日本社会のしくみ

2019年12月10日 17時50分03秒 | 社会・文化・政治・経済

 雇用・教育・福祉の歴史社会学 


ネット右派の歴史社会学

2019年12月10日 17時14分53秒 | 社会・文化・政治・経済
 
アンダーグラウンド平成史1990-2000年代

伊藤 昌亮 (著)

「嫌韓反中ヘイト本」が氾濫している。
そもそもネット右翼であれヘイトであれ、その存在自体が反社会的、反知性的である。
そのためじっくりと、まじめに向き合おうとする研究者は少ない。
ネット右派の支持層の多くは、普通の社会人である。
平成時代は、マスメディアの退潮、ネットメディアの勃興、オタク文化の深化の時代である。
アジェンダが浮上する背景には戦後民主主義「体制」への反発がある。
それはリベラル派市民や体制メディア(マスゴミ)に対する反権威的な批判に象徴される。
しかし、理解のない批判、対話のない断罪、それこそがファシスト的話法である。
つまり、著者はファシズム批判を実践しようとしている。
--------------------------------------------
アジェンダは、人びとに認知されることによって注目と関心を集め、政策過程の重要な政治争点として浮上する可能性がある。
反面、少数の重要な争点や状況に注意を集中する代わりに、他の全ての争点や状況は無視する。


内容紹介
保守的・愛国的な信条を背景に、その言動でしばしば他者を排撃する「ネット右派」。彼らはどのように生まれ、いかに日本社会を侵食していったのか。その真の意図とは何だったのか。

前史にあたる1990年代の雑誌論壇と草創期のネット論壇、55年体制の崩壊から現政権の成立までの政治状況、マンガ・アニメや「2ちゃんねる」などの文化状況、歴史教科書問題や外国人労働者問題、日本会議・在特会・極右組織などの団体の動向――。

日本社会に全面展開するネット右派の2000年代までを、嫌韓・反リベラル市民・歴史修正主義・排外主義・反マスメディアという5つのアジェンダ(論題)と、サブカル保守・バックラッシュ保守・ネオナチ極右・ビジネス保守という4つのクラスタ(担い手)からあざやかに分析する。

圧巻の情報量で「ネット右派の現代史」と「平成のアンダーグラウンド」を描き出す「ネット/右翼」研究の決定版。

目次


はじめに

第1章 新保守論壇と嫌韓アジェンダ――一九九〇年代前半まで
 1 既成保守論壇から新保守論壇へ
 2 『SAPIO』の登場とその後の右傾化
 3 嫌韓アジェンダと反日アジェンダ
 4 『SAPIO』の反日国家スキームの変遷
 5 ジャパンバッシングの嵐のなかから
 6 日本版反ユダヤ主義と陰謀論
 7 「日韓論争」の展開
 8 反日嫌韓スキームの成立
 9 『醜い韓国人』をめぐる動き
 10 歴史認識をめぐる神学論争
 11 リベラル派対保守派の代理戦争
 12 嫌韓アジェンダをめぐるいくつかの通説

第2章 サブカル保守クラスタと反リベラル市民アジェンダ――一九九〇年代半ばまで
 1 リベラル市民主義の盛り上がり
 2 日本型市民社会論と戦後民主主義
 3 市民主義への自己批判という問題意識
 4 ユーフォリアのなかのリベラル市民主義ブーム
 5 小林よしのりによる市民運動批判
 6 市民主義批判から戦後民主主義批判へ
 7 リベラル市民主義の擁護者としての『朝日新聞』
 8 大月隆寛による市民主義批判
 9 サブカル保守クラスタの形成
 10 「市民」対「庶民」の階級対立
 11 サブカル保守クラスタとオタク文化との親和性
 12 戦後民主主義と戦闘サブカルチャー
 13 「上から目線」へのアンチテーゼとして

第3章 バックラッシュ保守クラスタと歴史修正主義アジェンダ――一九九〇年代後半まで
 1 東京裁判史観と歴史教科書問題
 2 バックラッシュ保守クラスタの台頭
 3 自由主義史観研究会から「つくる会」へ
 4 サブカル保守クラスタからの流れ
 5 権威主義と反権威主義との野合
 6 戦前エスタブリッシュメントと戦後エスタブリッシュメント
 7 右からの引力と左からの斥力
 8 ホロコースト否定論と日本型歴史修正主義
 9 サブカル保守クラスタと歴史修正主義アジェンダとの親和性
 10 善悪二元論批判と歴史的物語観
 11 三つのアジェンダの統合と新保守論壇の完成

第4章 ネット右派論壇と保守系・右翼系の二つのセクター――一九九〇年代後半まで
 1 ネット右派論壇の形成
 2 密教を真に受けた人々
 3 掲示板文化とメーリングリスト文化
 4 ネット右派論壇を構成するサイト
 5 新保守論壇の流れを汲む保守系セクター
 6 右翼・民族派の流れを汲む右翼系セクター
 7 保守と右翼との位置付けをめぐって
 8 右翼・民族派をめぐる当時の状況
 9 日本ちゃちゃちゃ倶楽部(日本茶掲示板)――保守系セクターを代表する存在
 10 鐵扇會――既成右翼系クラスタを代表する存在
 11 右翼共和派――新右翼系クラスタを代表する存在

第5章 ネオナチ極右クラスタと排外主義アジェンダ――二〇〇〇年前後まで
 1 ヨーロッパ極右の流れを汲むネオナチ極右クラスタ
 2 外国人労働者問題と外国人犯罪問題
 3 ヨーロッパ極右をめぐる当時の状況
 4 瀬戸弘幸と世界戦略研究所
 5 篠原節と民族思想研究会
 6 農本主義とエコロジー
 7 「血と土」のイデオロギー
 8 民族主義とディープエコロジー
 9 反ユダヤ主義から外国人労働者排斥へ
 10 山田一成と国家社会主義日本労働者党
 11 ネオナチ極右クラスタの形成
 12 ナチサブカルチャーへの強い志向
 13 「三国人発言」と外国人参政権問題
 14 日本茶掲示板と民団掲示板との論戦
 15 嫌韓アジェンダと排外主義アジェンダとの結合
 16 ネット右派論壇内部のカルチュラルポリティクス
 17 サブカル保守クラスタとナチサブカルチャーとの親和性
 18 民族主義の構造転換
 19 差別主義への志向とカルト宗教
 20 ナショナリズム・ナチュラリズム・スピリチュアリズム

第6章 2ちゃんねる文化と反マスメディアアジェンダ――二〇〇〇年代前半まで
 1 ネット常民としての2ちゃんねらー
 2 「ニホンちゃん」と観客民主主義
 3 2ちゃんねる初の大規模な炎上騒ぎ
 4 屈折した反権威主義の精神
 5 プロ市民概念の発明
 6 「悪い子」的キャラクターと「ダメな子」的キャラクター
 7 ネトウヨ底辺説をめぐる誤解
 8 反リベラル市民から反マスメディアへ
 9 マスメディアのインチキを暴く
 10 女性国際戦犯法廷とNHKの番組改変
 11 朝日新聞叩きの系譜
 12 明示的な偏向批判と暗黙的な特権批判
 13 アングラネット論壇での朝日新聞不買運動
 14 フジテレビ叩きに至る経緯
 15 日韓共催ワールドカップサッカーをめぐって
 16 韓流ゴリ押し姿勢をめぐる誤解
 17 親殺しとしてのフジテレビ叩き
 18 新旧メディアの階級対立
 19 反日マスコミ批判の動き

第7章 ネット右派の顕在化――二〇〇〇年代後半まで
 1 反知性主義の構造転換
 2 エンジョイコリアでの日韓論争
 3 ネイバー総督府とバファリン作戦
 4 反知性主義対主知主義という構図
 5 専門知対集合知という構図
 6 集団思考と決断主義
 7 嫌韓厨から嫌韓流へ
 8 桜井誠と嫌韓コミュニティ
 9 『マンガ嫌韓流』以降の嫌韓本ブーム
 10 『WiLL』の創刊と「大人目線」の右傾化路線
 11 チャンネル桜の開局と右翼・民族派への眼差し
 12 動画共有サイトの普及とチャンネル桜による啓蒙
 13 バックラッシュ保守クラスタの再興とその背景
 14 権威主義と反権威主義との結び付き
 15 決断主義とポピュリズム
 16 シンボルとしての田母神俊雄
 17 在日特権という発想
 18 瀬戸弘幸のその後と西村修平
 19 「行動する保守」の成立

第8章 ネット右派の広がりとビジネス保守クラスタ――二〇一〇年前後まで
 1 ビジネス保守クラスタの形成
 2 三橋貴明とビジネス保守クラスタの思想
 3 日本青年会議所(JC)の右傾化
 4 ビジネス保守クラスタのリアルな支え手
 5 リベラル市民主義への復讐
 6 ネット右派論壇のバージョンアップ
 7 その後のネット右派の成熟と停滞
 8 響きと怒り、そして語り
 9 大衆の原像と幻像

