緒方貞子 ―難民支援の現場から

2019年12月22日 22時13分36秒 | 社会・文化・政治・経済

東野 真  (著)

内容紹介

「緒方貞子」はどう生きてきたか!?63歳で国連難民高等弁務官に就任!その人柄と献身的・精力的な仕事ぶり。
冷戦後の一〇年間、国連人道機関の一つであるUNHCRのトップとして世界の難民支援を指揮し、国際的に高い評価を得ている緒方貞子・前国連難民高等弁務官。頻発する危機や武力紛争の中で、彼女はどのように考え、決断し、行動したのか。同時多発テロ事件のあと世界はどこに向かおうとしているのか。「人間の安全保障」という考え方にはどんな可能性があるのか。─長時間のインタビューに関係者の証言をまじえて、その人と思想を生き生きと描き出す。自らの生い立ちを日米関係史に重ね、人道主義を力強く提唱した、アメリカでの講演『日本、アメリカと私─世界の課題と責任』を巻末に収録。

[著者情報]
取材・構成 東野 真(ひがしの まこと)
一九六五年生まれ。八七年、東京大学文学部卒業後、NHK入局。広島放送局、教養番組ディレクター等を経て、社会情報番組チーフ・プロデューサー。二〇〇一年制作のNHKスペシャル「難民と歩んだ10年?緒方貞子・国連難民高等弁務官」などで、NHKは国連報道賞最優秀賞を、また「テロはなぜ生まれるのか?緒方貞子 ニューヨークで語る」でギャラクシー奨励賞を受賞。著書に『昭和天皇 二つの「独白録」』(NHK出版)がある。

内容(「BOOK」データベースより)

冷戦後の一〇年間、国連人道機関の一つであるUNHCRのトップとして世界の難民支援を指揮し、国際的に高い評価を得ている緒方貞子・前国連難民高等弁務官。頻発する危機や武力紛争の中で、彼女はどのように考え、決断し、行動したのか。同時多発テロ事件のあと世界はどこに向かおうとしているのか。「人間の安全保障」という考え方にはどんな可能性があるのか。―長時間のインタビューに関係者の証言をまじえて、その人と思想を生き生きと描き出す。自らの生い立ちを日米関係史に重ね、人道主義を力強く提唱した、アメリカでの講演『日本、アメリカと私―世界の課題と責任』を巻末に収録。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

東野/真
1965年生まれ。87年、東京大学文学部卒業後、NHK入局。広島放送局、教養番組ディレクター等を経て、社会情報番組チーフ・プロデューサー。2001年制作のNHKスペシャル「難民と歩んだ10年~緒方貞子・国連難民高等弁務官」などで、NHKは国連報道賞最優秀賞を、また「テロはなぜ生まれるのか~緒方貞子ニューヨークで語る」でギャラクシー奨励賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

海外の難民支援の第一人者として知られる緒方貞子氏の活躍をご本人のインタビュー等を交えて紹介する。
暗殺された元首相の犬養毅を曾祖父に持つ緒方さんの家庭環境は常に世界を見据えていた。

難民というと「局地的な紛争」との切っても切れない関係を無視できない。
国内に少数民族と多数派民族が混在しての政治的・経済的な対立を背景とするケースが多く、政治的な解決は困難である。
緒方さんはあくまでも「難民支援」を実行する立場として、国連などに働きかけは行うものの、現実的な壁に阻まれることは多々ある。

世界中の難民支援の最前線に立つ緒方さんは「率先垂範」を基本とし、それはご本人も含む団体の職員の身を危険に晒すこともあった。
国を破壊した政治家や軍人や独裁者は結局のところ、乱が落ち着いても再生までは請け負ってはくれないのだ。
再生するのは国民ひとりひとりであるのだろうが、自力では困難な場合が多く、緒方さんたちの活動がそのための道筋を付ける。
「破壊」は1日で可能だが、再生・復興は10年も20年も掛かることがザラであるということ。
物資やお金の支援だけでは「乞食」に等しく、それは真の自立ではない。
誰かに頼らずとも「自給自足」出来る環境を難民だった人たちが築き上げられるようにすること。
緒方さんの戦いは未だ続いているのだ。


難民の生命を守ることを第一に考え、常に難民のそばを離れず、紛争地の現場から判断する。緒方さんがトップを務めた10年間、UNHCRの難民支援活動はこの基本原則から導き出されたといいます。臨機応変、まさにいまこのとき、命を守る現場主義の精神です。
 ボスニア、コソボ、クルド、ルワンダ、東チモール…。冷戦終結とともに地域紛争が頻発した時代でした。人道援助の要請は急増し、緒方さんはUNHCRの組織や人員を拡大しつつ、多国籍軍などと連携して紛争地に入り、難民を保護するスタイルを確立します。戦闘状態の中で行われる援助活動は危険を極めます。難民キャンプを武装勢力に支配されたり、現地職員が惨殺されたこともありましたが、緒方さんは基本原則を貫き通します。
 人道援助はしかしながら、国際社会が紛争を政治的に解決できない代わりの「言い訳」として利用されているという現実があります。ボスニアやルワンダのケースなど、大国の利害が対立して紛争処理が進まない状況下で難民保護を求められた緒方さんは「難民問題は政治が解決しない限り解決しない、政治対立が軍事対立になっていくという状況が止まらない限り難民はなくならない」と実感を込めて説きます。いつでも難民支援の最前線から紛争処理と平和構築の重要性を訴え続けようとした姿勢に拍手を送りたいと思います。


