ジャパンライフ、元特許庁長官ら5人に計約1億4500万円の顧問料

2019年12月18日 23時47分49秒 | 社会・文化・政治・経済

12/18(水) 読売新聞オンライン

今春に特定商取引法違反容疑で警視庁などの捜索を受けた磁気治療器販売会社「ジャパンライフ」(破産手続き中)について、被害弁護団は18日、同社が元官僚ら5人に計約1億4511万円の顧問料を支払っていたと発表した。

5人は同社のパンフレットで氏名や肩書などが紹介されており、弁護団は「5人が広告塔となったことが被害拡大に拍車をかけた」として、顧問料を返還させるよう同社の破産管財人に求めている。

弁護団によると、最も多額だったのは元通産相秘書官の男性で、13年間に計9060万円を受け取った。

次いで元朝日新聞政治部長が5年間で計約3011万円。元科学技術庁職員も8年間に計1780万円を受け取ったほか、元消費者庁課長補佐が360万円、元特許庁長官が300万円を各1年間受領した。

 同社は「磁気治療器のオーナーになれば年6%のレンタル収入が入る」とうたって全国の高齢者ら約7000人から計約1800億円を集めたとされる。

 

最終更新:12/18(水) 23:35
読売新聞オンライン


睡眠時無呼吸症 ~石器が生んだ病~

2019年12月18日 23時39分40秒 | 医科・歯科・介護

病の起源 
第1集 NHK

 2008年4月13日(日) 

午後9時00分~9時49分

生きていくために欠かすことの出来ない呼吸が睡眠中に停止する睡眠時無呼吸症。

豪快なイビキが突然止まり、30秒から1分ほどの呼吸停止による沈黙の後、窒息を回避しようとイビキとともに呼吸を再開する。

一晩に数百回もの呼吸停止を繰り返すにもかかわらず、本人はほとんど気付かない。

睡眠時無呼吸症は、最近の研究から心臓病や脳卒中など様々な合併症を引き起こしていることが明らかになってきた。

睡眠時無呼吸症が重症の場合、治療せずに放置すると12年後には35パーセントが心臓病や脳卒中などを発症すると言う調査結果もあり、私たちの健康に計り知れない影響を与えている。

睡眠時無呼吸症は、自然界の動物には起こらないと言われ、ヒトだけがなぜか患ってしまう病である。ヒトは独自の進化の過程で、無呼吸症を起こすのどを獲得していたのである。

しかし無呼吸症になる宿命を負った一方で、ヒトには重要なメリットがもたらされていた。それは言葉の獲得である。言葉のおかげで、人類は文化や文明を高度に発展させ、地球史上類ない存在になった。
番組では、睡眠時無呼吸症がなぜ起きるのか、そして進化の過程でヒトの体に一体何が起きたのか、最新の研究成果に基づいて数百万年前の人類の姿と暮らしの様子を映像化し、壮大な進化の中に睡眠時無呼吸症の起源を探ってゆく。

(案内役 樹木希林さん)


小学校講師 校舎内で小3女児に強制わいせつ容疑で逮捕

2019年12月18日 23時32分47秒 | 社会・文化・政治・経済

『下半身押し当て』…容疑認める

12/12(木) MBSニュース

 12月6日、大阪府門真市の公立小学校の講師が、勤務先の校舎内で小学3年の女子児童に対して下半身を押し当てるわいせつ行為をしたとして逮捕されました。

 強制わいせつの疑いで逮捕されたのは大阪府守口市に住む小学校講師・山脇魁斗容疑者(26)です。警察によりますと、山脇容疑者は12月6日午前8時半頃、勤務する門真市の公立小学校内で小学3年の女子児童(当時8歳)の下半身に自分の下半身を背後から押し当てた疑いが持たれています。

 翌日に女子児童が母親に被害について話し、母親が警察に相談したことから事件が発覚しました。山脇容疑者は今年の春からこの小学校に勤務していて、警察の取り調べに対して「間違いありません」と容疑を認めているということです。

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女性を農業用ハウスに連れ込み…首を絞め性的暴行 

2019年12月18日 23時28分44秒 | 社会・文化・政治・経済

堺市の会社員逮捕 30分前にも別の女性にわいせつか

12/18(水) 関西テレビ

大阪府内の路上を歩いていた女性を農業用ハウスに連れ込み性的暴行をした疑いで、33歳の男が逮捕されました。

男は30分前にも別の女性の体を触っていました。

強制性交等致傷やわいせつ目的略取などの疑いで逮捕されたのは、堺市中区に住む会社員の廣岡洋平容疑者(33)です。

廣岡容疑者は今年9月、大阪府内の路上で通りかかった女性(当時21)に、背後から口をふさいで農業用ハウスに連れ込み、首を絞めて抵抗できないようにして性的暴行を加えた疑いがもたれています。

女性は膝に全治2週間のけがを負いました。

調べに対し、廣岡容疑者は「性的暴行はしていません」と容疑を否認しています。

警察によると、廣岡容疑者はこの犯行の30分前には、当時18歳の女性に対しても路上で背後から口をふさいで服の上から体を触った疑いが持たれています。

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病の起源  人類進化700万年の宿命

2019年12月18日 12時57分58秒 | 医科・歯科・介護

プロローグ

2013年10月20日(日) 

午後9時00分~9時49分

「腰痛」「脳卒中」「糖尿病」・・・。私たちを悩ます様々な病に対し、それを対症療法で治そうとしてきた医学が大きな変革点に差し掛かっている。

人類がその病を抱える事になった根源的な原因の追及から、新たな治療法や予防法に繋げようとする「進化医学」に注目が集まっているのである。
私たち人類が誕生したのは700万年前、四足歩行の霊長類と別れ二本足でアフリカの大地に立ったのがその起源である。

その後、自由になった器用な手で石器を作り、高度な道具を使うことで脳が巨大化し、独自の進化を遂げ始めた。

それは農耕や牧畜の発明へと繋がり、やがて今日の高度な文明を築き上げるまでになった。
しかしその過程の中に、人類にとって「負の遺産」とも言うべき様々な「病の種」が蒔かれていたのである。

その種は、高度な文明社会が生んだ環境や生活習慣の変化の中で一気に開花、今、私たちを苦しめている。
この番組は、人類の進化の全貌を俯瞰しながら、そこに埋め込まれた様々な「病の種」の背景を探り、病の起源を紐解いてゆく、壮大な知的エンターテインメントである。

人類が苦しむ病気を、進化の観点から追求する「病の起源」。

シリーズ第3集は、働き盛りを襲い自殺に追い込むなど、深刻な社会問題になっている「うつ病」。

世界の患者数は3億5千万人に達し、日本でもこの10年あまりで2倍に急増している。

なぜ、私たちはうつ病になるのか?