あとがき

人名索引
内容(「BOOK」データベースより)

彼らはどのように生まれ、いかに日本社会を侵食していったのか。その真の意図とは何だったのか―。社会問題・文化・政治・運動など幅広い領域の動向を追尾し、日本社会に全面展開するネット右派の現代史をあざやかに析出する。

著者について

1961年生まれ。成蹊大学文学部教授。専攻はメディア論。著書に『デモのメディア論』(筑摩書房)、『フラッシュモブズ』(NTT出版)、共著に『奇妙なナショナリズムの時代』(岩波書店)、『ネットが生んだ文化』(KADOKAWA)など。

 

 

 


巨大台風襲来の1年…災害伝承は大水害を「予告」していたのか

2019年12月10日 17時07分33秒 | 社会・文化・政治・経済

11/27(水) 配信 現代ビジネス

暴風雨と氾濫が頻発した2019年の秋

日本列島は今年の8月末以降、大雨と強風の度重なる襲来に苦しめられた。

 8月27日から九州北部で猛烈な雨が降り、河川の氾濫で市街地が冠水した。9月9日には台風15号が千葉市付近に上陸、強風による屋根被害など、家屋の損壊は5万棟を超えた。

発生確率は80%超…!? 次の巨大地震が襲う「大都市」の名前

 10月12日には台風19号が伊豆半島に上陸し、各地に豪雨を降らせて、70を超える河川が決壊。さらに10月24日から26日にかけても大雨となり、再び河川が決壊した。

 今秋の台風と豪雨による災害は被害が広範囲であること、また立て続けに起こり、同じ地域に繰り返し被害をもたらしたことなどにより人々に衝撃を与えたのである。

 これまでの台風は、上陸後に勢力が衰えたものだが、海水温度の上昇の影響からか、台風は規模を変えずに、襲来することが多くなったように感じられる。気象庁が発する予報においても、「数十年に一度」どころか、「これまで経験したことのないような」という形容が用いられるようになったのである。

 電柱をなぎ倒し、瓦を吹き飛ばす暴風、豪雨が過ぎたあとの晴れ間に起こる河川の氾濫、床上浸水で泥水に覆われた住宅地など、ニュースでたびたび映し出される光景は、たしかにあまり見慣れたものではなかったような気がする。

 さらには、「流域型洪水」という新しい災害用語が使われるようになった。気候変動や異常気象が叫ばれ、日本列島を襲う暴風雨災害はフェーズが変わったともいわれる。しかし、こうした大水害は、本当にこれまでなかったことなのだろうか。過去にも発生し、その経験と記憶が継承されてきてはいないか。

 そこでここでは、民間伝承や民間信仰の領域のなかに、暴風雨災害にかかわる伝承を探ってみたいと思う。

巨大台風襲来の1年…災害伝承は大水害を「予告」していたのか
〔PHOTO〕gettyimages
「流域型洪水」は新しい現象なのか?
 台風19号では千曲川のほか、埼玉県の越辺川、栃木県の秋山川など東日本の20を超す河川で堤防が決壊した。水が堤防を越えるなどした河川は、阿武隈川や多摩川など142にのぼる。

 しかもこの台風では、台風から離れた地点で河川の氾濫が多発し、台風が過ぎ去った後にも時間差で氾濫したケースが相次いだ。多くの人が一度は避難したものの、雨や風のピークが過ぎたため、避難所から自宅に戻るなどして命を失ったのである。

 激しい雨が降っていない場所でも洪水にみまわれ、被害者を出したのはいったいなぜだったのか。

 ある狭い範囲にではなく、流域全体に降り続いた雨が支流で増水し、時間をかけて本流に流れ込む。そして非常に大きな流量を作り出したため逃げ遅れにつながったようだ。こうした現象に対して河川工学の専門家は、「流域型洪水」と名づけたのである。
流域型洪水を彷彿させる怪異現象
 「流域型洪水」を彷彿させる大水害は、災害民俗学が扱う怪異現象として伝承されてきた。木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が流れる濃尾平野を繰り返し襲った「やろか水」は、流域型洪水、時間差氾濫による非常事態を想起させるのだ。

 民俗学者の柳田国男は「やろか水」について次のように描写した。

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「大雨の降り続いていた頃の真夜中に、対岸の何とか淵のあたりから、しきりに『遣(や)ろうか遣ろうか』という声がする。土地の者は一同に気味悪がって黙っていたのに、たった一人が何と思ったか、『いこざばいこせ』と返事をしたところが、流れは急に増して来て、見る間に一帯の低地を海にした。」(『妖怪談義』1956年)
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 「やろうか、やろうか」は「あげようか、あげようか」、「いこざばいこせ」は「もらえるなら、もらおう」といった意味である。柳田の引用では、怪異の声が聞こえてきたのは「対岸」からとされているが、「上流」から聞こえてきたという伝承も多い。

 何日間にもわたって長雨が続いたある夜、土石を伴う大水が襲ってきた。しかし住民たちは大して危険だと思わず、避難しなかった。すると瞬く間もなく洪水が堤防を越え、村を流失させしてしまった……。「やろか水」は、こうした災害の記憶を伝承化したものに違いない。

 やろか水の歴史的事例としては、1651年(慶安3年)9月に尾張国と美濃国で大洪水があり、大垣藩とその周辺で死者3000人以上におよんだ。また明治6年(1873)に入鹿池(愛知県犬山市)の堤が切れたときにも、「やろうか、やろうか」という声が聞こえたといわれている。

 「やろか水」は、上流での大雨が、水量が少なくおだやかに見える下流域を脅かすことを知らしめ、それに対する油断を戒める災害伝承なのである。

「泥と相撲をとっている」ような被災地
 台風19号に襲われた被災地で、自宅やビニールハウスなどから泥をかきだす多くの住民、ボランティアの姿がニュースで頻繁に映し出された。

 この豪雨災害から1ヵ月後の11月12日、NHK NEWS WEBでは、被災地はまだ日常を取り戻せておらず、生活に引き続き影響が出ているとしてこんな記事を配信している。

 千曲川の堤防が決壊した長野市穂保(ほやす)とその周辺地域では、住民たちが浸水した住宅の片づけ作業に追われている。そのうち1階部分が浸水した80代の男性の住宅では、家族とボランティアが協力して、室内に入り込んだ大量の泥を取り除いたり、汚れたガラス戸に水をかけて丁寧に拭いたりしていた。

 男性は、「泥と相撲をとっているだけのようなあっという間の1ヵ月でした。この家で早く生活したいですが、中を乾かさないといけないのできれいになるのを待つしかありません」と話していたという。

 泥まみれになった畳やふすま、浸水で利用できなくなった電化製品など大量の被災廃棄物が、行き場がなく放置されたままだという現状もある。こうした映像を目にして思い起こされるのが、アニメなどの媒体で描かれる水害のイメージだ。

 たとえば今年の夏に大ヒットした新海誠監督の「天気の子」は、止むことなく雨が降り続け、東京の都心部を水没させてしまうのだが、街は透明な水のなかに沈んでいる。また津波災害を想起させる宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」(2008年)でも、波は濁流ではなく透き通っている。

 「天気の子」は河川の氾濫ではなく、長い時間をかけて浸水したためだといわれるかもしれないが、東京で実際に大水害が起こったら、都市は泥交じりの濁った水に沈むことだろう。
洪水常襲地で行われてきた「どろんこ祭り」
 繰り返し洪水に襲われてきた地域のなかには、泥との戦いを「祭り」の形で伝承してきたところもある。

 利根川の流域、千葉県野田市三ツ堀にある「三ツ堀香取神社」の奇祭「おお腹くちの泥祭り」は、「どろんこ祭り」とも呼ばれ、激しい泥の投げ合いで神輿も人も泥だらけになることで知られてきた。

 五穀豊穣、子孫繁栄などを祈願して18世紀の半ば頃から始まったとされ、かつては旧暦3月5日、その後は4月の上旬に催されてきたが、1990年(平成2年)以降は参加者不足のため中断している。

 祭りの当日、香取神社を出発した神輿は、利根川河畔の「浜」と呼ばれる神池まで渡御する。神輿を担いだ若い衆は、泥が張られた神池に神輿とともに飛び込んでもみあう。その後、神輿を池から引きあげる際、子供たちから泥の塊を投げつけられる。若い衆は大声で囃しながら神輿をあげ、また池に下ろす所作を3回繰り返したのち、泥まみれの神輿を利根川の水で清め、最後に香取神社に納める。

 江戸時代後期の地誌『利根川図志』(赤松宗旦著)などによると、この奇祭の由来は次のようなものだとされている。昔、利根川の洪水で、洞(ウロ)のある木材が流れてきた。人々は十分に腹ごしらえをしてこの木を引き上げ、産土神として祀ったという。