緒方貞子さんに インタビューして書かれているこの本は
聴き手が存在することによって 緒方さんの姿が ぐるっと全体に伝わってきてとても興味深かった。

行動のもとになっているエネルギーは何ですかという問いに
「怒り」かもしれない と彼女は答えている。
これは承知できませんという気持ち
がっかりするよりも 何とかしたい 
こんなことは受け入れられない。
怒りの中には深い想いがある。
この世界の人たちのこと、この世界でおこっていることが
他人事でないことを最もわかっていて、そのために自ら行動をおこせる類まれな存在なんだと思う。

この人の存在を誇りに思うと同時に
創造と変革をおこせるリーダーであり そして ただついていきたいというだけでなく
その人をみて自分の成長も信じられるような 
そんなリーダーが この国に果たして何人いるだろうと ふと思ってしまった。
思ってしまった瞬間 それも 他人事の観点だったなと・・・
どこにいても自分にできることが何か そこをいつも忘れないでいたいと思う。
自分がこの国のこの土地に足をつけていられることにも感謝しよう。

国連を一時去るときに残したメッセージがとても印象に残っている。
あらゆる苦難を経験されて立ち向かってきたこの人がいう「リスペクト」は とても重い。
そして愛にあふれている♪ 


いくつか前にある、他の方のレビューにも似たような感想がございますが、個人の感情という部分はあまり語られていない(あるいは語られているにしても淡々としている)内容で、思ったよりも、ただ事実だけが述べられている書籍という印象を受けた。読んで良かったとは思う。ただ、この本でしか得られない価値というものが、想像していたよりかは少なく感じた(これは期待値の問題ではありますが)。


ダボス会議や国際会議の多くに招かれている緒方さんが、なぜ評価されるのかを知りたく本を手に取りました。
緒方さん自身は、UNHCRの高等弁務官になるまで、そこまで難民に関わる仕事をなされてなかったというのは驚きでした。

常に難民のそばにいる、という考えを持ち、ぶれない軸を持って自分で行動を起こし、
信念を持って発言されていることを読み解くと、その評価の高さの理由が分かります。

紛争では、一刻の猶予なく決断すべき瞬間(空輸による支援物資の停止)もあれば、
難民支援のみが延々と続き、政治的な解決が行われない状況を打開すべく国連へ働きかける姿が印象的です。

また、難民を救うだけでなく、冷戦後の世界で、紛争解決後の民族感の共生や自立のグラウンドデザインを描きます。
その考えをしっかり世界に伝えている姿を拝見すると「日本人にもこのような方がいるのか。」と驚きます。

もっと、広く日本人に知って頂きたい方です。
 
 




暴行、性被害……壮絶な児童虐待を受けながら成長した女性の「今」

2019年12月22日 22時13分36秒 | 事件・事故

12/22(日) Suits-woman.jp

親による児童虐待……絶対にあってはいけないことですが、どうもこの世の中にはそのような行動をとったり、とられたりした人間が存在している事実があります。

話題の新刊『うちの嫁は児童虐待サバイバー: 彼女の生きてきた壮絶な16年間を見てほしい』(以下『児童虐待サバイバー』)は、「両親」から10年にわたり受けた暴力、ネグレクト、奴隷労働、レイプ、強制売春などの壮絶な虐待の真実が描かれています。自由な言動をする奥さんを「フリーダム嫁」と称し、夫である「フリーダム嫁の旦那」がイラストと文章でブログで発信していたものがベースになっていて、壮絶なエピソードをゆるいタッチのイラストが上手にバランスをとっています。

今回は、この書籍の著者である、フリーダム嫁さんと旦那さんにお話しを伺いました。「嫁」さんはどんな地獄を生き、どこに希望を見出したのか。そして「旦那」さんは彼女のどこに惹かれたのか……ご紹介します。

暴行、性被害……壮絶な児童虐待を受けながら成長した女性の「今」
小学校中学年頃から性被害に遭っていたという「嫁」さん。
虐待の現実とその後遺症を知ってもらいたい
「嫁」さんは6歳までお寺に預けられて育ち、ある日戸籍上の父親が迎えにくるところから虐待の日々が始まったそう。書籍『児童虐待サバイバー』には、父親とその妻から受けた暴力、強制された売春、その後も続く金銭要求、虐待の後遺症である鬱とPTSDとの戦いなどが描かれています。今回、1冊の本にまとめようとしたきっかけを伺ったところ、虐待の実情を知ってもらいたいから、と「嫁」さん。

嫁「私のような、あるいはもしかしたら私よりもひどい目にあっている子に「未来に幸せは絶対あるから、今をあきらめないでほしい」と伝えたかったのです。大人の人に対しては、虐待を知ったら、ためらわずに手をさしのべてほしいということ。あとは、虐待を受けて育った人の実情を知っていただきたかった」