その秘密は、意外にも5億2千万年前に誕生した魚の研究から明らかになってきた。

魚でもある条件を作ると、天敵から身を守るために備わった脳の「扁桃(へんとう)体」が暴走し、うつ状態になることが分かってきたのだ。

さらに2億2千万年前に誕生した哺乳類は、扁桃体を暴走させる新たな要因を生みだしていた。

群れを作り外敵から身を守る社会性を発達させたことが、孤独には弱くなりうつ病になりやすくなっていたのだ。そして700万年前に人類が誕生。

脳を進化させたことで高度な知性が生まれ、文明社会への道を切り開いてきた。

しかしこの繁栄は、皮肉にも人類がうつ病になる引き金を引いていた。文明社会によって社会が複雑化し、人間関係が一変したことが、扁桃体を暴走させ始めたのだ。

番組では、研究の最前線で明らかにされてきたうつ病の秘密に迫り、そして進化を手掛かりにして生まれた新たな治療法を紹介。人類の進化がもたらした光と影を浮き彫りにしていく。



創作欄 徹の青春 14

2019年12月18日 12時42分41秒 | 創作欄

 

2012年3 月19日 (月曜日)

強姦罪の特徴は、被害者の告訴がなければ起訴することができないとされていることだ(親告罪)。

これは捜査や公判を通じて、犯行の様子や被害者のプライバシーに関する事柄が明らかにされることで、被害者により大きな心理的なダメージを与えかねないことからそのように定められている。

つまり被害者の心情が考慮されるのである。

ただし、加害者が複数の場合には、被害者の告訴がなくても起訴できるとされている。
3
人によって強姦された君江は妊娠してしまった。
それは二重の悲劇であった。
娘の異変に気づいたのは、母親の江利子であった。
月経が止まっていた。
女性は妊娠することによって、ホルモンの分泌が大幅に変わる。
君江にも疲労や眠気、頻尿、便秘、おっぱいの張りなどがあった。
特に異様に眠くなったり、吐き気などのつわりの症状が出てきた。

そして体温が今までに経験したことがないほど高温域に達した。

妊娠10週ごろになると 赤ちゃんがお腹の中で活発に動き始める。
羊水の中で頻繁に体を動かしているようなのだ。
君江は固くなに妊娠を否定したが、母親は必死になって君江を説得し産婦人科へ連れて行こうとしていた。
「相手は誰かは聞かない。父さんには黙っているから、絶対に産婦人科に行かなければダメ!まだ15歳でしょ。中絶するのよ!いいわね!」

君江は布団にうつ伏せとなり、泣き続けるばかりであった。
徹が妹の妊娠の事実を知ったら、さらに怒り狂ったであろう。
そして、娘を溺愛していた父親の佐吉が、君江の妊娠を知ったらどうなるであろうか?
まだ15歳の中学生、想像もしていなかった娘の妊娠に、母親の江利子は頭が混乱してきた。
「相手は誰なのだろう」
病院の産婦人科の待合室で、娘の中絶手術を終わるのを待つ間、江利子は色々な想念を巡らせていた。

 

20123 20 (火曜日)

創作欄 徹の青春 16

徹の母親の江梨子は、肝っ玉の据わった女であった。
突然、息子の徹が高等学校を中退してしまった時もほとんど動じなかった。
「まだ、17歳でしょ。高校を中退しただけで、徹の人生が終わったわけではないの。私は徹を見守っているからね」
徹の心情を察するような眼差しを向けると包み込むように言った。
そして学校を辞めてから、毎日、沼田の街中を彷徨っているような息子を見守っていた。
一方、徹の義父の佐吉は、怒りが心頭に達して徹を何度も殴りつけた。
「家を出て行け!」
吐き捨てるように言った。
「いつまでも、ぶらぶらしているのか。目ざわりだ早く出て行け!」
顔を合わせる度に、苦情を言われた。
義父は酒を飲むと苦虫を噛みつぶしているような顔が赤らみ、段々般若の面を想わせるように目も吊りあがっていった。
佐吉は囲炉裏端たで、炭の火を見詰めながら煙草を吸っていた。
そして戦死した兄のことを思い浮かべていた。
佐吉は兄が戦死したことで、自分の人生行路が狂ってしまった。
佐吉は終戦を長野県の松代で迎えた。
いったん沼田に帰郷して、大学に復学する予定であった。
だが、父親の金蔵が「兄嫁と結婚して、家を継げ」と家長の権限で命令したのだ。
家長とは、一家の家督を継承して家族を統括し、その祭祀を主宰する者を指した。
当主と同義の言葉とされている。
家長は夫権や親権を通じた配偶者及び直系卑属に対する支配は勿論のこと、それ以外の親族に対しても道徳的な関係を有し、彼らに対する保護義務とともに家長の意向に反したものに対する者を義絶する権限を有していた。
そのようは封建社会の古い体質を金蔵は体現していた男だった。

戦死した徹の父の清太郎は、旧制沼田中学の優等生であった。
誰もが高等学校へ進学し、帝国大学へも行くものと期待をしていた。
旧制沼田中学で清太郎と成績を争っていた、清太郎の親友だった大野幸郎は一高から帝国大学へ進学し、後年は弁護士になっている。
だが、清太郎は父親の金蔵から、「農家を継ぐ者に学問はいらない」と高等学校の受験を反対された。
そして、清太郎が19歳の時、川場村から16歳の江梨子を嫁に迎え入れた。

すべての段取りを父親の金蔵が仕切っていた。
農協の組合長で村会議員をしていた金蔵は村の有力者であり、封建的時代の家長的体質が色濃い人間で、言動には人に有無を言わせない強引さがあった。

20123 21 (水曜日)