 こうした伝承をもとに、在野の民俗学者として刺激的な問題提起を行った吉野裕子(1916~2008)は、「ウロの入った流木は廃材として、その土気故に洪水を抑圧する呪物として引き上げられ、大河に臨む神社の神体となって祀られたものであろう」と推測する。

 三ツ堀の人々は、洪水を泥の池や泥の塊で表し、流れてきた廃材をご神体として祀った。香取神社の氏子たちは、河川氾濫の際、濁流や泥水で苦しめられてきた記憶を「祭り」にすることで、経験を伝承しようとしてきたのではないか。

 吉野はどろんこ祭りをその所作や由来譚などから、「利根川に沿うこの小村にとっては、その最大関心事は治水にあった。

 この大河の豊かな水は、民生を支える一方において、一度溢れ出るときには瞬時にして人々の生活を狂わせてしまう脅威を孕んでいた」とし、この祭りの目的は、「水を抑えることにしぼられよう」と結論づけている。

 「近年にはなかった」かのように見られる大水害も、民俗的過去に遡れば、伝承や祭礼の形で警鐘が鳴らされてきたのである。

 

【関連記事】

検証・西日本豪雨 ~何が生死を分けたのか~

2019年12月10日 16時59分51秒 | 社会・文化・政治・経済

2018年7月31日(火) NHK


死者が200人を超え、平成最悪の水害となった西日本豪雨。なぜこれほど多くの犠牲者が出たのか、生死を分けたのは何だったのか、検証する。

大規模な浸水のために51人が犠牲になった岡山県倉敷市真備町では、亡くなった人の9割が高齢者だった。行政が避難情報を出すだけでは高齢者を救いきれないという、厳しい実態が見えてきた。また、最も犠牲者が多かった広島県。4年前の土砂災害を教訓に、様々な備えを進めていた地域で被害が起きていたことがわかってきた。それは何故なのか?これまでの常識が通用しない“異常気象新時代”、同じリスクは日本全国に広がっている。被災地の命を守った実例から、豪雨災害にどう備えていくか考えたい。

出演者
松尾一郎さん (東京大学大学院 客員教授)
NHK記者
武田真一・田中泉 (キャスター)
西日本豪雨に“逆走台風” “異常気象新時代”へ

日本列島を襲った台風12号。各地に被害をもたらし、今も警戒が必要な状況です。極めて異例のコースを進んだ“逆走台風”。そして、200人以上の犠牲者を出した西日本豪雨。これまでの常識が通用しない、いわば「異常気象新時代」です。
西日本の広い範囲で同時多発的に起きた、今回の災害。実は被害の多くは、危険が想定された場所で起きていました。なぜ人々の命を守ることができなかったのか。取材で見えてきたのは、情報が避難につながらなかった現実です。

武田
「避難の呼びかけはあったんですか?」

「そんなに聞こえなかった。もうちょっと早くあっても逃げてなかったんじゃないのかな。」

避難の情報をどう伝え、住民はそれをどう生かすのか。新たな課題が浮かび上がっています。何が生死を分けたのか。異常気象新時代にどう命を守るのか。検証します。

検証 西日本豪雨 何が生死を分けたのか

武田:長年、災害報道に関わってきましたが、今回ほど避難に関する情報を届けることの難しさを実感することはありませんでした。例えば、避難勧告が出たら皆さんはどう行動するでしょうか?「対象地域の人は、すべて、速やかに避難しなければならない」のです。今回の豪雨でも広い範囲に出されていました。

田中:また、多くの地域では、あらかじめ危険が想定されていたことが分かってきました。最も多くの犠牲者が出た広島県。土砂災害で亡くなった人の7割以上が、土砂災害の危険がある地域として公表されていた場所で犠牲になったのです。なぜ、いち早い避難につなげることができなかったのでしょうか。


なぜ避難は遅れたのか

広島市安芸区の梅河団地です。大規模な土石流によって、5人が犠牲となりました。
近くの防犯カメラに、被災当日の様子が記録されていました。行政が避難を促す避難勧告が出されたのは、午後6時5分。それから1時間たっても大きな異変はみられません。


しかし、勧告から2時間後、状況は一変。泥水が激しく流れ、車も押し戻されています。やがて、濁流が通りを飲み込みました。10台以上の車が次々と押し流される様子が、克明に映されていました。


重大な被害が出たこの地区。しかし、避難所に逃げた人はおよそ1割にとどまりました。

 


リポート:坂梨宏和(NHK広島)

なぜ避難が進まなかったのか。避難所にたどりつけなかった、高校3年生の宮原和輝さんです。

宮原和輝さん
「少しやばそうだとは思いました。」

家族と一緒にいた宮原さん。勧告が出た午後6時過ぎの時点では、逃げようという声は上がりませんでした。これまで一度も被害が出ていなかったからだといいます。

宮原和輝さん
「今まで何回も避難勧告は出て、避難しなくても大丈夫だったというのが多かったので、今回もそれだと思って。」

この地区に出た避難勧告などの避難情報は、3年間で9回と以前より増えています。


実は広島市では、被害を最小限に食い止めるため、3年前からいち早く避難情報を出すシステムに変更していました。現在のシステムです。市内各地を5キロ四方に区切り、土壌に含まれる水分量と今後の雨の量を予測し、土砂災害の危険度を6段階で示しています。この危険度をもとに、速やかに避難情報を出しているのです。

「定めたルールに従って、本当にシステマチックに情報発信していった。」


導入されたきっかけは、広島市で77人が亡くなった、4年前の土砂災害です。このとき問題となったのが、避難勧告を出すタイミングの遅れでした。当時も、避難情報は土壌の水分量と雨量の予測をもとに出していました。しかし、これらのデータをもとに担当者が経験に基づいて危険度を判定していたため、時間がかかっていたのです。そこで、自動的にコンピューターが危険度を判定するシステムに変更。結果として、避難情報を出す回数が増えたといいます。


人命を守るために行ったシステムの変更。しかし、情報の受け手である住民の避難に、必ずしも結び付かない現実が浮かび上がりました。

広島市災害対策課 貞森英樹課長
「危険の捕捉率といいますか、捕捉率を高めれば高めるほど、早い段階で情報を出すことになります。ただ、捕捉率を高めれば高めるほど外れる確率も高くなって、その情報そのものの信頼度は低くなるというジレンマがあると思います。」

4年前の教訓をもとに進めたインフラ対策が、結果的に住民の危機感を鈍らせたという声もあります。この地区では今年(2018年)2月、土砂をせき止めるためのダムが完成しました。
近くに住む丸岡武さんです。地区の人たちは、ダムの効果に期待を寄せていたといいます。

丸岡武さん
「ダムができて地域の人も少しは安心だねという話はあったので、僕も見て大きいのができていたので、少しは安心かなと。」

しかし、土砂はダムを乗り越え、丸岡さんは避難中に車ごと流されました。


丸岡武さん
「ひっくり返った状態で流されて、ここをすべり落ちました。運がよかった。」

現地を調査した専門家は、インフラへの過度な期待に警鐘を鳴らします。専門家の解析では、3か所の斜面が崩れ、想定を超えた量の土砂が流入。ダムを乗り越え、斜面の崩壊から60秒後には地区を襲っていたのです。


京都大学防災研究所 竹林洋史准教授
「目に見えるところに治山ダムができていると、どうしても安心されることはあるかと思います。逆に治山ダムがあるということは、そこは土砂が比較的出やすい渓流だということを示していますので、土石流が流れてくるということは十分あり得ると考えておくほうがいい。」

検証 西日本豪雨 何が生死を分けたのか

ゲスト松尾一郎さん (東京大学大学院 客員教授)
武田:警戒が必要な地域には指定されていた。そして避難の情報も出ていた。それなのに、いち早い避難につながらなかった。これはなぜでしょうか?

森野周記者(社会部 災害担当):取材で浮かび上がったのは、避難の情報が住民の危機感に結び付かなかったということです。広島県では今回、避難勧告や指示が最大で217万人に出されたのですが、このうち避難所への避難が確認されたのは1万7,000人余り、0.8%にとどまったんです。広島県は4年前の土砂災害を教訓に対策を進めてきました。今回、私たちは広島県内の市町村の避難勧告がどのように出されたか検証したのですが、いずれも早い段階で出されていたんです。その広島県でこれだけの犠牲者が出てしまった。いずれも、情報を早く出すだけでは命を守れないという重い課題を突きつけられた形になります。

武田:長年、災害現場を研究し、今回も広島市などで調査をされた松尾さん。今回、亡くなった方々がどこにいたのかという調査をされたそうですが、何が見えてきたのでしょうか?