虐待を受けて育った人の多くに、「後遺症」のような症状があるそうです。例えば、コミュニケーションに問題が認められたり、うつ的な症状に悩まされたり……。

嫁「天気に左右されて落ち込んだり、家から出られなくなったり、何もできなくなったりしますね。書籍では、虐待の後遺症に苦しんでいる人がいることも伝えたいと思ったんです。できれば、優しく見守ってあげてほしい。虐待を受けていると、”こころの体調“が不安定になりがちなんです。仕事も家事も最低限のことすらできず、自傷行為や激しい感情の起伏で、うつ状態がひどくなるケースもあります」

実際、「嫁」さんもまだ後遺症には悩まされているそう。「虐待親」の罪深さはその虐待時だけでなく、10年以上経った今でも後遺症として子供の身体と心に影響を与えている部分にもあります。
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暴行、性被害……壮絶な児童虐待を受けながら成長した女性の「今」
バイト先の先輩が「嫁」の身体中のあざに気づいて、児相に連れて行ってくれた。
虐待親にとって子供はサンドバッグ
『Suits WOMAN』では創刊初期から貧困女子を取り上げており、貧困状態の女性に親の話を聞くと、暴力は無いけれど、どうも「毒親」の人が多いようです。「虐待親」と「毒親」の決定的な違いはあるのかを聞いてみると……。

嫁「これは私の意見ですが、毒親は子供を“自分の所有物”として支配します。一方で虐待親は子供を”サンドバッグ“のように扱い、自分の不満や欲望のはけ口にする。暴力を正当化するかのように、”お前が悪いから俺は殴った“”俺は正しているだけなんだ”などと洗脳してきます。

虐待親の多くは、子供のまま親になっている。コミュニケーションの手段が暴力なのです。私もずいぶん殴られました。それはとても痛いし、嫌だった。でも子供なので”私がきちんと言われたことをできないから殴られるんだ“と思っていたのです。ただ、その痛みよりも、愛されないことが、辛かった」

「嫁」さんが一種の「洗脳状況」から脱したきっかけは、児童相談所に連れて行ってもらったこと。

嫁「バイト先の人が、私の体のあざを見て、児童相談所に連れて行ってくれたのです。でも当時の私は大人を信じていなかった。本当のことを話したら、親に殺されると思っていました。すると、児相の先生が“大丈夫だから。あなたを絶対に保護する。信じて欲しい”と言ってくれたのです。そこから、徐々に信じられる大人がいることを、理解していったのです」

児童相談所に行った時、「嫁」さんは16歳、自分の言葉で説明してもうやむやにされないタイミングなのもよかったのでしょうか。

嫁「子供の頃、虐待を受けて”助けてください“って言ったことがあるんですよ。でも、”家の人“(嫁さんは戸籍上の両親をそう呼んでいる)が”あら、すいません。この子が~”って言うと、その先を聞いてもらえない。そんな経験が積み重なって、何も言えなくなり、自分さえ我慢すればこの場は凌げると思うようになっていったんです。信じてもいい大人がいるなんて、思ってもいなかった。

でも、児相に行って、社会に出ると、世の中は信じられる人の方が多いとわかりました。私を面倒見てくれる先輩、認めてくれる上司、慕ってくれる後輩や部下……社会には”いい人“のほうが多かったのです」
信じてもいい大人はいる
それまで、「両親」からの壮絶な暴力で、物理的に死んでもおかしくなかった「嫁」さん。食事を与えられず、殴られ、外に出され……なぜ生きられたのでしょうか。

嫁「人間の体が頑丈にできていることと、私自身に生きることへの執着心がなかったからでしょうか(笑)。生きていても死んでいてもどちらでもいいから、空腹感もわからない。親に言われたタスクをこなし、定期的に殴られていれば生命は維持できます。それ以上の欲はなかったのです」

だから、親に甘え、好きなものを買ってもらう同級生を見ても、何とも思わなかったと言います。

嫁「“家の人”と血のつながりがないとわかった8歳の頃から、”生かせていただきありがたい“と思っていました。これを”達観“ととらえる人もいますが、そうするしかなかった」

近頃は、子供達が虐待によって命を奪われる事件が後を絶ちません。街中でも、怒鳴ったり叩いたりしている親子の姿を見ることもあります。大人はどうすればいいのかを「嫁」さんに尋ねてみました。

嫁「私は子育てをしたことがないのでわからないのですが、手を上げざるを得ない状況があることはわかります。行き過ぎた行為だと思ったり、実際に子供が助けを求めてきたら、警察や、児童相談所全国共通ダイヤル189番に通報してください。親が出てきても、そこは1歩踏み出す勇気を持ち、子供を助けてほしいと思います。子供にとって、誰かに助けを求めることは、決死の覚悟でしていることですし、そこで”信じてもいい大人がいる“ことは、大きな力になるのです」

レイプと強制売春のトラウマ、「私はこの世にいてはいけない人物」そう思っていた「嫁」さんが、恋愛し、結婚するが……。

 


伊藤詩織事件で残るTBSへの疑問

2019年12月22日 21時43分11秒 | 事件・事故

2019年12月19日 

池田 信夫さん アゴラ研究所所長 学術博士(慶應義塾大学)

