昨年11月1日の新聞(ニュース)で、大坂城三の丸跡の北辺から陶器・魚の骨が大量出土したとの報道がされた。
17世紀初め慶長年間後半のものとみられ、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅びる直前、大規模な宴会が開かれたことがうかがえるという。
白木の箸は432膳分と推測され、当時の宴席では本膳、二の膳など各膳毎に箸を4、5回変えたとされ、出席者は100人近くと推測。
出土した器は国産陶器が主で、志野焼、唐津焼の向付、備前焼の茶入れなど。マダイ、シイラなど魚の骨、シカなど動物の骨、サザエ、ハマグリ、アワビなど貝類も発見された。
「鼠志野」の向付は、専門家の研究で1605年以降に生産されたとされる。
会席料理のような宴会の食事の痕跡で、一度に捨てられたとみられる。
当時の大名らの宴席については、豊臣秀吉が侘び茶の影響で「二汁三菜」と定め、簡素化されていたが、秀吉死後は、大名茶人の古田織部が「侘びと言っても、あまり粗末なものを出すものではない」として料理や器に工夫を凝らした。出土した器や多様な食材は織部が工夫したという慶長年間の会席料理の特徴に合致するとしている。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
写真は出土品のうち器の一部。中ほどの薄手の絵唐津も品がよい。
17世紀初め慶長年間後半のものとみられ、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅びる直前、大規模な宴会が開かれたことがうかがえるという。
白木の箸は432膳分と推測され、当時の宴席では本膳、二の膳など各膳毎に箸を4、5回変えたとされ、出席者は100人近くと推測。
出土した器は国産陶器が主で、志野焼、唐津焼の向付、備前焼の茶入れなど。マダイ、シイラなど魚の骨、シカなど動物の骨、サザエ、ハマグリ、アワビなど貝類も発見された。
「鼠志野」の向付は、専門家の研究で1605年以降に生産されたとされる。
会席料理のような宴会の食事の痕跡で、一度に捨てられたとみられる。
当時の大名らの宴席については、豊臣秀吉が侘び茶の影響で「二汁三菜」と定め、簡素化されていたが、秀吉死後は、大名茶人の古田織部が「侘びと言っても、あまり粗末なものを出すものではない」として料理や器に工夫を凝らした。出土した器や多様な食材は織部が工夫したという慶長年間の会席料理の特徴に合致するとしている。
[参考:読売新聞、朝日新聞]
写真は出土品のうち器の一部。中ほどの薄手の絵唐津も品がよい。
是非見に来てください。
楽しみに待ってます。