松尾さん:見えたことは、ご自宅で被災された方というのが7割強なんです。110名強いらっしゃるんですよね。やはり命を守るためには、より遠い所に、より安全な所に水平避難する、これしかないんです。

武田:2階などではなく、ということですね。


松尾さん:そのためには、「あなたの地域・自宅は被災するかもしれない」という、こういう受け手にとってリアリティーのあるリスク情報を、行政がもっと住民に知らせる、共有していくということが重要ですし、行政のそういう危機感と、住民の意識のずれということを考えたときに、もしかしたら、もうちょっと住民サイドにみずから判断できる情報を、より精緻な情報を出していくということが必要かもしれません。
例えば、身近なところで雨量がどれぐらい降っているかとか、あるいは土砂災害に関しては、あと何ミリぐらい降ったら発生するかもしれない。その「何ミリ」というところがとても重要だと思うんですね。

武田:そうした情報を、きめ細かく提供していく努力も必要だということですね。

田中:ここで、改めて行政が出す避難情報を確認しましょう。まず「避難準備・高齢者等避難開始」。これが出たら、高齢者や障害者など、支援が必要な人は避難を始めてください。そのほかの人も、少なくとも避難の準備を始めなければなりません。
そして「避難勧告」、対象地域の人はすべて速やかに避難しなければなりません。これが出たら皆さん、逃げてください。
そして「避難指示(緊急)」。この時点になっても避難していない人に対して、緊急に避難を呼びかける情報です。本来は、これが出るまでに避難を完了していなければなりません。決してこの情報を待ってはいけないんです。また、これらの情報は必ずしも順番に出されるわけではありません。


武田:ただ、こうした情報が頻発すると受け手に危機感が薄れて、いわゆる「オオカミ少年」になるおそれもあると思うのですが、どうすればいいのでしょうか?

松尾さん:自然というのは極端化している、私たちに牙を剥いてきていると思うんですね。そういう意味では、やはり私たちは行政、あるいは住民を含めて、連携して命を守る行動をしていく。そのためには空振りを許容する、99回逃げても1回はなんとか命を守る。これでもいいかもしれない。空振りを許容する社会、そういう意識に変える。これがとても重要かなと思っています。

武田:それからもう1つ、「特別警報」というような情報もありますね。情報が氾濫する中で、どうそれを取捨選択して読み解けばいいのでしょうか?

松尾さん:住民にとって重要な情報というのは、河川の氾濫域に住んでらっしゃる方は、極論をいえば、川の水位を見ていればいい。土砂災害の被災リスクのある地域に住んでらっしゃる方々だと、雨の量であったりとか、あるいは土砂災害の基準になっている情報というのを(見る)。ある程度、必要な情報というのは限られると思うんですね。それを行政側がちゃんと示していくことが必要だと思います。

武田:そして、私が訪れた岡山県倉敷市の真備町でも、リスクは想定されていました。

田中:こちらは倉敷市真備町の浸水想定図、ハザードマップです。ここに実際に浸水したエリアを重ねますと、ほぼ一致するんです。


最新の調査結果では、真備町の浸水は深い所で5メートル30センチ余りまで達していたことが分かりました。家の2階に達する高さです。こうした浸水が想定されていたにもかかわらず、51人が亡くなりました。実は亡くなった人のおよそ9割、45人は65歳以上の高齢者です。高齢者の避難にはどんな課題があったのでしょうか。

“自力で逃げられない” 西日本豪雨 高齢者の現実

“西原明子ですが、水がいっぱい上がってきてね、役場へすみませんけど救助に来ていただくようにお電話していただけませんか。”

このメッセージを残した、西原明子さん。夫の俊信さんとともに自宅で亡くなりました。

次男 西原幹夫さん
「家の片付けに来て、見つかりました。」


知り合いなどに救助を求め続けた明子さん。亡くなる直前の発信履歴は、23件にも上っていました。その日、市の消防には2,400件もの通報が殺到。救助は間に合いませんでした。

次男 西原幹夫さん
「亡くなる昼過ぎに電話があったんですけど、もう胸に水が来ていると言われて、どうしようもなかったので。」

 

リポート:磯野真之介(NHK岡山)

高齢者45人が犠牲になった真備町。倉敷市は、早い段階から雨への警戒を始めていました。市が災害対策本部を設置したのは、2日前の5日夜11時。川の水位が上がれば、早めに避難準備の情報を出そうと構えていました。水位が急激に上昇したのは、翌6日の夜。市は避難準備の情報を出せないまま、避難勧告を発表。夜10時になっていました。


小田川の北側、有井地区に住む86歳の片山穣さんです。避難勧告が出る1時間前の午後9時には、床に就いていました。妻・千代子さんと2人で1階で寝ていた片山さん。避難勧告を知らせる市の防災行政無線には気付きませんでした。

片山穣さん
「みんな家におって、こういうことにまさかなろうとは思わん。」

一方そのころ、同じ地区に住む山田明美さんは、89歳の母と一緒に遅い夕食をとっていました。

山田明美さん
「夕食は必ず一緒にして、『明日はデイサービスだからね、楽しいね』って言ったら『うん、楽しいわ』って。」

避難勧告が出されたときには起きていたものの、防災無線は雨音にかき消され、聞こえませんでした。危険が迫っていることに気付かないまま、隣の棟に住む母を送り届けました。
夜11時45分、市は小田川の南側に、翌日の1時半には北側に、相次いで避難指示を発表します。このころすでに、真備町では浸水が始まっていました。


母を送り届けたあと、自宅で寝ていた山田さん。午前3時、気付いたときには水は腰の高さまで来ていました。母を助けようと隣の棟まで泳いでいきましたが、水圧でドアが開かず、どうすることもできませんでした。

山田明美さん
「申し訳ない、母さん。助けてあげられなくてごめんなさいという気持ちがいっぱい。」

避難勧告が出たときには、寝ていて気付かなかった片山さん。近所の人の呼びかけで目が覚めたのは、午前4時ごろ。すでに一面水浸しでした。足の悪い妻の千代子さんを連れて2階へ避難しようとしましたが、階段の上に助け上げることはできませんでした。

片山穣さん
「手を引っ張ろうと思っても、水もあるので(妻は)もう来られなかった。もう、どうにもならなかった。」

大雨への警戒を続けていた倉敷市。これまでの避難の呼びかけでは、高齢者の命を救えない現実を突きつけられています。

倉敷市 防災危機管理室 河野裕室長
「避難しなければいけないと受け取っていただけるように、避難を進めるような仕組みを考えていければいいと。今後進めていきたいと思います。」

命を守るヒント

真備町の中には、ふだんから住民どうしで備えを進め、全員が助かった集落もあります。世話役を務める中尾研一さん。住民が連携して、川の水位を警戒していました。


中尾研一さん
「『逃げよう』って連絡とりあって。」

「間一髪だった。」

6日の夜9時。水位の上昇が異常だという報告がもたらされました。すぐに集落を一軒一軒まわり、避難の準備をするよう声をかけました。そして夜10時。避難勧告が出ると、再び集落をまわり、すぐに避難所へ向かうよう呼びかけました。

中尾研一さん
「(住民は)『逃げなきゃならないんですか?』という感じですよね、最初は。それで(夜10時に)『勧告でたよ』と言ったら、逃げていただいた。」

中尾さんが心配していたのは、自力で避難できない高齢者でした。事前に調べていた緊急連絡先の親族に電話をかけ、助けに来るよう伝えました。1人暮らしの91歳の女性。中尾さんから連絡を受けて、駆けつけた親戚と避難しました。

大島千登世さん
「(親戚が)戸を開けて入ってきて、起こして、びっくりして飛び起きて。それで連れて帰ってもらって、命拾いしました。」

周辺では多くの人が亡くなった今回の豪雨。取り組みをさらに広げていく必要性を痛感しています。

中尾研一さん
「連絡をお互いがもっとし合ってというような活動が、もっとスムーズにできていれば、もっと(被害を)防げたのかなと。」

何が生死を分けたのか

武田:今回見えてきた、命を守る鍵はなんだったのでしょうか?