創作欄 徹の青春 17

徹の義父佐吉は、戦争に翻弄されたと思って生きてきた。
東京の杉並の阿佐ヶ谷に下宿をしていて、大学予科へ通っていたのであるが、学徒出陣の実施の流れに組み込まれた。
1943
年(昭和18年)1021日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。
壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に連隊(入営)か海兵団(入団)へ入隊した。
そして、徹の義父佐吉は長野県の松代象山地下壕で終戦を迎えた。
第2次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに、大本営、政府各省等を松代に移すという計画の下に地下壕を構築した。
地下壕の着工は昭和19年11月11日から、翌20年8月15日の終戦の日まで、約9か月の間に当時の金で約2億円の巨費とおよそ延べ300万人の住民及び学徒・生徒、朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され1日3交代徹夜で工事が進められた。
食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したと言われている。
松代地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3か所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロメートル余に及んでいた。
全工程の75%の時点で終戦となり工事は中止された。
佐吉は、下宿先の娘と恋仲になっていた。
「戦争でお互い生き残ったら、将来結婚しよう」と約束していたのだ。
だが、いったん群馬県の沼田に戻ったことから、思わぬ挫折となった。
大学予科へ戻れなかったことに加え、恋に終止符が打たれた。
それは悔やんでも悔やみきれないことであった。
徹が高校を中退した時、佐吉は自分の過去を重ねて怒りが込み上げてきた。

佐吉は妻の江利子にも大学予科へ通って時代のことや、長野県の松代象山地下壕で苦役を強いられたことなどの過去には硬く口を閉ざしていた。

敗戦の年から、15年の歳月が流れていた。

「あの娘は、どなっているであろうか?」

一人酒を飲むと佐吉は想ってみた。

 


創作欄 徹の青春 15

2019年12月18日 12時32分16秒 | 創作欄

 

2012年3 月20日 (火曜日)

母親の江利子は、ある新興宗教の信者である

実は、85日の沼田の祇園祭の日は、実家の川場村に帰省していた。

目的は、兄嫁の貞江に宗教を勧めることであった。
うつ病であった江利子は、蘇ったように性格が明るくなり元気に活動するようになっていた。
兄嫁は別人のように見える江利子を目の前にして目を丸くした。
「江利子変わったわね」
「そうでしょ。私は蘇生したのよ。宇宙の法則に沿って生きているのよ」
「宇宙の法則?」
「例えば、ラジオを聴く時、周波数があるわね。それに合わせないと番組を聴くことができない。NHKにはNHKの周波数があるように、宇宙の法則は一つなの。自分の内に本来ある根本的なものと宇宙の法則に周波数を合わせるの」
「よくわからない」
貞江は多弁になった江利子に気押させた。
「私も初めは、何のことだかさっぱり分からなかった。でもうつ病が治るものなら、やってみようと思ったの。でも今は宇宙の法則があることを確信している。お姉さんも宗教を信じてやってみてね」
「私、考えておく」
貞江は腰が引けた。
夫の佐吉は、江利子の勧める宗教の話には聞く耳を持たなかった。
「信仰の自由だ。お前が信仰を持つことは許すが、俺は絶対にやらんぞ、2度と俺に向かって信仰など勧めるな。いいな」
息子の徹も同様であった。
娘の君江は、「私、考えてみる」と興味を示した。
君江が人工中絶をして病室のベッドに横たわっていた。
両手で顔を覆って君江は泣いていた。
江利子はベッドの脇に座り君江の髪を優しく撫でながら言った。
「君江、そろそろ信仰をしようね。人生には色々なことがあるけれど、君江は幸せなる権利があるのよ。信仰のことは直ぐにはわからない。でもね、どんな運命でも変えることができる宗教なのよ。いいわね?」
君江は布団で顔を覆い泣き続けた。
だが、「どんな運命でも変えることができる」と言った母親の言葉を胸に留めていた。

 


井上日召が群馬県利根郡川場村の出身とは驚き!

2019年12月18日 12時21分43秒 | 社会・文化・政治・経済

略歴[編集]

 
1954年

エピソード

後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、赤ん坊の房子は井上に膝に抱かれたことがあるといわれる。

登場する作品

いのうえ にっしょう
井上日召
Nissho Inoue.JPG
生誕 1886年4月12日
日本の旗 日本 群馬県利根郡川場村
死没 1967年3月4日(80歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 早稲田大学東洋協会専門学校(現:拓殖大学
職業 僧侶
政治運動家
テロリスト
運動・動向 血盟団」、「護国団
宗教 仏教日蓮宗

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化

2019年12月18日 11時56分23秒 | 野球

竹内 洋  (著)

商品説明

   本書のタイトルを目にして戸惑いを覚える向きも、決して少なくはないだろう。教養主義などと呼ばれる姿勢は、まさに「没落」して久しい。なにを今さら、と感じても当然だし、そもそも教養主義なることばを知らない読者もあまたいるはずだ。

少々古めかしい本と思われても止むを得ないかもしれない。ところが、こうした印象とは裏腹に、本書はきわめてユニークで刺激的な文化論となっているのである。

   教養主義とは、読書を通じて得た知識で、人格を磨いたり社会を改善していこうとする人生観のこと。大正期の旧制高校ではぐくまれた思潮で、戦後も1970年前後までは大学生の規範文化だった。

本書はさまざまな文献や統計を素材に、教養主義の盛衰を実証していく。たとえば、勉強時間や書籍費、スポーツへの関心などについて教養主義の担い手たる帝大文学部生と他学部の学生を比較したり、学生の検挙率からマルクス主義の浸透を解読、または、大学生への読書調査をもとに、戦後、「世界」「中央公論」といった総合雑誌が読まれなくなっていくさまを提示する、といった具合である。

こうした検証だけでも充分おもしろいが、「いったい教養主義とはなんだったのか」という考察にまで筆が及んでいるところが、なにより注目に値する。

   著者によれば、教養主義を支えたのは、都市の気風よりも、むしろ農民的刻苦勉励の精神である。これも単なる印象ではなく、帝大文学部の学生は他学部にくらべて農村出身者の割合が高かったという。知識人として文化的生活を送ることへの憧れが背後にあったと考えられるのだ。

ゆえに戦後、都市と農村の文化格差が消失し、学生がエリートでなくなったとき、教養も意味を失ったとする。

さらに本書では、大学生の権威が失墜した不安や怒りを源泉に学園紛争が起こったという見方を示しているが、これもさまざまな資料にもとづき教養主義の斜陽が述べられたあとだけに、はっとするほどの説得力を持っている。

   とはいえ、本書は単に実証的・論説的な書物ではない。あからさまに謳(うた)うことは避けていても、教養主義に対する愛惜が端々ににじみ出ており、それが骨太なメッセージとなって伝わってくるのだ。

著者も述べているように、今後かつてのような教養主義が復活することはまずありえないだろう。しかし、文化がますます軽く、歯ごたえのない消費財となっていく時代、そのなかにいささか学ぶべきものがあると考えても決して的はずれではあるまい。(大滝浩太郎)

内容(「BOOK」データベースより)

