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扶余・臨江寺址 百済時代の彩色壁画彫刻が出土

2009年07月02日 | Weblog
■2009-03-08聯合ニュースの記事に、国立扶余博物館が久しぶりに扶余邑懸北里(현북리)臨江寺址(임강사지)の発掘調査を始めると出ていた。
以下要約
 博物館が発掘候補地として選んだところは白馬江が漂い流れる寺の跡地。1982年8月3日に周辺2万5千665㎡が忠清南道記念物第34号と指定された。この遺跡はいろいろな面で百済時代の寺である王興寺址と似ている。
 百済時代に、この寺址の名前が何であったかは定かではない。 臨江寺という名前はここに「臨江院」という駅伝施設が設置されたという朝鮮時代記録に由来する。臨江は文字どおり川に隣接した地域という意味だ。
 臨江寺址に対しては1964年10月25日から11月4日まで東国大博物館が境内約60坪を調査したことがあった。
 当時の調査で建物跡1基(5間×4間)が確認され、塑造像30点余り、蓮華文軒丸瓦、鴟尾彫刻、塔相輪部などが収集された。(この遺物は現在東国大博物館が所蔵中。)
 その後、2006年12月~翌年2月まで、忠清南道と扶余郡がこの一帯に対する精査を実施した。調査結果、臨江寺区域は現在の指定区域よりはるかに広い範囲(11万9千720㎡)に分布すると推定されて、合わせてその近隣では瓦窯の焼き跡と古墳群、その他遺物残跡が存在することが明らかになった。
 このような発掘成果と地表調査結果を基に2ヶ月間、試掘および発掘調査を行う予定だ。

■そして、昨日2009-07-01聯合ニュースに、その調査状況が記された。
 発掘調査により、百済時代の寺刹壁画が、たとえ小さく割れた一部状態であろうともその姿を表わした。
以下要約
 国立扶余博物館は1日、去る4月23日以後、忠南扶余郡扶余邑縣北里51-2番地一円に所在する古代寺刹の場所「臨江寺址」を発掘調査し、下記遺物が出土したと発表した。
① 百済時代遺物であることが明らかな彩色壁体彫刻(채색 벽체 조각)数十点が出土。
 壁体彫刻はA-1区域と命名した百済時代建物跡内で百済蓮華文瓦当、同時期の平瓦類とともに多量に出土したので、百済時代の壁画遺物に間違いないとする。
 百済最後の首都扶余から出土した百済時代壁画片は、1942年に扶蘇山寺の跡地からの出土品がある。(ただし、出土経緯不明)
 百済絵画史研究の重要な資料になるという。
② 方形礎石(방형 초석)と円形柱座礎石(원형주좌 초석)のある百済時代大型建物跡が現れ、併せて百済時代の各種瓦類が出土。
 方形礎石は円形柱座礎石に比べて60㎝ほど低いところに位置するので、直接柱を支える石でなく礎石の下をまた支える礎盤石(초반석)である可能性が高い。
 百済特有の建築技法に選ばれる礎盤石は、益山弥勒寺址東金堂および西金堂でも確認された。
 この建物跡は、長軸20.9m、短軸14.7m(正面3間、側面2間)の規模までは確認された。柱間距離は正面が4.8m、側面は3.6mであった。このうち、正面柱間距離は益山王宮里寺址(익산 왕궁리사지)金堂の中央間横幅と一致するという点が注目されるという。
 調査により、さらに規模が大きくなる可能性があるとみている。
③ 金銅製装飾片(금동제 장식편)1点が出土。
④ この建物跡前面に広く敷かれた瓦積層(와적층)が確認された。もう一つの建物跡が存在する可能性が高くなり、伽藍配置の把握に重要な糸口になると推測される。
[参考:聯合ニュース]

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