森野記者:危険に気付いて、周りに声をかけて、避難行動につなげられる人がいるかどうかということが非常に重要だと思います。夜間の避難は、特に高齢者の方にとってはとても難しいという状況があるのですが、ただ、今回の豪雨で広島県と岡山県では、8割の市町村で、夜7時以降に避難勧告、避難指示が出されました。今後もそういう状況というのは予想されます。
一方で今回、気象庁が前日に記者会見で危機感を伝えたように、大雨は事前に予測できることもあります。夜間に災害が予測される場合に、行政などがいかに早めに動き始めて、支援が必要な方に手を届けられるかどうか、それも今後の鍵になると思います。
倉敷市は、先日の台風12号の接近の前に、真備町内にバスを巡回させて、希望者を避難所に送り届ける初めての取り組みを行いました。こうした、これまでにないような取り組みを今後、検討していく必要があると思います。

武田:これまでにない災害が頻発する中で、行政ももちろんですけれども、やはり私たち一人一人が意識を変えていくことが、待ったなしですね。

松尾さん:気象現象も極端化して、自然も変わっているんです。私たちもやはり変わらなければいけない。私たちが変わる、意識も変える、仕組みも変えていく。変える1つとして、今回の災害というのを国も自治体も住民も含め、一緒になって、何が起こって、どういう改善をすべきなのか、振り返りをちゃんとすべきだと思っています。
加えて、やはりコミュニティー、地域も命を守る。私たちが逃げないと命を守れないんですよ。行政がどんなに頑張ったって、住民が逃げないと、命は救えないと思っています。そういう意味では、コミュニティーも変わっていく、「コミュニティー防災」を再構築する、それぐらいの気構えと心も含めて取り組みをしていくべきかなと私は思っています。
それと、今まで日本の防災は「現象後追い型」。それを「事前対応型」にしていくというのが必要だと思います。後手防災ですから、それを先手先手で打っていくという取り組みが必要だと思っています。

武田:台風や大雨の季節は、まだ続きます。これまでの経験を超えた災害が、あなたの地域で起きるかもしれません。私たちも、情報をより分かりやすく届ける努力を続けます。皆さんも、これまでの常識にとらわれずに行動してください。

 

 


キャッシュレス・ポイント還元事業

2019年12月10日 16時23分40秒 | 社会・文化・政治・経済

2019年12月2日

キャッシュレス・ポイント還元事業における登録加盟店数は、12月1日現在、約86万店であり、12月11日には約90万店になる見込みです。10月下旬に約30万店あった登録待ち店舗は概ね解消されましたが、より多くの店舗の皆様に、できるだけ早く本事業に参加いただけるよう、引き続き、審査の迅速化に取り組みます。

1.キャッシュレス・ポイント還元事業の概要

キャッシュレス・ポイント還元事業は、2019年10月1日の消費税率引上げに伴い、需要平準化対策として、キャッシュレス対応による生産性向上や消費者の利便性向上の観点も含め、消費税率引上げ後の9か月間に限り、中小・小規模事業者によるキャッシュレス手段を使ったポイント還元を支援するものです。

2.加盟店の登録状況

本事業の登録加盟店数は、12月1日現在で約86万店、12月11日には約90万店になる見込みです(現時点の登録申請数は約95万店)。
10月下旬には約30万店あった登録待ち店舗は、概ね解消されましたが、個々の事情により時間がかかっている事案もございます。引き続き、より多くの店舗の皆様が、できるだけ早く本事業に参加いただけるよう、決済事業者と連携しながら、円滑な登録手続に努めてまいります。
なお、登録手続のスケジュールは以下のサイトで公開しています(年末年始における加盟店の登録手続きに関するスケジュールは、変則的になりますので、御留意ください。)。

また、12月1日時点の登録加盟店数(都道府県別・市区町村別)に加え、事業所名、業種(カテゴリー)、還元率を記載した登録加盟店一覧(都道府県別)を、本日、公表します。詳細につきましては、以下のサイトを御確認ください。

3. 消費者向け情報提供

キャッシュレス決済に馴染みのない方に向けて、キャッシュレス決済の使い方やポイント還元事業に関する説明を行い、個別の質問等も受け付ける「キャッシュレス使い方講座」を、全国各地で開催されるイベント等と連携して、順次開催しています。本日、消費者向けホームページに、「キャッシュレス使い方講座」に関するページを追加します。詳細は、以下のサイトを御確認ください。

4.問合せ窓口

本事業に関する問合せは、以下の専用窓口で受け付けています。受付時間は、平日の10時00分~18時00分ですので、お気軽にお問い合わせください。

※消費者向け窓口、中小・小規模事業者向け窓口は、12月末まで土日祝日の10時00分~18時00分にも受け付けていますので、ぜひ、御活用ください(個別店舗のお問合せについては、平日に受け付けます。)。

※年末年始(2019年12月27日(金)17時00分から2020年1月6日(月)10時00分まで)は、問合わせ窓口を休止いたしますので、予め御留意ください。

消費者向け窓口

電話:0120-010975

中小・小規模事業者向け窓口

電話:0570-000655

決済事業者向け窓口

電話:0570-012141

メディア向け窓口

電話:042-204-1160

担当

商務・サービスグループ キャッシュレス推進室長 津脇
担当者:飯野、山脇、坂本、中村

電話:03-3501-1511(内線 4120)
03-3501-1252(直通)
03-3501-1293(FAX)


大人が読みたいエジソンの話

2019年12月10日 15時57分39秒 | 社会・文化・政治・経済
 
発明王にはネタ本があった! ? 
 
エジソンの卓越している点は、その知識をどう生かすかとうい<知恵>にあった。

エジソンが生まれる40年ほど前に、既に電気を使った照明(外灯)は存在していた。
しかし、照度が安定していなかった。
寿命が短かったりと、室内照明として満足して使える品質の物は皆無であり、低コストで長時間発光可能な電球の開発にこぎ着けた者は誰もいなかった。
<理論は分かった。必ず実現できるはずだ!> そう確信したエジソンは、実用化までの構想を練った。
まず資金を調達し、それを元手に研究所を造った。
そして、自らえりすぐった研究者たちと共に、昼夜を問わず研究に没頭した。
数千もの失敗を経て、ついに誰も成し得なかった壮挙を遂げたのだ。
構想力と行動力こそ、エジソンが唯一無二の発明王たち得た大きな要因といえる。


石川 憲二  (著)

内容紹介

蓄音機や電話、電球などを生んだエジソン。幼少の頃に出会った一冊の技術解説書がその後、彼を発明人生に導いたことはあまり知られていない。

天才肌で孤高の存在というイメージとはひと味違う、合理的で商才に長けた思考と行動の数々を痛快なタッチで綴る。

内容(「BOOK」データベースより)

孤高の天才にあらず、抜群のセンスで発明とビジネスを直結!!

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

石川/憲二
ジャーナリスト、作家、編集者。1958年東京生まれ。東京理科大学理学部卒業。週刊誌記者を経てフリーランスのライター&編集者に。書籍や雑誌記事の制作および小説の執筆を行っているほか、30年以上にわたって企業や研究機関を取材し、技術やビジネスに関する解説記事を書き続けている。扱ってきた領域は、電気・電子、機械、自動車、航空・宇宙、船舶、材料、化学、コンピュータ、通信、システム、ロボット、エネルギー、生産技術、知的財産、経営、人事、マネジメントなど(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

エジソンにまつわる様々なエピソードを検証した本。

『ちびまる子ちゃん』のテーマ曲の中の一節「エジソンは偉い人」を導入部で取り上げ、

どのように偉いのかを、様々な書籍から検証分析した著作。

・子供向けの伝記は、売る為に派手な演出をするので、イメージと実像とが違ってくる。
 後発の本は、さらに強めの演出をするのでイメージと実像がさらに乖離してくる。

・小学校退学事件は、「子供の頃うまくいかなかった人でも頑張れば成功できる」
 という教訓を盛り込みたい為の作り話。

・エジソンの発明の元になったのは、『自然と実験の哲学』という本だ。

・「新聞売り」だけでなく、食品や雑貨まで販売を広げた所が、優れたビジネスセンスだ。

・組織力、政治力、財力など、何でも駆使して競争に勝ち抜いたエジソン。

・電球の発明で遅れたエジソンは、権利を買い取って発明者となった。

・電話事業で、エジソンは権利をベルに売った。

・エジソンは、ゼロから発明したというより、改良するのがうまかった。

・直流は失敗したが、事業としては交流のテスラに勝った。
 知られざる天才 ニコラ・テスラ: エジソンが恐れた発明家 (平凡社新書)

・「1%のひらめきと99%の努力」という言葉は、日本人に好まれる。


子どもたちにもよく知られる「偉人」のひとりエジソン。

しかし、流布されている伝記の記述には、ちょっと考えると、そのまま信じることの難しいものもある。

著者はソコに突っ込みを入れる。

そして、ホントウのところを示していく。そのツッコミの入れ方が軽快で、たのしい。

記述されている中には、エジソン自身・本人が明らかにしたものを伝記作者がそのまま受け入れて記したものもあるという。

発明家であると同時に企業家でもあったエジソンには、ときに宣伝も必要であったのだ。

著者が本書を書いたきっかけについては、一冊の本が関係している。

「子供時代にたくさんの本を読んだ(読まされた)エジソンだが、当時の彼がもっとも興味をもち、大きな影響を受けたのがリチャード・グリーン・パーカーという著者の科学入門書『A School of Natural and Experimental Philsophy』(以下、『自然と実験の哲学』とする)であることは多くの資料が記している。

ところが、それほど重要な1冊でありながら、これまで詳しく解説されることはなかった。このため、エジソンの生涯を探るうえでミッシングリングのような存在になっていたのである」。筆者は、その本を入手し苦労して読み進める。