一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範文化であった。それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。

人格形成や社会改良のための読書による教養主義は、なぜ学生たちを魅了したのだろうか。本書は、大正時代の旧制高校を発祥地として、その後の半世紀間、日本の大学に君臨した教養主義と教養主義者の輝ける実態と、その後の没落過程に光を当てる試みである。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

竹内/洋
1942年(昭和17年)、新潟県に生まれる。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程修了、関西大学社会学部教授、京都大学教育学部教授を経て、現在、同大学大学院教育学研究科教授。放送大学客員教授。専攻・教育社会学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

昔の大学生は本当にたくさん本を読んでいたんだなあ、という事実を改めて思い起こさせてくれる本である。大事なのは、本書は教養の大切さを論じた本ではなく、主に大学生において教養主義(教養が大事だ、という考え方)がどのように変遷していったか、ということを追った本である。そして結論として、そんな考え方は既に今の大学生にはない、という。

 著者によれば、昔(戦中、戦前)の大学生というのはとにかく難しい本を読む人、というイメージだったそうである。私はもっとずっと新しい時代に生きているけれど、田舎のことゆえ周囲に大学生という存在がなく、殆ど同じようなイメージを抱いていたことを思い出す。また、本書を読んで実に久しぶりに「三太郎の日記」(阿部次郎著)などという本を思い出した。著者によって哲学めいた教養書の代表的な本として名指しされているこの名著を、私も大学に入りたての頃に読んだ。ただ、内容を覚えていないことを考えると余り良く理解できなかったものと思う。しかし、とにかくわかろうと努力したことは事実で、知的な格闘はした痕跡がある。

 また、中央公論という雑誌が大学生にとってとても重要な地位を占める本だったということを初めて知った。私の中では子供の頃からずっと大人、つまりおじさんの雑誌という位置づけだったのだが、昔の大学生はこれを教養の一部としてわからなくても購入していた、という。最近では文藝春秋との境界も曖昧だが、昔は中央公論の方がずっと格上だったということである。

 なぜ没落したのか、ということを本書はつきつめて書いていないのだが、確かにつきつめて考える特段の理由もなく、ただそれが時代の流れだということもできよう。しかし、やはり大学生というのはいつの世も知性の代表的な存在でありたいと願う。せめて東大や京大のエリート学生は、他とは一線を画する知のオーラのようなものをずっと発散していて欲しい。大学生の知性が退潮傾向にある今となってはもう遅く、ただの夢なのだとわかってはいるのだけれど。
 
 
 
明治以来の日本の教養主義について書いている. 旧制高校に発したエリート学生文化における教養主義はやがてマルクス主義にとってかわられていく. 1930 年代にマルクス主義が弾圧されるようになると教養主義が復活するが,戦後はふたたびマルクス主義とのむすびつきがつよくなる. しかし,石原慎太郎に代表されるあたらしい世代は教養主義ともマルクス主義とも距離をおく. 戦後つぎつぎに新設された文学部に教養主義はささえられるが,全共闘運動のあと 1970 年代にキャンパスから駆逐されていく. そして,教養主義への反乱を最終的に完成したのがビートたけしだと著者はいう.

終章で著者は現代の大学生が人間形成の手段として従来の人文的教養ではなく,友人との交際を選ぶ傾向が強いこと,そして前尾繁三郎や木川田一隆にみられるように教師や友人などの人的媒体が教養がやしなわれる場として重要であり,これからの教養を考えるうえで大事にしたいと書いている. 教養主義が没落したといっても,今後もべつの教養主義がいきのこっていく可能性を指摘しているといえるだろう.

この本には海外の教養主義についての記述もわずかながらみられるが,ほとんどの記述は日本にフォーカスしている. 海外とのつながりについて,もうすこし語ってほしかった.



京都大学名誉教授が書く、過去の大学の「教養」についての考察

構成は、旧制高校に存在していた「教養主義」について
新制高校と旧制高校の切り替え時に注目して考察を行っています。
特に、この切り替え時期である大江健三郎、高橋和己、石原慎太郎を比較し
「教養主義」が彼らにどんな違いをもたらしたのかを述べています。
またこの当時の色々な文化と「教養主義」の関係を述べています。
 さらに当時の「岩波書店」がどのような関係あるのかを述べて
「教養主義」の定義を行っています。
 最後にその「教養主義」が現在にどのように息づいているのか
アンチクライマックスという形で示しています。

 社会学の本として、また旧制高校を知らない世代として
このころの「教養」とは何か、どのような変遷を辿ったのかを
知る良い手がかりとして有用でした。また、
 現在に生きる私として「教養」の価値を計れるこの内容は
大学教育に求めるものとは何かを考えるうえでも私は
うれしかったです。


日本の教養主義(マルクス主義含む)が、都会へやってきた比較的貧しい階層の刻苦勉励主義に支えられた、(洗練された中央文化に対する)カウンターアタックだったという筆者の考察には驚くべきものがあります。 高度経済成長期、地方と都会の差が縮まるとともに、教養主義も没落した−。 恐らくそれは正しいのでしょう。 それに加えて、戦前まで日本以上の歴史と文化的多様性を誇るヨーロッパ的教養を範としていた日本が、その没落とともにアメリカ流の社会を目指したことも理由だろうと、私は思っています。 私は在米12年になりますが、最近の日本人の今すぐに結果、見返りを求めるメンタリティが(それがいい悪いは別にして)、驚くほどアメリカ人に似てきていることに驚かされることがあります。 日本流教養主義解体の牽引となった石原慎太郎、吉本隆明、ビートたけしについての考察なども鋭いものがあると思います。

私事になって恐縮ですが、教養主義的傾向の強い両親(しかもどちらも地方の教員)に育てられた私が過ごした90年代初頭の東京の大学はまさにレジャーランドでした。 その居心地の悪さと言えばあまり思い出したくもないことですが、折りにつけてあれはどうしてだったのだろう?と、考えることがよくありました。 そのもやもやとした霧を晴らしてくれる本でした。
私はまさに今は昔の教養主義的学生の典型だった!?



