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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土

2008年11月11日 | Weblog
 県教委は10日、琵琶湖北端の塩津港遺跡(西浅井町)から平安時代後期(12世紀)ごろに作られた木製の男神像2体と女神像3体計5体が出土したと発表した。同遺跡では昨年、神への誓約文である「起請文」が書かれた木簡55本が出土している。
 神像が出土したのは青木遺跡(島根県出雲市)の1体に次いで2例目で、一度に5体も見つかったのは初めてという。
 神像はご神体と同様に扱われ、本殿の中にあり神官さえ見ることができないとされていた。
 神像は高さ10.5-15cm。服装から3体は女神像とみられる。男の神像のうち1体は平安貴族の礼装で、冠を頂き、手を胸元で合わせた格好をしている。女神像は大袖の袍(ほう)をまとい、髪を肩下まで垂らす。神道には偶像を礼拝する習慣がなかったが、6世紀に伝来した仏教の影響で奈良時代末ごろから神像が作られ始めた。
 瓦や檜皮(ひわだ)のほかに、幣、しめ縄、土師器、土器などの祭祀跡も見つかり、当時の神社信仰の姿を総合的に知ることができる貴重な遺跡とする。鎌倉時代の「春日権現験記絵」に描かれたお祓いの様子と同じように、3本の幣串(へいぐし)としめ縄、土師器皿が堀の中か出土した。
 本殿跡がある区画は、東西約50m、南北約50m。周囲に堀を巡らし、拝殿、鳥居柱、神泉の跡もあった。堀から、仏堂や神殿の柱などを飾る「華鬘(けまん)」や卒塔婆も出土し、神仏習合の実態がよくうかがえる。
 華鬘は仏堂の柱などにかけた団扇型の装飾仏具。花輪を贈るインドの習俗がルーツとされ、中央に垂らした2本の結びひもの左右に唐草文様を透かしたデザインの金属製が多いが、見つかったのは片方の結びひもの部分で中央に据える紐の結び目や先端の房飾りの部分、長さ18・5cm。房には漆のようなものが付着しており、金箔が張られていた可能性があるという。
 県教委によると、最も古い作例は奈良市・唐招提寺の牛皮華鬘(奈良時代末期―平安時代初期、重文)。木製品としては、これまで鎌倉時代に作られた奈良市・霊山寺の華鬘(重文)が最古だった。
 塩津は古くから北陸などの物資を京都へ運ぶ琵琶湖水運の要衝で、平安時代の延喜式に塩津神社の名が見える。
 県教委は、2006年から約3000㎡を調査しているが、今年度も鎌倉や室町時代の遺物は検出されず、遺跡は12世紀後半に突然、土地利用が終わったことが決定的となった。ご神体である神像が堀に放置されたような状態で見つかったこと、瓦や檜皮など建物部材と共に見つかったことなどから、地震などで神殿が崩壊した際に堀に埋まったのではないかとみている。
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。
 15日午後1時半からの現地説明会が開催される。 
[参考:時事通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、中日新聞]
平安時代の神像5体=神社跡を裏付ける-「起請文」の塩津港遺跡・滋賀(時事通信) - goo ニュース

コメント
 元暦2年(1185) 7月9日に大きな地震があったことは、「山槐記」のみならず、「吾妻鏡」、「玉葉」(九条兼実)、「愚管抄」」(慈円)、「吉記」(藤原経房)などに記されている。京都・近江で大被害を受けている様子がうかがえる。

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