そして、「あの発明はここからヒントを得たんだ!」と思える箇所を次々と見つける。

「発明王の人生の設計図を盗み見ているような気分にすらなる。

本書は、厚さ1センチに満たない本ではあるが、著者のそうした興奮が伝わってくる内容で、エジソン伝の「裏」(ホントウのところ)も知ることができ、誰かとエジソンのことを話すときのネタとして十分に過ぎる。







自分らしい勝利のドラマをつづろう

2019年12月10日 15時48分52秒 | 社会・文化・政治・経済

▼人は希望によって逆境から救われる。
▼優れた君主や賢明な将軍が抜きんで成功を収めるのは「告知」、人に先んじて情報が手に入るようにしているからである。中国の兵書「孫子」の言葉。
「人知」は人の知性により得られる情報。
▼「核抑止は平和への基礎を作っていない」フランシスコ教皇。
教皇は、誤解や偶発的事故での核攻撃、核がテロリストの手に渡った時に世界が被る参事を挙げる。
▼自分にはできないと思う<心の壁>を壊せば、不可能も可能となる。
▼褒めることが子どもの自己肯定感や自尊感情を育む。
▼人生は長い目で見なければわからない。
▼壁にぶっかった時、どう前向きに捉えていくかだ。
▼悩みや困難に振り回されるのではなく、積極的に意味づけし、前進と向上のチャンスに変えていく。
▼励まされる。
大変な状況にあるほど、それを乗り越えることによって、多くの人を勇気づけうこともできる。
今いる場所で自分らしい勝利のドラマをつづろう。


アンデルセン自伝―わが生涯の物語

2019年12月10日 14時24分04秒 | 社会・文化・政治・経済


 
 
 
 「一見この上なく大きく思われた不幸のなかに、実は向上の一段階が横たわっていたのである」
思うようにならない時、新しい見いだし、人生を開けることもある。
 
 
 
 冒頭でアンデルセンは「私の生涯は波乱に富んだ幸福な一生であった」と述べている。それが彼のそれまでの人生を振り返った時の偽りのない証言であり、ごく控えめな文章で綴られた日記風の自伝は自分自身のささやかな宝物でもあったようだ。
卑賤な家柄の出身であり、その風変わりな容貌と性格から多くの批評家や祖国の文壇から蔑まれ、彼の作品は嫉妬によって執拗に酷評され続けた。
こうした青春時代は彼にとって孤独で辛い日々だったが、それでも自分の才能を理解し、惜しみなく援助をしてくれる友人達を持つことができた。
そして彼はそのことを生涯忘れなかった。


アンデルセンは旅を愛し、自然を愛した。

例えば初めてのイタリア旅行は彼の処女作『即興詩人』を生み出した。

この驚くほど謙虚で内気な天才の姿は主人公アントーニオに二重写しになっている。

その後も彼は旅先で得たインスピレーションから夥しい数の童話をものしたが、そのほとんどの源泉となっているのが鬱蒼とした森林や湖水、そして田園風景の中での体験だ。

後半では彼が名を成した後の、当時のヨーロッパを代表する芸術家達との忘れがたい出会いを語っている。

例えば文豪ではヴィクトル・ユーゴー、デュマ、ディケンズ、グリム兄弟、作曲家ではメンデルスゾーン、シューマンなど枚挙に暇がない。

14歳の時にたった一人でコペンハーゲンに出てきたこの貧乏少年の才能が、挫けそうになりながらも美しい花のように開花していく物語は、彼自身が自分の人生に自ら描いた一つのメルヘンだったのかも知れない


人魚姫や裸の王様など、誰もが一度はアンデルセンの童話を読んでいると思います。
そんなアンデルセンがなぜ童話作家になったのか?
アンデルセンの辿った道をこうして読んでみると、挫折挫折の連続で、よくぞそのピュアなハートを失わずに童話の道を歩んでくれたと、感謝せずにはいられなくなりました。
きっとアンデルセンは、貧しさで自分が思うような生き方が出来なかった父親からの、「気の進まない道に進むな 自分のやりたいと思うものになれ」 という言葉を、人生の骨子にして頑張ってきたのだと思います。
藤子不二雄A氏がマンガ道で言っていた、「なろう なろう あすなろう 今日が駄目なら 明日は檜になろう 」という精神と同じかもしれません。
人生を歩む道程で、偏見に満ちた人間もいれば、手を差し伸べてくれる人間もいる。
アンデルセンも同様に、それら両者に出会い、傷つき、そして助けられてきた。
アンデルセンの自伝が教えてくれたこと、それは自分の夢や希望は、たとえ他人に何と言われようとも、自分自身がそれらに幕を下ろさない限り、決して無くなりはしないということだと思います。


今年(2005年)、生誕200年であるアンデルセンの童話は知っていても、アンデルセン自体は知らない人も多いと思います。
あれほど美しい童話を書いた人物とはいったいどんな人なのか?これを読めば、そんな問いに「思ったとおり」という以上のアンデルセンの心の美しさ、純粋さに感嘆し、感激すると思います。

これは自分をそんな人物に見せようとして書けるようなものとも思えません。
そして、さすが大作家が書いたものだけあり、面白さや描写の美しさも十分です。

両親のこと、生まれ育った村のこと、苦しかった青少年時代、そして純粋に自分を認めてくれた学生達へのあまりの喜びと感激に打ちのめされる純粋さ。

ブレイクしても変わらぬ謙虚さや、なぜそれが必要かすら明解に語る聡明さ。アンデルセンのファンはいっそう彼を好きになること請け合いと私は思います。




龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

2019年12月10日 14時01分33秒 | 野球


龍彦親王航海記:澁澤龍彦伝

 

内容紹介

不世出の異才の生涯を辿る

作家の最晩年に編集者として謦咳に接した著者による初の伝記。未公開資料と知られざる逸話を交えながら、不世出の異才の生涯を辿る。

「伊達の薄着」の美学

2019年は澁澤龍彥の生誕91年目にあたる。

生前に残した膨大な作品群は根強い人気を誇り、今なお若い読者を惹きつけてやまない。本書は、澁澤と交流をもった最後の世代の編集者であり、2006年に『書物の宇宙誌 澁澤龍彥蔵書目録』を編纂した著者が、知られざる逸話を交えながら不世出の異才の歩みを明らかにする初の試みである。
生い立ちと幼少年期、多感な青年時代。

同時代を生きた盟友、出口裕弘や松山俊太郎、種村季弘、三島由紀夫、多田智満子、生田耕作、加納光於、野中ユリ、土方巽、稲垣足穂、加藤郁乎、池田満寿夫、巖谷國士、唐十郎、高橋睦郎、金子國義、四谷シモンらとの出会い。

澁澤が彼らと交わした書簡や関係者の証言など未公開資料を盛り込みつつ、若き日の雑誌社でのアルバイト、岩波書店の校正室で知り合った最初の妻・矢川澄子、サド裁判、1960年代から80年代にかけて時代を映す出版物を次々と刊行した版元との関わり、雑誌「血と薔薇」編集長としての仕事、二度目の妻・龍子との出会い、晩年の生活にも触れられる。
戦後の日本で、フランス文学の紹介者として、翻訳家、小説家、エッセイスト、アンソロジストとして、日本文学史上に唯一無二の足跡を残した澁澤の文学と人生を一望する1冊。

[目次]
第Ⅰ章 狐のだんぶくろ(一九二八―一九四五)
1 生誕
2 先祖/両親と親族
3 幼少年期
4 幼少年期の読書/南洋一郎
5 旧制中学時代
6 東京大空襲/敗戦

第Ⅱ章 大胯びらき(一九四六―一九五四)
1 旧制浦和高校/野沢協、出口裕弘との出会い/シュルレアリスム/コクトー発見
2 浪人時代/姫田嘉男/吉行淳之介/久生十蘭
3 東大時代/サド発見
4 「新人評論」/恋愛/小笠原豊樹
5 デビュー前夜/小牧近江

第Ⅲ章 神聖受胎(一九五四―一九五九)
1 『大胯びらき』とコクトー
2 岩波書店の外校正/矢川澄子/松山俊太郎/父の死
3 昭和三十一年/「未定」/マルキ・ド・サド選集/三島由紀夫/多田智満子
4 昭和三十二年/生田耕作と片山正樹/コクトーの手紙
5 昭和三十三年/大江健三郎論/石井恭二/花田清輝
6 昭和三十四年/結婚/加納光於と野中ユリ/「聲」/『サド復活』/瀧口修造

第Ⅳ章 サド復活(一九六〇―一九六二)

1 サド裁判
2 昭和三十五年/『黒魔術の手帖』/矢貴昇司/日夏耿之介/土方巽/稲垣足穂/推理小説月旦
3 昭和三十六年/『わが生涯』の共訳/政治
4 昭和三十七年/『神聖受胎』/『犬狼都市』/『さかしま』/加藤郁乎/小町の家