大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年代頃までの日本の大学キャンパスに見られた
教養と教養主義の輝きとその後の没落過程を改めて問題として考察した書(P25より)。
教養主義とはどのようなものだったか、ということが理解できたのは収穫だった。

著者いわく教養主義とは、哲学・歴史・文学など、
人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度である。
その精髄は、農村の若者たちの「西欧文化志向」と「成り上がり志向」にあり、
公卿や武家とは違う、新興のブルジョア階級の精神的拠り所となった。

また教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。
それは学識を積んだ者とそうでない者との間に、強制的な上下関係・支配関係を作り、
一種の特権階級として機能した。

ところが1970年代になると、人口増加に伴い大学生の数が増え、
ほとんどの生徒が大衆的サラリーマンになることが分かると、
学歴エリート文化である特権的教養主義に、文化資本としての魅力は無くなった。
また、農村と都市の生活格差が無くなったことから、教養主義の土台も消滅した。
さらに現代の大学生は、人間形成の手段に従来の人文的教養を必要とせず、
代わりに友人との交際を選ぶようになっている。

著者は、現在の教養主義の凋落の状態を、ビートたけしを例に出して以下のように書き表している。
『たけしという知的野郎どもは、野郎どもや大衆的平均人を観客にしながら、「優等生」と「耳穴っ子」を
いじめるのである』(P230)

人格形成が教養主義の目的であるなら、難しいことを自分だけが知って満足するのではなく、
他人に分かりやすく説明する配慮をもつことが大切なのではないかと思う。

たけしは、『オレたちのような大衆が読んでもイメージの湧かない言葉は、
何のための、だれに向けた言葉なのか。それがわからない(中略)
年寄りだけにわかる言葉を使って、現実からますます遠ざかっているのはなぜか、わからない』
(P229)とも言った。しかし残念なことに、この問いに対する著者の見解は記されていない。
 




 

官僚制の「最頂点としての天皇」像

2019年12月18日 11時39分07秒 | 社会・文化・政治・経済

たとえば幕末には、「私心」ある幕府を排斥する「公論重視」のシンボルとして天皇が浮かびあがった。
以後も、明治期は富国強兵、戦後は平和国家といった「公」の目標へ国民をまとめる力が天皇シンボルにあった。
明治憲法と日本国憲法が制定される前後、官僚らは自らの理想とする体制の創出のため、巧妙な政治的行動をとった。
これら官僚の「狡知」ゆえに、我々国民は、皇室た皇室儀礼の在り方について議論する機会を奪われてきたとも言える。
公共の守護者としての天皇の裏面に「万世一系」の物語の影響はあるだろう。
ただ、「万世一系」のプロジェクトを虚構だと理解したうえで、為政者はパッチワーク(つぎはぎ細工)を続けてきたのではないか。
摂関家、武家政権、明治政府・・・。
日本に住む人々の「総意」の代表としての天皇を置く。
この意味で、特別な一人と民主主義は連結可能と見られてみた。

自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たす」政治学者の丸山真男の言葉。

官僚制の「最頂点としての天皇」像がある。
東京大学教授 加藤陽子さん(毎日新聞から引用)


茨城県庁25階・展望ロビーにカフェ開業

2019年12月18日 10時51分58秒 | 社会・文化・政治・経済

眺望楽しみながら飲食

毎日新聞2019年12月17日 地方版

 

県庁の行政棟25階の展望ロビーに今夏、紅茶やコーヒー、軽食などを提供するカフェ「紅茶専門店花水木ティーラウンジ茨城県庁展望ロビー店」が開業した。高さ約100メートルからの眺望を楽しみながら飲食でき、若者を中心に人気を集めている。お堅い印象の県庁に登場した新名所に立ち寄った。【太田圭介】

 

 カフェは約500平方メートルの広さで、カウンターやテーブルなど約40席。北側展望ロビーの西端にある。ディナータイム直前の夕暮れ時に訪ねると、女性客を中心ににぎわっていた。出迎えてくれたマネジャー兼店長の宮崎信子さん(46)は「開放的な雰囲気の中で紅茶や洋菓子などを味わえるすてきなお店です」と紹介した。

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この夏、茨城が大きく変わる!

茨城県庁の25階・展望ロビーや水戸を代表するお祭り「水戸黄門まつり」も!

令和と共に移り変わるいばらきをご紹介します!

茨城県庁25階・展望ロビーがリニューアル!!

改修工事のためクローズしていた茨城県庁25階・展望ロビー(北側)が、満を持して、リニューアルオープンいたします。「訪れる時間によって異なるムードを楽しめる空間」をコンセプトに、来庁頂いた皆様に、より便利に、より快適に過ごしていただける空間づくりを目指しました。

「くつろぎ」「ビジネス」「打ち合わせ」「見学」と、来庁者の目的別にスペースを設置。それぞれの目的に併せた環境づくりを目的としています。

また、25階という高所から見える茨城県の広大な景色をお楽しみいただくため、昼夜の変化に対応した間接照明を導入し、よりきれいな景観をお楽しみいただけるようになりました。併設しているカフェコーナーも一新。テーブル、椅子にはモバイル対応の電源を設置するなど、快適なスペースづくりを目指しています。

開放時間を22時まで延長し、夜には、夜景を見ながら、茨城の地ビールや地酒を楽しむこともできます。

25階展望ロビー

 

茨城県庁25階・展望ロビー「花水木ティーラウンジ」

つくば市で人気の紅茶専門店「花水木(はなみずき)」が、県庁25階・展望ロビー(北側)に登場します。
豊富な種類の紅茶はもちろん、昼の時間にはランチを、夜の時間には目の前に広がる夜景を見ながらムードある空間で茨城の地ビールや地酒も楽しめます。

今回は、「花水木ティーラウンジ」の一部をご紹介します!

 


アフターヌーンティーセット1,890円(税込)

 


パスタランチ(パン,サラダ,スープ,紅茶付き)1,200円(税込)

 


県庁オリジナルブレンドティーも販売
(ばんどう紅茶をベースに、黒糖梅酒とばらのフレーバーが香るオリジナルティー)


天気が良ければ、那須連峰まで見渡せます。

 


夜は、夜景を見ながら、地ビールや地酒を

 


イベントや宴会予約も可能

 <リニューアルオープン(今後の開放時間について)>

7月26日(金曜日)10時オープン

リニューアルオープン後の25階展望ロビーの開放時間は、従来の20時から22時まで延長!

  • 月曜~金曜日:9時30分~22時(カフェ営業10時~21時(ラストオーダー:20時),物販営業10時~20時)
  • 土曜日曜祝日:10時~22時(同上)

カフェ営業については,県庁舎内店舗のご案内をご覧ください。 

 

 水戸の伝統あるお祭り「水戸黄門まつり」がリニューアル‼

昭和36(1961)年に始まり、今や水戸の夏の風物詩として愛されている「水戸黄門まつり」。

令和元年、水戸市市制施行130周年となる今年、これまでの目玉行事だった、黄門ばやしに合わせた踊りを各チームで披露する「水戸黄門カーニバル」、山車(だし)の上で繰り広げられる太鼓合戦が見物の「山車巡行」に加え、各日、目玉となる催しをご用意!熱い令和の夏を,さらに「水戸黄門まつり」が3日間にわたり盛り上げます!

