涌谷町教委は、「城山裏土塁跡」で昨年から今年にかけて、奈良~平安前期(8~9世紀)の長さ450mにわたり二重、三重になった土塁構造を確認したと発表した。
確認した三重土塁は、推定で幅、高さとも2~3mとみられる。最も内側の土塁は築地塀だったという。二重土塁の部分も土塁と築地塀の構成とみられ、三重土塁を合わせた幅は約20mになる。
一連の土塁構造は以前、数百m東側で見つかった土塁跡に繋がるとみられ、総延長が1km以上になるのは確実という。
二重、三重の長大な土塁は、「蝦夷(えみし)」に対する堅固な備えとみられ、土塁の内側(南側)には所在地不明だった小田郡家の可能性があるとする。
[参考:毎日新聞]
確認した三重土塁は、推定で幅、高さとも2~3mとみられる。最も内側の土塁は築地塀だったという。二重土塁の部分も土塁と築地塀の構成とみられ、三重土塁を合わせた幅は約20mになる。
一連の土塁構造は以前、数百m東側で見つかった土塁跡に繋がるとみられ、総延長が1km以上になるのは確実という。
二重、三重の長大な土塁は、「蝦夷(えみし)」に対する堅固な備えとみられ、土塁の内側(南側)には所在地不明だった小田郡家の可能性があるとする。
[参考:毎日新聞]
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