市教育委員会は20日、同市加納丸之内の国指定史跡「加納城跡」発掘調査で新たな発掘があったことを発表した。
①昨年から今年3月までの調査で、枡形の空間と本丸の境にあった大手櫓門の付近で石垣(長さ約7m)を発掘。石垣で区切られた部分を特定できたため、櫓門の南北方向の規模が約11m、東西方向約6.6mであるとわかった。
櫓門は城主が居を構える本丸に敵が攻めてきた際、閉め切るために設置された。敵を入り口の空間に閉じ込め、四方から挟み撃ちする仕組みだという。
②出枡形(でますがた)と呼ばれる平たんな部分は南北に約30m、東西に約18mに延びた構造だと発表した。
市教委によると、加納城の本丸は堀に囲まれ、上から見ると凸形で、本丸に通じる入り口になっている。
②集水桝とみられる方形に組んだ石と、「一の門」の柱を支えた礎石である可能性がある河原石も見つかった。二の丸方面から本丸に通じる「高麗門」の可能性があるという。
加納城は、関ヶ原の合戦直後の慶長6年(1601年)に、大坂方への備えの拠点として、徳川家康が本多忠勝に築城を命じたとされる。初代城主は家康の娘婿・奥平信正。
市教委は22日午後1時から、現地説明会を開催する。問合せは、市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所へ。
[参考:中日新聞、読売新聞、毎日新聞]
文安2年(1445) 美濃国守護代斉藤利永(?-1460)が中世加納城を築城する
永禄10年(1567) 織田信長、斉藤龍興(1548-1573)を追放し、稲葉山城を占拠
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城落城
慶長6年(1601) 徳川家康が家臣の本田忠勝に命じ築城したとされる
奥平信昌、加納を拝領する
慶長7年(1602) 加納城築城開始
①昨年から今年3月までの調査で、枡形の空間と本丸の境にあった大手櫓門の付近で石垣(長さ約7m)を発掘。石垣で区切られた部分を特定できたため、櫓門の南北方向の規模が約11m、東西方向約6.6mであるとわかった。
櫓門は城主が居を構える本丸に敵が攻めてきた際、閉め切るために設置された。敵を入り口の空間に閉じ込め、四方から挟み撃ちする仕組みだという。
②出枡形(でますがた)と呼ばれる平たんな部分は南北に約30m、東西に約18mに延びた構造だと発表した。
市教委によると、加納城の本丸は堀に囲まれ、上から見ると凸形で、本丸に通じる入り口になっている。
②集水桝とみられる方形に組んだ石と、「一の門」の柱を支えた礎石である可能性がある河原石も見つかった。二の丸方面から本丸に通じる「高麗門」の可能性があるという。
加納城は、関ヶ原の合戦直後の慶長6年(1601年)に、大坂方への備えの拠点として、徳川家康が本多忠勝に築城を命じたとされる。初代城主は家康の娘婿・奥平信正。
市教委は22日午後1時から、現地説明会を開催する。問合せは、市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所へ。
[参考:中日新聞、読売新聞、毎日新聞]
文安2年(1445) 美濃国守護代斉藤利永(?-1460)が中世加納城を築城する
永禄10年(1567) 織田信長、斉藤龍興(1548-1573)を追放し、稲葉山城を占拠
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城落城
慶長6年(1601) 徳川家康が家臣の本田忠勝に命じ築城したとされる
奥平信昌、加納を拝領する
慶長7年(1602) 加納城築城開始
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