 第59回水戸黄門まつり

日時:7月20日(土曜日)・8月3日(土曜日)・8月4日(日曜日)

 

 水戸に咲く日本一の花!

日本の花火師・野村花火工業が打ち上げる約7,000発の花火が湖面を彩る!
水戸偕楽園花火大会

日付:7月20日(土曜日)19時30分~21時00分
場所:千波湖(茨城県水戸市千波町3080)

 

 初開催!日本三大提灯産地の一つ、水戸の提灯が時を超え、街を照らす!

水戸黄門提灯行列

日付:8月3日(土曜日)19時30分~20時30分
場所:国道50号(南町1丁目交差点~南町3丁目交差点間)

 

「水府」とは、江戸時代の水戸の異称であり、江戸時代に水戸藩の産業振興として生まれた「水府提灯」は下級武士の内職から始まったと言われています。

良質な竹からできる竹ひご一本一本を輪にして、それに糸を絡めていく「一本掛け」という独自手法に加え、水戸藩の奨励産業であった丈夫で水に強い「西ノ内和紙」を用いて作られた「水府提灯」は、まさに堅牢・質実剛健と評されました。

それにより、水戸は岐阜、福岡の八女と並び、日本三大提灯産地と称されるようになり、現在に至っています。新たな取り組みとして行われる提灯行列では「水府提灯」を使用。火の灯った提灯の行列は絶景となること間違いなし!?

 

 日本最大級のふるさと神輿初披露!約500人で担ぐ圧巻の光景!

ふるさと神輿渡御(みこしとぎょ)

日付:8月4日(日曜日)14時00分~18時00分
場所:国道50号(南町3丁目交差点~泉町1丁目交差点間)

 新しい時代の幕開けとなった令和元年、水戸市は市制施行130周年を迎えました。

その記念すべき年に、水戸神輿連合は、歴史を刻む県都水戸が新たな時代を拓くために、ふるさとに元気をふりまく絆のシンボルとして、大きな神輿を新たに作って担ぎ、伝統と和の心をつないでいきたいと強く願い、日本最大級の大神輿を製作。500名で神輿を担ぐ姿は、圧巻です!

水戸市出身であり、水戸大使及びいばらき大使を務める和楽器バンドのボーカル「鈴華ゆう子さん」が水戸黄門まつりのイメージソングを制作!

今回の水戸黄門まつりのために書き下ろされた新曲を、華やかなまつりの映像とともにお楽しみください。

 

 


いじめ訴えた文章 教諭が教室に掲示

2019年12月18日 10時45分21秒 | 社会・文化・政治・経済
12月16日 TBS
 
栃木県日光市の市立小学校で男子児童がいじめの被害を訴えた文章を、担任教諭が教室内に張り出していたことが分かりました。

 日光市教育委員会によりますと、去年、市立小学校で、6年生にいじめに関する新聞記事の感想文を書かせる授業がありました。その際、1人の男子児童が、自分が受けているいじめの被害を感想文で訴えましたが、担任の男性教諭が、ほかの児童の感想文と一緒に教室内に掲示したということです。

さらに男性教諭は、その後、いじめへの対応を行わず、男子児童は学校を休むようになったということです。

学校や教育委員会は、家族が今年に入って相談して初めて経緯を知ったということで、学校は、男子児童に謝罪したということです。


星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年

2019年12月18日 10時34分35秒 | 社会・文化・政治・経済
 
最首 悟  (著)

商品の説明

ダウン症の子、星子との20年の暮らしから紡ぎ出された人間存在の根底への省察。

 

哲学者最首悟さんの4番目のお子さんは重いダウン症、失明もされ、多重障害者として生きています。 この書は、今から20年ほど前20歳までの彼女と最首さんたちとの触れあいを綴っています。 「ある」のではなく、「居る」とは。 生まれてきたのは何か意味あることなのか。 福祉とは。権利とは。義務とは。と私たちに多くを問いかけてくれています。


星子が居ることについて、星子には何の責任もない。これがとてつもなく大事だという著者。ダウン症の重複障害をかかえる星子との生活の記録。社会福祉関係の雑誌に発表されたものをそのまま収めているので、重複した記述や、主題のはっきりしない寄稿文もあって、もう少し一般読者を意識した編集の工夫が必要。


存在そのものに価値があるということ。障がい者でも天才的才能があれば評価される問題。星子さんは重複障がい。弱者とは何か。複雑な問題を複雑なまま考えることの大事さ。もっともっと幅広く読まれるべき本。


「障害」からみる社会他の人をわかることはできないという意識をもつこと

 本書は,著者最首悟さんとそのダウン症をはじめとする重複障害を持った娘,星子さんとの20年にわたる生活をつづったものである.著者は幼児期から重い喘息と向き合い,東京大学では全共闘に参加し組織と向き合い,そして現在は娘の星子さんを通して障害児・者に対する教育,社会福祉という問題に向き合っている.

「星子と二十年暮らして,興奮したり気負ったり,ときには幸福を味わったりしてきた.そして生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか,そして,そして静かな不幸と密接不可分な,畏れの気持ちもまた生きがいを構成しているのではないかと考える」と,これまでの生活を振り返っている.

 「福祉の面で法整備がなされつつある社会と,超法規的な世間のはざまで,星子がどのように生きるかを考えます.法的な社会はむしろ星子の状態にあわせてさまざまな特典を用意してくれるでしょう.しかし世間は星子に合わせることを要求します.五体満足で,人並みの能力という不文律が立ちはだかります.…社会は公平さに基づいて厳しくてもいい.しかし世間は星子をまるごと包みこんでくれないか.世間はその側面も持っているはずです」

 

「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」


「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])

 「私たちにもともとあるのは、天から降ってきたような権利とかじゃなくて、すくなくとも生まれてきたからには生を全うするという、ほとんどそれだけのことです。そしてそれはほとんど義務ではないでしょうか。」(最首[1998:430])

 「……権利の行使というのは、誰かに権利があると思ったこの私が行使するような概念なんですね。そういう意味では権利というのは客体概念であり、現実的である。ところが義務主体というのは、生を全うするという抽象性のゆえに永遠性を帯びてこざるを得ません。この考えが出てくると、常に自分の権利が守られているかどうか、他人がそれを尊重してくれるかどうかを見張っているような心的構造から抜け出すことができる。」(最首[1998:430],川本隆史[1998:168]に引用)

