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韓国浦項市北区興海邑中城里・浦項中城里新羅碑 最古の新羅碑石と確認

2009年09月07日 | Weblog
 今年5月に浦項市北区興海邑中城里で発見された、新羅時代の碑石が最古の新羅碑と確認された。

[発見からこれまでの経緯]
 2009.05.上旬 興海邑学城里(학성리)の道路開設工事現場の端に残された扁平な石を住民(金憲道氏)が見つけ、数日間も石がそのまま放置されていたので、家に移して使おうと洗浄しているうちに文字が現れた。(11日)
 2009.05.13 金氏が浦項市に申告することによって、この碑が知られることになった。以降、文化財庁に報告して、文化財庁ではこの碑の安全な管理と保存処理などのために国立慶州文化財研究所関係者を現場に派遣して、実態調査した後、研究所で保管するように措置した。
 2009.05.15 聯合ニュースなどが報じる。この碑は、不定形の花崗岩(最大長104㎝、最大幅49㎝、厚さ12~13㎝、重さ115kg)の片面にだけ印刻され、碑の下段部に約20㎝程度余白があるだけで、上段部まで字がいっぱい刻んでいる。全12行、約200文字が確認され、当初「浦項学城里碑」(仮称)と呼ばれた。
 碑文には、「阿干支」(新羅第17官中6官など)の「干支」等の字が確認され、特に最初に書かれている「辛巳」は、この碑が建設された時期を示すもので、碑の内容からみると6世紀(辛巳年は501年、561年)ものと推定されるとしていた。 ただし、561年に建設された「昌寧真興王拓境碑」等に「阿尺干」、「沙尺干」等で表記されている官等名がこの碑では「阿干支」、「沙干支」等と現れることから、501年である可能性が高いとみられた。
 碑が発見された地点は、1989年に発見された「迎日冷水里碑」(国宝第264号、503年と推定)が発見された地点から東に約8km離れたところにある。
 2009.09.01 朝鮮日報が、「現存最古の新羅碑は財産紛争と関連した判決内容を書いた」という調査結果を報道。
 2009.09.02 国立慶州博物館で一般公開される。
 2009.09.03 国立慶州文化財研究所が慶州普門団地内ドリームセンターで、この碑石の発見記念学術大会を開催した。

[これまでに、わかったこと]
 片面に203字の漢字が陰刻で彫られている。
 この碑石は発見当時には「学城里」と報告されたが、発見地点が学城里でなく中城理(중성리)と確認され、名称が「浦項中城里新羅碑」と変更された。中城里は1989年冷水里新羅碑が発見された地点から東に約8.7km程度離れた所にある。
 碑文では王の教示を意味する「教」とか新羅6部の一つの沙喙部、村落の名前である「古利村」、官職の中の一つの「道使」とか「使人」、新羅17官のうち6番目の阿干支など「干支」が確認される。
 特に書かれた「辛巳」年から、作られた時期は501年または441年と推定され、碑文の内容が「迎日冷水里碑」と同様な財産と関連した訴訟の判決文と確認されたことから501年(智証王2年)の可能性が高いとみられている。現地人などに、後世に警告を示す内容を記載して建てたとみられる。
 碑文は「辛巳□□中折盧'□...」と記されている。解読文は全文が国立慶州博物館ホームページで公開されている。
[参考:聯合ニュース、朝鮮日報]

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