画家・熊谷守一(1880~1977)のことを新聞で知る。
知らないことが少なくないので、新聞は常に貴重な情報源。
今年は没後40年だそうで、東京豊島区の自宅跡地に熊谷守一記念がある。
同級生(東京美術学校・東京芸大の前身)に青木繁がいた。
50代半ばを過ぎるまで売るための絵を描くことができず、生活は苦しかった。
現在知られている多くの作品が、70歳を過ぎて以降に描かれ売れた。
そのことに驚かされる。
そして97歳で亡くなるまで制作を続けた。
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没後40年 熊谷守一 生きるよろこび|東京国立近代美術館 2017年12月 ...
画家の軌跡. 熊谷守一プロフィール写真。
没後40年を記念して、画家、熊谷守一(1880‐ 1977)の回顧展を開催します。
熊谷守一は、明るい色彩と単純化されたかたちを持つ作風で知られます。
晩年は花や虫や鳥など身近なものを描くたくさんの作品を生み出しました。
飄々 ( ひょうひょう ) とした味わいを持つエッセイでも知られ、『へたも絵のうち』(原著は1971年、現・平凡社ライブラリー刊)は、現在もロングセラーの文庫となって若い層にも読み継がれています。 その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように ...
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熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。
日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。
しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。
富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。
熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。(現在庭は残っていない。旧居跡地には1985年に熊谷守一美術館が建てられた。)
1956年(昭和31年)76歳 軽い脳卒中で倒れる。
以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。
1967年(昭和42年)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」文化勲章の内示を辞退した。
また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。
1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。
機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎は、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。