伊藤詩織事件でマスコミがまだ騒いでいるが、これは犯罪事件としてはもう終わっている。真実は当事者以外にはわからないが、疑問が残るのは、山口氏が帰国するとき高輪署の取った逮捕状を警視庁が執行させなかったことだ。これは異例だが、その原因は今も不明である。

山口敬之氏、TBS(AbemaTV、Wikipediaより)

コメンテーターは安倍首相との関係を憶測しているが、首相官邸が個別の犯罪捜査に介入することはありえない。それよりはっきりしているのは、山口氏が事件当時、TBSのワシントン支局長だったという事実である。TBSは警視庁クラブの加盟社であり、その関係に警察が配慮したことは十分ありうる。その経緯を時系列で整理しよう。

2015年4月2日:ベトナム戦争のときの韓国兵の「慰安所」があったことを山口氏が書いた『週刊文春』が発売。
4月3日:伊藤氏が一時帰国中の山口氏とホテルに行く。
4月9日:伊藤氏が原宿警察署に相談する。
4月23日:山口氏がワシントン支局長を解任され、営業局に異動。
4月30日:伊藤氏が被害届けを高輪署に提出。告訴状も受理される。
6月8日:山口氏が帰国したとき成田で逮捕する予定で捜査員が空港に待機していたが、直前に逮捕状の執行が停止される。
8月26日:警視庁が準強姦罪の容疑で山口氏を書類送検。
2016年5月30日:山口氏がTBSを退社。
7月22日:不起訴処分。
2015年4月から2ヶ月ほどの間に、文春事件とホテル事件という二つの系列の(互いに無関係な)事件が連続して起こっている。文春に無断で記事を書いたことが社内規定に違反するというのがTBSが彼を解任した公式の理由だが、その直後にホテル事件が起こった。

文春の記事とホテル事件には因果関係はないが、伊藤氏が警察に相談した直後に懲戒処分が出たのは偶然とは思えない。山口氏が文春に記事を書いたのは初めてではなく、それまでも何度かアルバイト原稿を書いて黙認されていた。1本の記事で支局長解任という処分は重すぎる。

つまり警察からTBSに(4月中旬に)「山口氏が帰国したら逮捕する」という連絡があり、TBS幹部が警視庁に「逮捕だけは勘弁してほしい」と取引したと推測できる。

ワシントン支局長が準強姦罪で逮捕されたら大スキャンダルで、特に採用にからんだ事件となると経営責任も問われ、社長の進退問題になる可能性もあった。このとき警視庁が逮捕しない代わりに、TBSは支局長を解任して社会的制裁としたわけだ。

こういう取引は政治家の事件ではよくあり、警察と記者クラブの関係でもある。NHKでも芸能担当の理事が暴力金融から巨額の不正融資を受けて警察の捜査を受けたが、彼が退任して事件が表面化しなかったことがある。

TBSは「処分のときホテルの事件は知らなかった」とコメントしているが、少なくとも警視庁クラブのTBS記者は逮捕状の件を知っていただろう。その話がTBSの幹部に上がって、警視庁と取引した可能性がある。

いずれにせよ逮捕を見送ったことで、警視庁はTBSに大きな「貸し」をつくったわけだ。マスコミがこの問題に沈黙しているのは、こういう取引で事件を「おさえる」ことがサツ回りの大事な仕事だからである。


「美しい国、日本」のはずが「底なし沼」へ

2019年12月22日 21時33分13秒 | 社会・文化・政治・経済

2018年05月24日 

 早川 忠孝忠孝さん 弁護士、元衆議院議員

 首相官邸サイトより:「アゴラ」編集部

「美しい国、日本」という第一次安倍内閣のスローガンがどこかに飛んで行ってしまったようだ

安倍総理が「美しい国、日本」と言い出した当時、私は清和政策研究会に所属しており、一般の自民党の国会議員より近い場所で安倍総理の一挙手一投足を見ていたように思う。

私自身はクローニンの会の事務局長ないしその補佐的な立場にいたので、どちらかと言えば福田さんを担ぎ出す役回りで、安倍さんの懐に飛び込んで行った方々とは一線を画していたとは思うが、総裁選の直前になって福田さんが総裁選挙への出馬断念の意思表示をされてからは、結果的に安倍さんの陣営に属していると見られていただろうと思う。

当時の安倍さんのイメージは、結構よかった。
「美しい国、日本を創る」というスローガンはちょっと抽象的過ぎるなと思ったが、「美しい」という言葉はそれなりにアピールしたと思う。

「美しい国」を創るために安倍総理が果敢に挑戦していたことは、今でも評価している。
小泉内閣では積み残しになっていた防衛庁を防衛省に昇格させるための法改正や教育三法の改正などの大事業に果敢に挑戦し、それなりに結果を出していた。

それが本当に「美しい国、日本」を創り出すことに直結するのかどうか分からないところがあったが、とにかく安倍さんは「美しい国」を創り出すために邁進しているのだと思わせるところがあった。

しかし、民主党政権が瓦解して後、自民党が政権に復帰し第二次安倍内閣が発足してから今日に至るまでの間においてわが国が本当に美しい国になったかどうか、と問われると、率直に言って今の日本は決して美しくない。

今の安倍総理も、麻生財務大臣も然り。

醜いとまでは言わないが、美しくない。

ご本人たちには些かもそういう自覚はないだろうが、国民の間に段々、もう、嫌だなあ、という一種の嫌悪感が拡がりつつあることを軽視されない方がいい。

安倍総理が足を踏み入れるのは、底なし沼?蟻地獄?

