「どうせ死刑なら謝る意味ない」座間9人殺人犯の身勝手な言い分

2020年12月27日 20時13分07秒 | 事件・事故

12/27(日) 14:02配信

FRIDAY

9人の男女を殺害し、死刑判決を受けた白石隆浩被告。12月21日付で控訴を取り下げた。

12月15日、東京地裁立川支部は白石隆浩被告(30)に死刑判決を言い渡した。

白石隆浩被告は`17年、神奈川県座間市内の自宅アパートで、15歳から26歳の男女9人を殺害したうえ、現金を奪ったなどとして強盗・強制性交等殺人などの罪に問われている。殺害後、遺体を風呂場でバラバラに解体し、クーラーボックスに入れて保管していたというその猟奇性が、当時世間を震撼させた。

【画像】座間殺害・白石被告の住んでいたマンションと送検写真

裁判長は判決理由を先に述べ、最後に主文を読み上げた。

「主文 被告人を死刑に処する」

主文が読み上げられている間、取り乱すことなく静かに前を見つめる白石被告。死刑を告げられたあと、裁判長から「主文は聞こえましたか」と問われると、彼は「はい、聞こえました」と答えた。

これまで3度、白石被告に接見し、判決が出た日も裁判を傍聴していたジャーナリストの渋井哲也氏はこう語る。

「検察の質問に対し、記憶が食い違っている部分以外は素直に答えていました。もうここで罪を隠したり嘘をついたりしても意味がない、という諦観を感じましたね。

死刑が宣告されたときも、『どうせ死刑でしょ』といった感じで、判決を淡々と受け入れているように見えました。被害者遺族に対しても謝罪の言葉はなく、裁判官に『本心からではなくとも謝罪する気はないのか』と聞かれ、『どうせ死刑なんだから、演技をする甲斐がない』と述べていました」

9人を殺害し、裁判で遺族と向き合ってもなお、行動の基準は“自分にとって得になるかどうか”。以前、本誌記者が白石被告に接見した際も、彼はこんな信じられない発言をしていた。

「最初に殺した女性だけは可哀想だった。彼女は食事を奢(おご)ってくれたり、ホテル代を出してくれていたから。どうせなら殺さずに利用し続ければ良かった」

「また接見に来てくれたら新しい情報を渡します。その代わり、事前に3万円を差し入れてください」

弁護人は判決を不服として東京高裁に控訴したものの、12月21日付で控訴を取り下げた白石被告。死刑執行までに彼が反省の言葉を述べる日は来るのか。

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最終更新:
FRIDAY

怖かった 看護師の離職相次ぐ

2020年12月27日 12時36分24秒 | 医科・歯科・介護

12/27(日) 10:29

年末年始が迫る中、今週、日本看護協会は会見を開き、感染症指定医療機関などの
21.3%で新型コロナを理由とした離職があったという調査結果を発表しました。
SNSにはこんな投稿も…。

「Go toで人(ひと)集り(だかり)が凄く、私達は会食、旅行は勿論ダメです。
税金払ってなんの楽しみもなくて、税金使って楽しんで感染した人の為に
また同僚が苦しむのを考えてたら退職しようと決意しました。」

都内の病院で働く、離職を決めた看護師にも話を聞くことができました。

離職を決めた看護師
「ちょっと怖かったなっていうのはあります。同期8人いたんですけど3人やめました。」

今年4月からあこがれだった看護師として働き始めましたが、新人研修もないまま、
いきなり現場で働くことに…。

離職を決めた看護師
「こんなに頑張っているのにちょっと使命感では続けられないかなっていうのが
常にギリギリで動いている状態なので」

こうした医療現場を陰ながら支えている人たちがいます。
消毒室と書かれた部屋に置かれていたのは赤い袋。そこに感染症・タオルとの文字。
これは新型コロナ病棟から出てきた洗濯物です。

指定感染症の患者が触れたシーツやタオルは、原則病院内で消毒をしないと外に出すことができません。
洗濯物に触れる際は、個人防護具を装着し作業に当たりますが、実は病院の職員ではありません。
病院の寝具などを扱う企業のスタッフです。

株式会社 東基 矢部 徹也 社長
「病院の医療従事者の方々の手間をなるべく減らすように、そういったところでこちらがお手伝いする。」

手書きで「リネン汚物庫・立入禁止」と書かれた部屋にも…赤い袋。
病院内で処理しきれない物は、袋を二重にし、表面を消毒。
段ボール箱に入れられ未消毒と分かるようにしてクリーニング工場へと運ばれます。

病院から洗濯物を回収するのはコロナ専門のチームです。

工場にトラックが到着。1日に5・6軒の病院を回り、集められた段ボールは、なんと160箱。
この膨大な数を処理するために活躍しているのがオゾン消毒庫です。オゾンが行きわたるよう
袋に穴をあける際は、防護具を身に着けます。およそ4時間半後…。