第Ⅴ章 妖人奇人館(一九六三―一九六七)
1 酒宴の日々/池田満寿夫/巖谷國士
2 昭和三十八年/「世界悪女物語」/サド裁判控訴審判決
3 昭和三十九年/中井英夫と塚本邦雄/『夢の宇宙誌』/矢川澄子の役目/種村季弘/『サド侯爵の生涯』
4 昭和四十年/三島の年賀/『快楽主義の哲学』/高橋睦郎/金子國義/《サド侯爵夫人》
5 昭和四十一年/皿屋敷事件と暴風雨の一夜/「異端の肖像」/唐十郎/世界異端の文学/古典文庫/ 北鎌倉の新居/高橋たか子
6 昭和四十二年/四谷シモン/林達夫/喧嘩

第Ⅵ章 ホモ・エロティクス(一九六八―一九七〇)
1 矢川澄子との離婚
2 昭和四十三年/日本文学へのアプローチ/『美神の館』/アスベスト館
3 「血と薔薇」
4 昭和四十四年/美学校/『怪奇小説傑作集4』/サド裁判最高裁判決/再婚/薔薇十字社
5 昭和四十五年/澁澤龍彥集成/初のヨーロッパ旅行/三島の死

第Ⅶ章 胡桃の中の世界(一九七一―一九七五)
1 前川龍子/昭和四十六年/三島事件の余韻/『暗黒のメルへン』/『黄金時代』/石川淳/アラブ旅行
2 昭和四十七年/鷲巣繁男/『偏愛的作家論』/『悪魔のいる文学史』
3 昭和四十八年/青土社/別冊新評「澁澤龍彥の世界」
4 昭和四十九年/イタリア旅行/『胡桃の中の世界』/吉田健一
5 昭和五十年/ユリイカ特集号

第Ⅷ章 記憶の遠近法(一九七六―一九七九)
1 昭和五十一年/怪人松山俊太郎/音楽
2 昭和五十二年/『思考の紋章学』/フランス・スペイン旅行/世界文学集成
3 昭和五十三年/「玩物草紙」/『記憶の遠近法』/蔵書/日本の古典
4 昭和五十四年/時評/『悪魔の中世』/ビブリオテカ澁澤龍彥/著述の分量

第Ⅸ章 魔法のランプ(一九八〇―一九八六)
1 澁澤の日常/昭和五十五年
2 昭和五十六年/オスカル/ギリシア・イタリア旅行/澁澤の旅/『唐草物語』と泉鏡花賞
3 昭和五十七年/翻訳/反核アンケート/河出文庫
4 昭和五十八年/晩年の土方巽/『三島由紀夫おぼえがき』/ウチャ
5 澁澤龍彥批判
6 昭和五十九年/バルチュス展/澁澤龍彥コレクション/ボルヘス/サイン会
7 昭和六十年/「私のプリニウス」/富士川義之/幻想文学新人賞

第Ⅹ章 太陽王と月の王(一九八六―一九八七)
1 素顔
2 昭和六十一年/土方巽の葬儀/『うつろ舟』
3 入院、手術、死
4 葬儀

  あとがき/詳細目次/主要参考文献/索引

内容(「BOOK」データベースより)

「伊達の薄着」の美学。澁澤龍彦の最晩年に編集者として謦咳に接した著者による、初の伝記。未公開資料と知られざる逸話を交えながら、不世出の異才の生涯を克明に辿る。

著者について

礒崎純一(いそざき・じゅんいち)
1959年生まれ。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒。編集者。『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』(国書刊行会)を編纂。共著に『古楽CD100ガイド』(国書刊行会)、『古楽演奏の現在』(音楽之友社)、編纂CDに『カウンターテナーの世界』(ヴァージン)等がある(すべて瀬高道助名義)。

 

並外れた魅力を持つ人物の伝記となっており、とても面白かった。

好きなことしかやりたくないを貫いた人であり、長所は当然だが短所が魅力になる稀有な人で「人たらし」と言える。

浮世離れした逸話が多くあり、周囲を驚かせ呆れられ怒らせたりもするが、結局受け入れることになる。半ば諦めて受容した人だけが残ったのだろうが、徳のようなものがあったのではないかと思える。

作品にも言えるのだが、この人は内的な葛藤を抱えていないように見えるタイプで、超然でもあり、無垢ともとれ、いずれにしろ常人とは違う物差しで生きた人なのだろう。



 
 
 
 

 

 



映画 フリック・ストーリー

2019年12月10日 13時29分41秒 | 社会・文化・政治・経済

csテレビのザ・シネマで12月10日、午前10時30分~観賞

解説

三六件の殺人を犯し、フランス犯罪史上、最も兇悪なギャングといわれるエミール・ビュイッシュを追う敏腕刑事ロジェ・ボルニッシュの活躍を描く実話の映画化。

製作はアラン・ドロンとレイモン・ダノン、監督は「ボルサリーノ2」のジャック・ドレー、実在の刑事ロジェ・ボルニッシュの手記をアルフォンス・ブーダールとドレー自身が脚本化、撮影はジャン・ジャック・タルベス、音楽はクロード・ボランが各々担当。

出演はアラン・ドロン、ジャン・ルイ・トランティニャン、クローディーヌ・オージェ、レナート・サルヴァトーリ、モーリス・エバンス、アンドレ・プッスなど。

フリック・ストーリー [DVD]

原題:Flic Story
配給:東宝東和

ストーリー

国家警察局のロジェ・ボルニッシュ(A・ドロン)は、恋人カトリーヌ(C・オージェ)との結婚を間近かに控え、折あらば大きな手柄をモノにして、主任ポストを獲得しようと、こころ秘かに狙っていた。

一九四七年、戦争が終わってからまだ間もない年の三月。敏腕刑事として同僚からも一目おかれているロジェのもとに、ある日とてつもない大きな事件がころがり込んできた。暗黒街の大物で冷酷きわまりない殺し屋エミール・ビュイッソン(J・L・トランティニャン)が脱獄したというのだ。

ビュイッソンは、実兄のル・ニュス(A・プッス)、仲間のボレック(M・バリエ)、マリオ(R・サルバトーリ)の協力で首尾よく娑婆に出るとすぐ、かつて自分を密告したティボンを愛用の拳銃P38で射殺した。幼い頃からアル中の父親に盗みを強いられて育ったビュイッソンの暗い過去。

その冷酷な才能と度胸は、ひたすら暗黒街の仇花である悪の栄光に接近し今ではフランス中を震えあがらせる殺人鬼として君臨しているのだ。

ビュイッソン一味は、ボルニッシュの捜査活動を嘲笑するかのように第二の犯行を行った。ブルジョワの集まる高級レストランを襲い、客の身につけていた金目のものを強奪したのだ。

ボルニッシュは、犬に仕立てあげたレイモンからの密告でようやく一味の隠れ家をつきとめたが、ル・ニュスとボレック兄妹を逮捕しただけで、ビュイッソンは逃がしてしまった。

度重なる後手後手捜査の責を問われて、ビュイッソン事件からおろされたロジェ班は、ケチな犯罪係りに廻されてくさりきっていたが、ベルサイユ郊外の森の中で発見されたマリオの死体にめぐりあった時は狂喜した。

このことから、ようやく姿を消していたビュイッソンの足どりが割れたのだ。徴税所襲撃の準備のためにラ・メール・ロワ旅館に身をよせているビュイッソンのもとに、ロジェはカトリーヌと同僚のイドワーヌ、ダロスを連れて乗り込んだ。

といっても刑事としてではなく、一民間人の気さくな四人連れという恰好で、通りすがりにたまたま食事に立ち寄ったという大芝居。

ビュイッソンは何者とも分らない四人組にひどく警戒の色を見せていたが、やがてカトリーヌがレストランのピアノに向い、ピアフのヒット曲を奏でると、その殺し屋の冷たいまなざしのなかに、一瞬あたたかく和むような光がキラリと浮かんだ。

ほんの一瞬の油断を捉えたロジェがいきなりビュイッソンに飛びかかって、背後からはがいじめにした。三六件の殺人で起訴されたエミール・ビュイッソンは、セーヌ重罪裁判所で死刑の判決をうけ、一九五六年二月二八日に執行された。

 
1973年に出版された、実在のスーパー刑事ロジェ・ボルニッシュが記した実録小説『フリック・ストーリー』を気に入ったアラン・ドロンが、映画化権を買い自ら製作・主演をつとめて映画化しました。
この時40歳のドロンは、甘いマスクに渋みが加わり始めた頃で超カッコいいです。また凶悪犯ビュイッソン役のトランティニャンの、無表情で不気味な徹底した悪役ぶりが大きな見どころです。
強盗殺人を繰り返し、裏切った仲間を容赦なく次々と殺す残虐無比な人物で、逃げ足も速くなかなか捕まえられませんが、最後にボルニッシュ刑事(アラン・ドロン)が居場所を突き止めて…。 田舎のレストランでのラストの逮捕劇のシーンは秀逸です。
作品の紅一点、ドロンの若妻役クローディーヌ・オージェも逮捕に一役買いますが、その演出が素晴らしく、オージェとの絡みによって、凶悪犯ビュイッソンがチラッと見せる人間味や孤独が作品に深い味わいを加えました。
逮捕前のただならぬ緊張感と田舎のレストランののんびりしたムードのマッチングがなんとも言えず面白く、オージェの美しさと相まって作品に華を添えています。

