北を結んだ陸路と琵琶湖の湖上交通の要衝にあり、石田三成が、天下統一の戦略拠点として修築した。関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、城は解体され、彦根城の建築に使われた。
現地説明会は26日午前10時、午後1時半の2回。(雨天決行)
■佐和山城: 戦国時代に近江の六角氏と浅井氏が争奪を繰り広げ、織田信長も攻略した。石田三成の入城は1590年で、1600年に関ケ原の戦いで三成が敗北して3日後、落城した。徳川家康の家臣・井伊直政が城主となり、彦根城築城に伴って1604年に廃城となった。
[参考:時事通信、産経新聞、京都新聞]]
武家屋敷の堀と紐金具発見=石田三成の居城跡-滋賀(時事通信) - goo ニュース
佐和山城年表
鎌倉時代 佐保氏(宇多源氏・佐々木定綱(1142-1205)の子・時綱が佐保氏を名乗る)が築城したとされる。
戦国時代 浅井氏の支城となる。浅井氏の家来・磯野員昌が城主となる。
元亀年間(1570-1573) 磯野員昌(生没不詳)が織田信長と戦う。
1571 磯野員昌が降伏し、代わって織田信長の家臣・丹羽長秀(1535-1585)が入城する。
1582 本能寺の変後の清州会議で、戦功のあった堀秀政(1553-1590)に与えられる。
その後、堀家の転封に伴い堀尾吉晴(1544-1611)が入城した。
1590 五奉行の一人石田光成(1560-1600)が入城した。
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