 (1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(最首「地球二〇公転目の星子」『増刊・人権と教育』26」,199705→最首[1998:369-370](「星子、二〇歳」、『星子が居る』pp.363-385),立岩「他者がいることについての本」『障害学の主張』所収の「ないにこしたことはない、か・1」に引用)

 「社長に対して「水銀飲め」、「お前もこのからだになってみろ」、「私を嫁にもらってみろ」とせまって(p.322)いくけれども、そういうことが全部実現されたからといって、どうなるもんじゃあない。どうなるもんじゃあないというところの、その這いずりまわり方の中で水俣病の人たちがそれぞれの人生をおくり、その中から水俣病になってよかったという言葉も出てきた。深い言葉です。
 障害というのは、私はすべて一大事だといいましたけども、それはそういうもんなんです。どのようなことが、いろんなことが実現したとしても、障害自体どうなるもんじゃあない。そのことによって人生どうなるもんじゃあない。そのところのすれ違いが大きいのです。つまり、障害をもっていない人や行政的な立場の人の方が、あるいは一般的に物事を考える人の方は、どういうことをすれば障害をもつ人の環境が楽になって、そして、障害をもつ人の気持も少しゆるやかになるか、家族も少し気持がほぐれるのか、と考えたりパパッと言ってしまう。生活が楽になるのはいいです。ひとまずいいことです。けれど、その先は、言っちゃあいけない。というか、言うこと自体が間違っている。障害をもって明るく生きようというようなことはないです。宗教的な透明な明るさというようなものはある。筋ジストロフィーの青年たちに見られるような、私の出合った市川正一君もそうでしたが、その明るさというのは、もう、世を越えての明るさです。でも、普通私たちが言える明るさというのはそういうのじゃあない。にもかかわらずそういうことを無神経に言われたら、障害をもつ人とか、障害をもつ家族はがっくりするわけです。」
「私たちは何をめざすのか」『平成六年度障害福祉関係者研修報告書』障害福祉報告書通算第5集、三重県飯南多気福祉事務所、1995年→「星子と場」(『星子が居る』pp.301-343)pp.322-323)

◆1990*
*1990 「東欧社会主義体制崩壊にみる『私』と『平等』」,『季刊子どもと健康21』1990-5(労働教育センター)→1998 「『平等』の概念』(改題),最首[1998:297-399]

 「私たちにいま改めて投げかけられている問題は、「人間の私的所有のどのレベルを人間は廃絶しなければならぬのか、あるいはどのレベルを廃絶できるのか」であると思います。」(『星子が居る』p.398)

◆1992

 「体験的にいうと、論点を次第にしぼってついにこれ以上はしぼれない一点があるはずだという考え方が真綿の壁に遮られるみたいに学生に入っていかない。」(『星子が居る』p.384)

◆1997

 「生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか、そして、そして静かな不幸と密接不可分な、畏れの気持ちもまた生きがいを構成していているのてではないかと考える。そのような軌跡として、この本を読んでもらえたらと願っている。」(『星子が居る』p.439)

■紹介・言及

◆立岩 真也 1999/01/15 「一九九八年読書アンケート」,『みすず』41-1(454)(1999-1):34

◆立岩 真也 20000301- 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→[2000:221-354]*
*立岩 真也 20001023 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p.,2940 [kinokuniya][amazon][bk1] ※

  「おそらく権利は[…]具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。権利についての不信は、それが天から降ってきたもの、与えられたものであるとされることにあるのだろう。その不信にはもっともなところがある。しかしやはり権利がただ人であることにおいて一律に与えられるというその普遍性は重要なことではあるのだろうと思う。人権の普遍性とは、まったく普通にある関係そのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係に内在していてそれを延長させていこうとする意志が関わってくる。たしかにその人の権利は、その人への義務を周りの人たちが負うこととまったく同時に現われてくるものであるしかない。だから私たちのことであるともいえる。しかしそれでなお、「その人に」権利が「ある」と言わければならないとする時、そこには私たちの恣意が関わってならないという決意が表出されているのだと考えることができる。
  恣意はなくならない。個別性もなくならない。しかしそれに近いがそれと同じではないものとしてここに述べた承認はある。普遍は予め与えられていないが、しかしその方向に行こうとする契機はある。例えば「距離」について。ある人との距離の近さは、その人の存在を感じる時の大きな要因ではあるだろう。しかし、近いところにいる人を知っている時に、すでに、遠くにいる人たちもまた一人一人いることを知っており、その一人一人に関係する一人一人がいることをまったく現実的に想起することは可能なのである。」(『弱くある自由へ』三一ニ-三頁)

  「考えることができる」に注があり、その注に「最首[1998]の記述を念頭に置いている。」と記してある。そして「本文に記したこと」は以下。

  「自分が生きたいと思い、それを認めてほしいという主張は、その主張に内在的に、義務として私を認めることを人々に要求する。その要求は、あなた方の都合は様々あろうけれど、私のあなた方にとっての有用性・無用性と別のところに私の存在を置くようにという要求であり、その意味であなた方のあり方を抑え、私を認めることを義務とすることを受け入れるべきだという要求である。
  このようにして、この要求はたんに自発的な贈与をよしとすることではなく、人が義務を負うことの要求である。義務、強制は、現実には反対に会って成立しないことがあるとしても、この主張に内在的に請求される。これは、私の存在の維持という同じ場所から分配を言おうとするもう一つの根拠としての未知のための備え――第2節1で二番目にあげたもの――からは現われてこないものである。こうして、承認、具体的には分配のための負担は義務として請求される。
  そしてこのことは「権利がある」と言うことにも関わる。権利なるものがその人の内部にあらかじめ内在するわけではなく、その周囲の者たちのその人への関係のありようとして存在すること、その者たちがその人を認め、その人に対する義務を負うことがあり、それが権利を成立させるというのはその通りだ。ただ、そうなのではあるが、そこから私(たち)の側に力があることを差し引こうとして、「権利がその人にある」と言うべきだとするのではないか。だから、掟として、強制としてあることは、欲望を屈曲させたものでなく、むしろ欲望に忠実なのである。」