岸田さんも石破さんも野田さんも、ちょっと身を引かれておかれた方がよさそうである。

安倍総理の前に控えているのは、どう見ても泥沼である。
底なし沼ではないと思うが、ドロドロにはなりそうだ。

安倍総理と一緒に泥沼に足を踏み入れるのは、菅さんくらいで止めておいた方がいい。
菅さんはいくら泥をかぶっても立派に立ち直るだろうが、安倍総理の後の総裁候補と目される方々は、なるべく泥をかぶらないで済むところで静観されておかれた方がいい。

自衛隊を明記する憲法改正案の発議は、どうやら不可能になりつつある。

公明党筋から消極論が噴出し始めているようだから、衆参両院で3分の2以上の議席を与党が占めていても、公明党が賛成しない憲法改正案の発議が出来るとは思わない。
そろそろ実現不能な憲法改正案の発議は諦めて、野党の半分以上が賛成出来るような憲法改正案の発議を目指すことに舵を切られた方がいいと思うが、安倍総理の下ではその話し合いも出来そうにない。

安倍総理が憲法改正の実現を言えば言うほど、憲法改正への道が遠くなる、というのが現在の政治状況ではないだろうか。

岸田さんも石破さんも野田さんも、とにかく身綺麗にしておかれることである。

「アゴラ」編集部より:この記事は、弁護士・元衆議院議員、早川忠孝氏のブログ 2018年5月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は早川氏の公式ブログ「早川忠孝の一念発起・日々新たに」をご覧ください。


これが「美しい国」ですか

2019年12月22日 21時04分01秒 | 事件・事故

みんなの広場

これが「美しい国」ですか=無職・佐々木清次・71
 毎日新聞2019年12月21日 東京朝刊
声・投書

(京都府綾部市)

 今夏、「発覚2年半 真相は闇」という記事が本紙(大阪本社版)に掲載されました。森友学園問題で大阪地検特捜部が佐川宣寿元国税庁長官や財務省職員ら全員を再び不起訴処分にしたという内容でした。

 不可解な国有地売却の大幅値引き、決裁文書の改ざん、改ざんさせられたとのメモを残した職員の自殺。これほどの事件が一人として裁かれず、時の闇に。(以下略)

「美しい国に」「誇りある国に」と言挙されますが、不誠実と無責任が横行する日本のどこに美と誇りがあるのか、ぜひ教えてください。


今、なぜ憲法改正なのか?

2019年12月22日 20時42分59秒 | 沼田利根の言いたい放題

今、なぜ憲法改正なのか?
安部晋三首相個人の栄誉といか、頑迷なまでの願望、生涯の総決算とも思われてならない。
さらに21世紀の現代、「日本会議」という組織とその支持者、マスコミを含めて信奉者が存在することが不可解。
時代錯誤と言うべきか、歴史認識のずれに違和感が増すばかりだ。
国際的に見ても視野狭窄、日本への内向きな姿勢は、世界平和を願う国民と遊離するばかりではないか。

<参考>
私達「日本会議」は、前身団体である「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」とが統合し、平成9年5月30日に設立された全国に草の根ネットワークをもつ国民運動団体です。

 私達の国民運動は、これまでに、明治・大正・昭和の元号法制化の実現、昭和天皇御在位60年や今上陛下の御即位などの皇室のご慶事をお祝いする奉祝運 動、教育の正常化や歴史教科書の編纂事業、終戦50年に際しての戦没者追悼行事やアジア共生の祭典の開催、自衛隊PKO活動への支援、伝統に基づく国家理 念を提唱した新憲法の提唱など、30有余年にわたり正しい日本の進路を求めて力強い国民運動を全国において展開してきました。

 今日、日本は、混迷する政治、荒廃する教育、欠落する危機管理など多くの問題を抱え、前途多難な時を迎えています。
私達「日本会議」は、美しい日本を守り伝えるため、「誇りある国づくりを」を合言葉に、提言し行動します。

 また、私達の新しい国民運動に呼応して、国会においては超党派による「日本会議国会議員懇談会」が設立されています。
私達は、美しい日本の再建をめざし、国会議員の皆さんとともに全国津々浦々で草の根国民運動を展開します。皆様のご声援をよろしくお願いします。

綱領

 


