奈良文化財研究所が2日、飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)で、7世紀前半~中頃の窯や炉の床面の遺構とみられる高熱で変色した土が確認されたと発表した。 蘇我氏の工房跡の可能性もあるという。
日本書紀によると、644年、蝦夷の邸宅が丘の上に、入鹿の邸宅が丘の谷間に築かれたとされる(注1)。 丘の南東端の谷底近くを調査したところ、地面に赤く焼け焦げて変色した被熱面(約10㎡)が見つかった。 焦げて黒く固まった地層も周囲で2カ所確認された。
また、蘇我氏が滅ぼされた後の7世紀後半に、埋め戻された跡も確認された。 これまでの奈文研の調査により、今回の調査地の近くでは、蘇我入鹿の邸宅とみられる建物跡や石垣も見つかっている。
現地見学会は4日(日)午前11時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]
(注1) 日本書紀・皇極天皇三年(644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘樫岡に双べ起(た)つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰う。入鹿が家をば谷の宮門と曰う。(略) 家の外に城柵(きかき)を作り、門の傍に兵庫(つわものぐら)を作る。門毎に、水盛(い)るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて、火の災いに備う。恒に力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。(「岩波文庫」より)
過去の関連ユース・情報
甘樫丘東麓遺跡
日本書紀によると、644年、蝦夷の邸宅が丘の上に、入鹿の邸宅が丘の谷間に築かれたとされる(注1)。 丘の南東端の谷底近くを調査したところ、地面に赤く焼け焦げて変色した被熱面(約10㎡)が見つかった。 焦げて黒く固まった地層も周囲で2カ所確認された。
また、蘇我氏が滅ぼされた後の7世紀後半に、埋め戻された跡も確認された。 これまでの奈文研の調査により、今回の調査地の近くでは、蘇我入鹿の邸宅とみられる建物跡や石垣も見つかっている。
現地見学会は4日(日)午前11時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]
(注1) 日本書紀・皇極天皇三年(644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘樫岡に双べ起(た)つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰う。入鹿が家をば谷の宮門と曰う。(略) 家の外に城柵(きかき)を作り、門の傍に兵庫(つわものぐら)を作る。門毎に、水盛(い)るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて、火の災いに備う。恒に力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。(「岩波文庫」より)
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