人々の心に占領下の記憶が強く残っていた時代を舞台としたフランス製刑事物です。
 悪人と警察間の憎しみや意地も描かれて居ますが、実は両者に明確な差は無く、同じ人間として描かれており、さり気無く人情を感じさせる佳作です。
 警察同志所轄争いをしたり、犯罪者を脅し賺して密告を奨励したりしますが、不思議と陰惨な感じは致しません。
 受け身で繊細な役柄の印象が強かったトランティニャンが小柄で美しい毛並みの肉食獣の如きハンサムだが極めて危険な犯罪者ビュイッソンを好演しています。
 ワルサ―P38を瞬きも躊躇もせずに撃つ様子は恐ろしくも魅力的です。
 兄共々親に盗みを仕込まれ、それ以外の生業を知らず、破滅に向かっても生き方を変えられない人喰いの野性動物の如き存在感が強烈です。
 アラン・ドロンがトランティニャンに比べるとやや目立たない物のバランスの取れた酸いも甘いも嗅ぎ分けた魅力的なスーパー刑事ボルニッシュを好演しています。
 尾行中の地下鉄で、犯人一味に疑われそうになった時に見せるアドリブは実にチャーミングです。
 共演者を引き立てるドロンの良き資質は本作でも発動しています。
 妻の治療費欲しさと破滅に向かって邁進するビュィッソンに怖気付いて密告する疲れて物悲しい初老のギャング・猫背のポーロ役をポール・クローシュが好演しています。
 犯人逮捕の際には体を張って協力するボルニッシュの魅力的な婚約者役のクローディーヌ・オージェ、ヴィスコンティ作品やフランス映画でお馴染みの曲者俳優レナート・サルヴァトーリ、暴力的だが頼りになるリシュアン刑事を演じたデニス・マニュエル等、俳優は皆持ち味を出した名演です。
 深みが感じられる出演者の中ではドロンの上司部長役マルコ・ペランだけが口を開けば『出世させてやる。』「失敗したら飛ばすぞ。」「警視庁に負けるな。」ばかりで滑稽な役回りでした。

 2007年に発売されたリマスター版DVDは未購入で、1998年シネフィルイマジカ版DVDとの比較になりますが、スタンダードに無理やり切られていた左右の画面が復活し、大変発色が良く、登場人物達のセンスの良い衣装や時代を感じさせる小道具の細部等も実に良く映って居ました。
 音声もPCM2.0chながら明瞭になっています。
 字幕もフランスの混在する警察機構の理解がし易くなって居ます(余談ですがビソン表記がビュイッソンに変更されていました)。
 ミュゼットをリード楽器としたクロード・ボランによる「フリック・ストーリーのテーマ」と劇中効果的に使用されていたエディット・ピアフの『バラ色の人生』(もう一曲を知りたいです)も実に印象的です。

 一見地味ですが、何回も観る内に味が出る名作です。
 トランティニャン、ドロン、フレンチ・ノワールのファンの方には大いにお薦めです。

映画 ドクトル・ジバゴ

2019年12月10日 12時41分50秒 | 社会・文化・政治・経済

CSテレビのザ・シネマで12月10日午前2時30分から観賞した。実は9日の午前9時から放映されていたが、敢闘会の活動へ行くので観ることができなかった。

ボリス・パステルナークの小説を、「アラビアのロレンス」のロバート・ボルトが脚色、同じく「アラビアのロレンス」のデイヴィッド・リーンが監督した、ロシア革命を背景に1人の男の生涯を描いた文芸篇。

撮影はフレッド・A・ヤング、音楽はモーリス・ジャール、美術監督はテレンス・マーシュとジョン・ボックス、装置はダリオ・シモニ、衣裳デザインはフィリス・ダルトン、特殊効果はエディ・フォーリー、第2班監督はロイ・ロソッティが担当した。

出演は「アラビアのロレンス」のオマー・シャリフ、「ある晴れた朝突然に」のジェラルディン・チャップリン、「ダーリング」で38回アカデミー女優主演賞をとったジュリー・クリスティ、「クロスボー作戦」のトム・コートネイのほかにアレック・ギネス、シオバン・マッケナ、ラルフ・リチャードソン、リタ・トゥシンハムなど。製作は「クロスボー作戦」のカルロ・ポンティ、製作企画は「人間の絆」のジョン・ボックス。

なおこの作品は、第38回アカデミー賞の、5部門(脚色賞、色彩撮影賞、色彩美術賞、色彩衣裳デザイン、オリジナル作曲賞)で受賞。

1965年製作/197分/イギリス・アメリカ合作

監督 デヴィッド・リーン
脚本 ロバート・ボルト
原作 ボリス・パステルナーク
製作 カルロ・ポンティ
製作総指揮 アービッド・グリフェン
出演者 オマー・シャリフ
ジュリー・クリスティ

ストーリー

19世紀末のロシア。ユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)は、医学の勉強を続けるかたわら詩人としても知られるようになった。

幼い頃両親を失い、科学者グロメーコにひきとられた彼は、その家の娘トーニャ(ジェラルディン・チャップリン)を愛していた。

2人の婚約発表のパーティーの日、近所の仕立屋の娘ラーラ(ジュリー・クリスティー)は、弁護士コマロフスキーの誘惑から逃れるため、彼に発砲するという事件を起こした

彼女は帝政打倒の革命に情熱をもやす学生パーシャ(トム・コートネイ)を愛していた。

1914年、ロシアは第1次大戦に突入し、ジバゴは医師として従軍した。

戦場で看護婦として働らくラーラに再会した彼は、彼女がすでにパーシャと結婚したのを知り、自分もまた家庭を持っていたが、ラーラへの愛をどうすることもできなかった。それにパーシャは戦死したとの報告も入っていた。

その頃ロシアは内戦が激しくなり、ジバゴはモスクワの家族のもとへ帰った革命軍の手に帰したモスクワは、飢えと物資の不足にあえいでいた。

ジバゴが革命軍のリーダーで、義兄のエフグラフ(アレック・ギネス)に初めて会ったのはその頃だった。義兄の勧めもあって、田舎で休養することにした彼は、旅の途中で白軍のスパイと間違えられ、赤軍の将校に尋問された。

この将校は、戦死と報じられていたパーシャだった。彼は変わりはて、今や革命への狂信以外、何もない男になっていた。

ラーラとの愛も再燃した田舎での生活、ジバゴにとっては幸せの日が続いたが、ある日突然、彼はパルチザンの1隊にとらえられた。

妻に2人目の子供が生まれると知り、ラーラと別れる決心をした直後のことだ。

しかし彼は脱走し、ラーラのもとに帰ったが、2人の関係を知った妻が、子供をつれて、パリに亡命したと告げられた。

今や亡命者の夫となったジバゴと、すでに追放の身となっていたパーシャの妻ラーラの前に、コマロフスキーが現れた。

彼は2人に危険がせまっていると再三話し、ついに身重のラーラをつれて極東に去った。8年後、ジバゴはモスクワの市街電車の中でラーラを見かけ必死に追ったが、かねてわずらっていた心臓発作で倒れ亡くなる。何年か過ぎた。

エフグラフはダムの建築現場で働く若い娘(リタ・トゥシンハム)に出会った。彼女は、ジバゴとラーラの間にできた私生児だ。彼は両親のことを話してきかせ、ジバゴの詩集を贈りこう言った。

「彼の仕事は党には容れられなかったが、詩を愛する人は彼を忘れない。彼ほど詩を愛した者はいなかった」と。

 

女性11人にわいせつ 容疑で船橋の男逮捕

2019年12月10日 12時40分50秒 | 野球

「性的欲求を発散するため」

12/10(火) 千葉日報オンライン

鎌ケ谷署と千葉県警捜査1課などは9日、11人の女性に対する強制わいせつなどの疑いで船橋市丸山2、無職、鉞田勇太容疑者(42)を逮捕、送検し捜査を終結したと発表した。

逮捕・送検容疑は2014年2月~今年1月まで、鎌ケ谷市や船橋市、松戸市で県内に住む10~20代の女性11人にわいせつな行為などをした疑い。被害女性と面識はなかった。

 同署によると、今年1月、防犯カメラの映像などから浮上した容疑者を逮捕。夜に1人で歩いている女性に対し、背後から近づき抱き付いたり、口をふさいだりして襲う手口だったという。「性的欲求を発散するため」と容疑を認めている。