  「「権利がその人にある」と言うべきだとするのではないか」に付した注が、引用した注。

◆立岩 真也 2002/10/31 「ないにこしたことはない、か・1」,石川・倉本編[2002:47-87]
*石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya][kinokuniya][bk1]
 障害はない方がよいに決まっているという論に「対して文句を言った人たちがいた。どうも普通に考えるとその人たちの方が分がわるいように思われる。その人たちの言うことを聞く側は、「障害も個性」といった言い方にひとまずうなずいたりすることもあるが、しかし本気では信じていない。あっさりとない方がよいと言えばよいのに、やせがまんのような気もする。それを嫌悪して、そんな調子のいいことを言うべきではないとわざわざ言いにくる人も出てくる」に付した注。
 「この主題を巡る議論は何層にもなっていて、そして捩れている。
 A:まず、障害者でありたくない、障害者になりたくない。なおるならなおった方がよいと思う。まずはそれだけという人にとっては、障害を肯定するっていったいなんの話をしてるの、ということになる。

B:第二に、そんなことはないと言いたい気持ちの人がいる。そしてこのことの言い方もさまざまだ。そして「世間の人」もまた、実はなにかしら障害を積極的に捉えるといった主張に同調したい部分はある。もっとも双方で思っていることはかなりずれていたりもするのだが、とにかく、意外に受け入れられる部分もある。

C:すると第三に、そんな調子のいいことを言って、と、それに対してさらになにか言いたい人がでてくる。
 ダウン症の娘さんがいる最首悟の本にこんな一節がある。(1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……

そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイ

ナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(最首[1998:369-370])
 ここで怒っている最首は批判Cに対してさらに怒っている。

私は呉智英の当該の文章を読んでいないが、この世代の人たちは――「戦後民主主義」が怪しげに入ってきたことに対する、そして「良心的知識人」に対する敵意があることに関係するのかしないのか――「良識派」あるいは「進歩派」の「欺瞞」「偽善」を指摘してまわるという文章をよく書く。最近のものでは、安積他のBの主張に対するC小浜の批判?がある(小浜[1999])。

Cの人たちは、Bの見方が偽善的であるとか脳天気であるとか、そんなふうに思って批判するのだが、実はそのBの人たちも、あるいはその人たちの方がそのあたりはかなり自覚的に書いていたりもする。
 この文章は、まずはとても優柔不断でありながら、こうした状況にさらに割り込もうとする。すると、いったい何をしているのかわからないと思われても無理はない。注1にあげたホームページを見ていただくと、その雰囲気だけでもわかっていただけると思うのでご覧ください。」

◆立岩 真也 2003/07/25 「最首悟の本」(医療と社会ブックガイド・30),『看護教育』44-07(2003-07):(医学書院)

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※

  『自由の平等』(岩波書店、二〇〇四)第3章「「根拠」について」3節「普遍/権利/強制」1「普遍性・距離」の注9

  「最首が義務の先行性と内発性について述べている。

「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。

/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。

それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。

内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])これを受けて、[2000b→2000g:312-313]で本文に記したことを述べた。」

  [1993→1998]は『星子が居る』に収録された「対話と討論・論争のひろば」、『障害児を普通学校へ・会報』(障害児を普通学校へ・全国連絡会)一二六(「障害をもつ子と教育」と改題)。[1994→1998]は同じ本に収録された「権利は天然自然のものか」、『愛育』(恩賜財団母子愛育会)一九九四年ニ月号(「義務と権利」と改題) 
  そして[2000b→2000g]は『弱くある自由へ』(青土社、二〇〇〇)に収録された「遠離・遭遇――介助について」。↑


 
 
 
 
 

 

相模原事件 「社会が作りだした病」

2019年12月18日 10時27分36秒 | 社会・文化・政治・経済

「来るべきものが来た」と思いました。
「社会が作りだした病」と和光大学名誉教授 最首悟さん(83)は指摘した。
ダウン症で知的障害のある三女の星子(せいこ)さんと暮らしている。
被告が介護の仕事を「楽だった」と言えるのは仕事を全くしていなかった証拠です、と言う。
つまり被告は、まともに、本気で介護に取り組んでいなかったから、意思が通じ合う喜びややりがいを見いだすことがなかった。
とても薄っぺらい自分の意見にしか耳を傾けない被告。
本当の意味で人間の生命の尊厳を全く分かっていない。

彼の犯行は「働かざる者は食うべからず」という思想から始まった近代社会の、ある意味での帰結だと思うのです。
だからこそ弱者が共に支え合う社会に転換していくできです。
「私にとって星子の存在は<生きてい重し>です。
てこの原理みたいに、てんびんが傾かないように自分を支えてくれています。
星子がいるから真っ直ぐ立って生きられるようになったんです。
最首(さいしゅ)さんは父親としての情愛を語る(毎日新聞から引用)


凄絶な暴力の末…判決にうなずく 元次官に懲役6年

2019年12月18日 09時43分09秒 | 社会・文化・政治・経済

12/16(月) テレビ朝日系(ANN)

長男を殺害した罪に問われている農林水産省の元事務次官・熊沢英昭被告(76)に対し、東京地裁は懲役6年の判決を言い渡しました。

 黒のスーツに身を包み、落ち着いた表情で16日の判決を迎えた農水省の元事務次官・熊沢被告は今年6月、都内の自宅で当時44歳で長男の英一郎さんを包丁で刺して殺害した罪に問われています。
 熊沢被告の主張(12日の被告人質問):「殺していなかったら逆に殺されていたと思う」
 これまでの裁判で検察側は、長男の首や胸には36以上の傷があったとし、「被告は被害者の隙を突いて一方的に攻撃した」と主張。さらに検察側は、長男による家庭内暴力が事件の背景にあったことは認めつつ、「殺害する以外に選択肢がないほど切迫した状況だったとは考え難い」として懲役8年を求刑していました。
 これに対して、弁護側は「『殺すぞ』と言われ、身を守るためにとっさに殺してしまった」などとして執行猶予を求めていました。そして、裁判員裁判による16日の判決では…。
 東京地裁・中山大行裁判長:「被告人を懲役6年に処する。深さ10センチを超える傷も複数存在することからすれば、犯行は強固な殺意に基づく危険な行為であったと認められる」
 判決言い渡しの際、熊沢被告はじっと前を見据え、時折、小さくうなずくしぐさも見せました。執行猶予を求める弁護側の主張を退け、懲役6年の実刑判決を言い渡した東京地裁。判決理由として「警察に相談するなど現実的な対処方法があったにもかかわらず、犯行に及んだ」などと指摘し、「長男を長年にわたり、支援してきた事情を考慮しても執行猶予にはできない」としました。