再び東条英機を書く

2019年12月22日 20時39分28秒 | 社会・文化・政治・経済

指導者通し軍隊の論理理解

私は改めて東条像を検証し、なぜ今書くかを自分に問うた。
こういう指導者の下で国家の存亡を決める戦争を起こすのは、どこに理由があったのか。
戦争をまるで自分たちの栄誉のために進める根拠はどこにあったのか。
歴史的に昭和10年代の戦争はなぜあれほど無計画、無思想、無定見だったのか。
それこそ確認しなければならない点は山ほど存在する。
思いを巡らせるうちに、1970年代後半から80年代のこの間は、30代から40代のころと違い、自らの東条理解が曲線的に重層的になったと自覚した。
「そうか」とつぶやき、最初の本から40年を経て、改めて自分が東条と昭和陸軍の実相をどう捉えているかを確認しようと決めた。
東条個人の批判だけでは本質に迫れない。
東条を通して、近代日本軍の思考法、軍事教育の狙介(けんかい)さ、そして国民に対する軍事のゆがんだ優越性などを具体的に解きほぐすことが重要なのだ。
40年ほど前、戦時下の国会で反東条の議員だった三宅正一(当時は社会党衆議院議員、衆議院副議長であった)は、私の年齢を確かめたうえで、「君はまだ若い。あんなくだらない男の評伝など書いて人生の時間を無駄にするな」と忠告した。
しかし、その「くだらない男」に主導されて戦争にのめり込んだ時代を浮き彫りにしなければならない。
そのおぞましさから逃げてはいけないと、私は考えた。
その思いは、今も変わらない。
ノンフィクション作家 保坂正康さん
(毎日新聞記事 12月21日から引用)


女子中生にツイッターで接触か 容疑者が6月、小6女児誘拐

2019年12月22日 20時03分54秒 | 事件・事故

12/22(日) 共同通信

大阪市の小6女児誘拐事件に関連し、女児と一緒にいた茨城県の女子中学生(15)の裸を撮影したとして児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の疑いで茨城県警に再逮捕された栃木県小山市の自称派遣社員伊藤仁士容疑者(35)が、女子中学生と知り合ったのは今年6月ごろで、会員制交流サイト(SNS)のツイッターを介して接触していたことが22日、捜査関係者への取材で分かった。


伊藤容疑者は小6女児(12)を誘拐したとして大阪府警に逮捕され、今月13日に未成年者誘拐の罪で起訴された。県警は22日、伊藤容疑者を送検した。女子中学生は約半年間、容疑者宅で生活していた可能性がある。

 

 


東條英機と天皇の時代

2019年12月22日 19時54分06秒 | 社会・文化・政治・経済

日本の現代史上、避けて通ることの出来ない存在である東條英機。軍人から戦争指導者へ、そして極東裁判に至る生涯と全体像を描き出す。

東條英機と天皇の時代

 
保阪 正康
保阪 正康

ホサカ マサヤス

1939年、北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。日本近代史、とくに昭和史の実証的研究を志し、歴史の中に埋もれた事件・人物のルポルタージュを心がける。個人誌「昭和史講座」を中心とする一連の昭和史研究で菊池寛賞を受賞。著書に『戦場体験者 沈黙の記録』(筑摩書房)、『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫)、『若い人に語る戦争と日本人』(ちくまプリマー新書)、『農村青年社事件』『帝国軍人の弁明』(以上、筑摩選書)、『昭和史七つの謎(★正字)』(講談社文庫)、『ナショナリズムの昭和』(幻戯書房)など多数がある。

 この本の内容

東條英機とは何者だったのか。感情的な断罪や讃美を排し、綿密な資料調査と徹底的な取材を通して、なぜ軍人が総理大臣となり、戦争へと突き進んでいったのかを明らかにする。幼少期から軍人の道を歩み始め、やがて戦争指導者となり、敗戦、東京裁判へといたる過程と、その人物像をさぐることで、近代日本の実像へとせまる。あの戦争を歴史として、冷静かつ正確に認識するためにも必読の名著。

この本の目次

第1章 史実なる信奉者(父親の遺産
軍人としての自立 ほか)
第2章 落魄、そして昇龍(実践者の呪い
透視力なき集団 ほか)
第3章 敗北の軌跡(戦いの始まり
快進撃から停滞へ ほか)
第4章 洗脳された服役者(承詔必謹
「戦争全責任ノ前ニ立ツコト」 ほか)

 

 

 
 

新国立競技場「オリンピックスタジアム」内観写真初公開…整備費1569億円

2019年12月22日 11時52分20秒 | 社会・文化・政治・経済

2019年12月1日 スポーツ報知 

競技を終えた選手からどんな名言が生まれるか。

天井には選手たちを柔らかく照らす行灯(あんどん)型照明(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
フラッシュインタビューゾーン。

競技を終えた選手からどんな名言が生まれるか。天井には選手たちを柔らかく照らす行灯(あんどん)型照明(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
36か月の工期を終え完成した新国立競技場(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
東側外観。旧国立から移設された「野見宿禰像」が観客を迎える(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
東側外観。旧国立から移設された壁画「ギリシャの女神像」(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
フラッシュインタビューゾーン。競技を終えた選手からどんな名言が生まれるか。天井には選手たちを柔らかく照らす行灯(あんどん)型照明(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
スタジアム内観。フィールドの天然芝には世界最高品質の夏芝を使用(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)
今にも号砲が鳴りそうなトラック。陸上100メートルの舞台になる(写真提供=独立行政法人日本スポーツ振興センター)

Kokuritsu Kasumigaoka Rikujo Kyogijo 191024h.jpg

日本スポーツ協会前より見る

 
施設情報
所在地 東京都新宿区霞ヶ丘町10番1号[1]
位置 北緯35度40分41秒東経139度42分53秒座標北緯35度40分41秒 東経139度42分53秒
起工 着工 2016年平成28年)12月11日[2]
竣工 2019年令和元年)11月30日[3]
開場 2019年(令和元年)12月21日[4]
所有者 独立行政法人日本スポーツ振興センター[注 1]
グラウンド 天然芝 (107 x 71 m)[5]
ピッチサイズ トラック:400 m x 9 レーン(全天候型、合成ゴム)[6]
照明 スタンド内照明器具:約 1,500 台(競技用照明器具 約1,300台、観客用照明器具 約200台ほか)[6]
大型映像装置 南側:縦 9 m x 横 32 m
北側:縦 9 m x 横 36 m
解像度:フルハイビジョン画質[6]
建設費 1,569億円[7]
設計者 大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所共同企業体[1]
使用チーム、大会
東京オリンピック2020年、予定)
東京パラリンピック(2020年、予定)
サッカー日本代表(2020-)
ラグビー日本代表(2020-)他
収容能力
観客席:約 68,000 席
(うち車いす席:約 500 席)[6]
アクセス
千駄ケ谷駅信濃町駅
JR中央・総武線(各駅停車)
国立競技場駅都営地下鉄大江戸線
外苑前駅東京メトロ銀座線
国立競技場
オリンピックスタジアム
新国立競技場の位置(東京都区部内)
新国立競技場
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情報
用途 観覧場[1]
設計者 大成建設梓設計隈研吾建築都市設計事務所共同企業体[1]
構造設計者 同上
設備設計者 同上
施工 大成建設[1]
建築主 独立行政法人日本スポーツ振興センター[1]
管理運営 独立行政法人日本スポーツ振興センター
構造形式 主体構造:鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造・鉄筋コンクリート造)[1]
杭・基礎:直接基礎(一部地盤改良有)[1]
敷地面積 109,767.83 m² [1]
建築面積 69,611.33 m² [1]
延床面積 192,049.94 m² [1]
状態 完成
階数 地下2階、地上5階、塔屋1階[1]
高さ 最高高:47,350 mm地盤面TP+25,900 mmより)[1]
軒高:41,460 mm[1]
エレベーター数 32台
(30人乗り:28台、17人乗り:4台)[1]
駐車台数 305台[1]
着工 2016年(平成28年)12月11日[2]
竣工 2019年(令和元年)11月30日[3]
開館開所 2019年(令和元年)12月21日
所在地 〒160-0013
東京都新宿区霞ヶ丘町10番1号[3]
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6メートルの扉を新国立競技場に納入

2019年12月22日 11時24分13秒 | 日記・断片

富田さんの車で、午前8時35分、利根川の向かいの小堀(おおほり)の赤峰宅へ。
今年、最後の支部の会合あったが、仕事や私用、合唱団の練習などもあり、参加したのは8人。
各地区の責任者がそれぞれ1年を振り返った。
職場が変わった人、地区の人が病気になったり、日曜も仕事の人もいて会合に参加できない人、どうしても会えない人もいて、課題も多いそうだ。
特に青年層の人材育成が期待されていた。
それでも、多忙な中で<人を励ます>大変さを語る。
1年があっという間に過ぎたと各地区の責任者が言う。
それほど、多くの地域活動があったのだ。
当方も敢闘会の活動を報告したかったが、次回(1月12日)にした。
12月28日と1月12日が会館での支部の会合で、赤峰宅での会合は1月12日から始まる。
お茶会では、くじ引きが用意されていた。
三角の紙片のくじには、質問が書かれていた。

15人のお土産が用意されていて、当方は不参加の人のお土産の中から缶ビールだけを赤峰さんが取り出して「これ持ち返って」と気遣われた。
ビールは10缶も。
帰り奥さんが、「今朝採ったばかりのゆず」と各自に渡してくれた。
米川さんが「1年間お世話になりました」とお歳暮を持参して赤峰さんに手渡していた。
なお、座談のなかで林さんたちが製作した6メートルの扉は新国立競技場に納入されたが、マラソンが札幌に変ったために「開かずの扉(ゲート)になった」とガッカリしていた。
東京マラソンのゴールが<新国立競技場になれば>と期待したい。

 


新橋から六本木まで歩いてみた

2019年12月22日 07時18分48秒 | 日記・断片

 午後3時30分頃から、新橋から愛宕山方面へ向かう散歩

まず驚いたのは慈恵医科大学の変容である。
親友の奈良久が52歳で病死した病棟はどこだったのか?
スケールの大きさに圧倒される想いがした。
虎ノ門の西側から神谷町、そして愛宕山のトンネルを抜けて行く。
スペイン大使館とスウェーデン大使館が向かい合っていた。
古い家並みものこっている。
公園やお寺の紅葉も見る。
地下鉄は実に深い地下にあるものだ。
エスカレータを乗り継ぎ下って行く。
下って駅の脇を抜けてから六本木を目指し、エスカレータで地上へ向かう。
六本木周辺も起伏が多く、坂を下ったり上がったり。
六本日ヒルズを目指す。
何とか六本木通りへ出ることができた。

六本木の風景

六本木の風景
 
 
六本木の位置(東京23区内)
六本木
六本木
六本木の位置
北緯35度39分46.21秒 東経139度43分53.19秒
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Minato, Tokyo.svg 港区
地区 麻布地区
面積
 • 合計 1.15km2
人口
2019年(令和元年)9月1日現在)[2]
 • 合計 13,417人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
106-0032[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 品川
※座標は六本木駅付近[5]

六本木の地名

六本木(ろっぽんぎ)は、東京都港区の地名。現行行政地名は六本木一丁目から六本木七丁目。郵便番号は106-0032(芝局管区)。
港区北部に位置し、北で南青山、東で赤坂、南東で虎ノ門、南で麻布台・麻布永坂町・麻布十番・南西で元麻布、西で西麻布と接する。なお、東麻布とはわずかに接していない。旧:麻布区に属し、六本木一丁目、六本木二丁目、六本木四丁目、六本木五丁目の高台地域は番町、市谷船河原町、市谷砂土原町、そして赤坂の高台地区と並び特に六本木四丁目のフランシスカン・チャペルセンター周辺と六本木五丁目の鳥居坂周辺は1990年代前半頃までは独特の佇まいを残していた。
現在は繁華街というイメージが強い傾向にある。また、六本木ヒルズや泉ガーデンといったビジネス街や高級マンション、駐日大使館も多くあり、多面的な顔を見せている。
6本の松の木があったことに由来する説
青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の各大名屋敷が存在したことに由来する説
などがある。
沿革

住居表示実施前後の町名町域対照地図
1869年(明治2年)- 飯倉六本木町、麻布龍土六本木町、麻布北日ケ窪町代地、麻布龍土坂口町、麻布教善寺門前、麻布正信寺門前、麻布光専寺門前、麻布深広寺門前が合併して麻布六本木町成立。

 

 


生徒のわいせつ被害、大阪府が調査へ

2019年12月22日 06時54分53秒 | 事件・事故

学校通さずに回収

 教師による生徒へのわいせつ行為やセクハラが絶えない。大阪府教育庁は来年度から、府立の中高や特別支援学校の生徒計約13万人を対象に被害の有無をアンケートで尋ね、学校を介さず、直接回収する方針を固めた。学校が回収すると、被害の訴えが加害側に知られる可能性があるためだ。府教育庁によると、直接回収の取り組みは全国的にも珍しいという。

 

文部科学省によると、2017年度に強制性交や強制わいせつ、痴漢、盗撮などの行為で懲戒・訓告処分を受けた教職員は210人。うちほぼ半数の97人が自校の児童・生徒へのわいせつ行為と認定された。都道府県別では大阪府は20人とワースト1位で、東京都18人、千葉県13人、広島県11人、北海道・沖縄県各10人、愛知県9人、神奈川県7人など。政令指定都市別でもワースト1位は大阪市5人、2位は堺市と神戸市の4人と続く。

 府教育庁の生徒へのアンケートは府立中学1校、高校150校と、府立支援学校の44校の計195校を想定。これまでも年2回、被害を尋ねる調査を実施していたが、各校が生徒の回答を回収していた。今後は生徒にアンケート用紙を配り、生徒から府教育庁に直接郵送してもらう。府教育庁の担当者は「これまで埋もれていた被害生徒の声を拾い上げたい」と話す。

 対策に動き出したきっかけは兵庫県尼崎市の市立小の男性教諭が今年9月、林間学校で引率した複数の女児に就寝中にわいせつな行為をした事件だ。府教育庁は同様の事例がないか事態を重くみたという。

 教員側の自覚を促す新たな取り組みもある。長崎県教育委員会は今年度、公立小中高の全教職員約1万4千人を対象に「心と性に関するチェックシート」を導入した。選択式の設問で、「小児性愛」の傾向が自分にあるのか自覚してもらうのが狙いで、回答は回収しない。県教委の担当者は「自分の行為をわいせつと認識していない教員にいくら研修をやっても届かない。自覚させることで問題の根絶をめざす」と話す。(光墨祥吾、永野真奈)

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愛宕山ヒストリー NHK

2019年12月22日 06時10分00秒 | 社会・文化・政治・経済

 

「愛宕館と愛宕塔」旅館・西洋料理屋(撮影:明治25年頃)

内容

愛宕山は、江戸時代から町並みや海が一望できる名所として多くの人々でにぎわっていました。

また、幕末には、井伊大老を暗殺した浪士らが桜田門に向かう前に集結した歴史的な場所でもありました。

明治に入ると、東京府立「愛宕山公園」が開園し、明治20年代には、愛宕山の中腹まで登る「新坂」と呼ばれる坂道が作られ、ハイカラな西洋料理店兼旅館「愛宕館」と「愛宕塔」が建設されました。そして1925(大正14)年7月、山頂に東京放送局が完成し、日本で初めてのラジオの本放送が始まりました。

愛宕山からの放送は、内幸町に新放送会館が完成し、放送機能が移る1939(昭和14)年5月まで続きました。

その後、1956(昭和31)年、ここ「放送のふるさと」愛宕山に世界初の「放送博物館」が開館し、現在に至っています。

放送開始85年にあたる今年「愛宕山ヒストリー」と題して、文献資料・古写真・浮世絵から、明治・大正・昭和期の愛宕山にスポットあてて紹介します。