工場のスタッフ
「はい、OKです。」

オゾンが、隅々まで行きわたったかどうか、チェック。
ここからは通常の洗濯物として扱われていきます。

さらに消毒を兼ねた熱水による洗濯工程を経て再使用されていきます。
年末年始、病院に休みはありません。病院からの洗濯物は、途絶えることなく工場へと運ばれます。

株式会社 東基 矢部 徹也 社長
「国民の命を守る、健康を守るというところで強い使命感を持って働いていらっしゃる方々を
支えるために、私たちもなくてはならないサービスとして、「絶対に止めることはできない」
そういった思いを非常に強くしながら、使命感を持って仕事しているというところです。」

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神を待ちのぞむ (須賀敦子の本棚 池澤夏樹)

2020年12月27日 11時50分37秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
自分にとって「灯台のような存在」と言い、「息もできないほど感動」した須賀。思想の核心を徹底的につきつめ不滅の輝きを放つ名作。訳註、訳者解題、索引も充実。待望の新訳版。
 

内容(「BOOK」データベースより)

『重力と恩寵』と双璧をなす主要作品。半世紀ぶりの新訳、空前絶後の決定版。

著者について

シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ、Simone Weil, 1909年2月3日 - 1943年8月24日)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。

ヴェイユは第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した(享年34)。

戦後、知人に託されていたノートを編集した箴言集『重力と恩寵』が出版され、ベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、多言語で翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。

ヴェイユは自己否定としての神を語る。

彼女の主題は<愛>。ひたすらな、純愛。国や人種をこえて神の光をおびる愛。愛を語ることばは透明にひらめく。

キリストの受難もそのように捉えられている。神から最も離れており、神に立ち戻るのは絶対に不可能なほどの地点にある人のもとに、神が人としてやってきて十字架にかかったということは神の自己否定であるという。

ヴェイユによれば世界の創造も自己否定である。神は世界創造以前にはすべてであり、完全であった。しかし神は創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意し、自ら退いたのである。神と神以外のものの総計は、神だけが存在する状態よりも小さい。創造とは拡大ではなく収縮である。

神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性である。神の自己否定によって存在を与えられた我々は神の模倣、つまり自己否定によって神に応えることができるという。

そして応答としての自己否定とは具体的には隣人愛世界の美への愛なのである。この愛とは、神がそのように創造した世界を受け入れることと言ってもよい。つまりそれ自身のために、自己の支配力を否定することである。

世界が善だから愛するというのではなく、悪をみつめ、悪を憎悪しつつも善と悪を造った神と、神が創ったこの世界を愛することを説く。ヴェイユは偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より神を否定する者の方が神に近いという。全く神が欠けているということでこの世界は神そのものであり、この奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ヴェイユはノートに書き残している。

美の必然性

ヴェイユは美を重視し、それは神や真理へ至るためのほとんど唯一の道であるとしている。したがって彼女の美に対する洞察はその思想の核心に近づいたものといえる。美を愛することは魂の自然な本性に備わっているから、だれでも美には惹きつけられる。もちろん、何を美しいと思い、愛するかには個人差がある。金を愛する守銭奴もいれば、権力を愛するものもいる。ヴェイユは享楽への愛を否定する。

贅沢は高慢であり、己を高めようとすることである。彼女の言う美や愛とはそのような対象への支配と逆の、自己否定である。真に美しいものとはそれがそのままであってほしいものである。それに何かを付け加えたり減らしたいとは思わない完全性、それが「なぜ」そのようにあるのかという説明を要せず、それがそのままで目的としてあるもの。「美は常に約束するけれど、決して何ものをも与えようとはしない。」という彼女の言葉はそのことを表している。美は何かの手段とならず、それ自身しか与えない。

人は美に面したとき、それを眺め、それ自身の内なる必然性を愛する。そして必然性を愛するということは、対象への自己の支配力を否定することである。自己を拡張しようという欲求は対象を食べてみずからの内に取り込もうとするが、美は距離を置いて見つめる対象でしかない。それを変化させたり所有することは汚すことである。美の前で人は飢えながらも隔たりをもってそれを見つめ、そのままで存在してほしいと願う。

不幸

カトリック教会との関係

自らを「教会の門の前で人々を呼び集める鐘」と評したりもしたが、洗礼は受けなかった。

 

困難な時代には時として、感じやすい心をひらいて世界に手をさしのべる、気高い宗教的な女性が出現する。
白百合のような人。シモーヌ・ヴェイユ。
時代背景は、「ナチス」が覇権に突き進んだ。

第二次世界大戦(30歳〜)[編集]

マルセイユのシモーヌ・ヴェイユ32歳(1941年)
1939年9月ドイツのポーランド侵攻に対する英仏の宣戦布告で第二次世界大戦が始まったが、ドイツ軍がいったん動きを止めたため戦闘のない奇妙な戦争状態が続いた。

1940年5月ドイツの電撃作戦で連合軍は分断され弱体化、持ちこたえられなくなったフランス政府は6月10日無防備都市宣言をしてパリを放棄しボルドーに臨時政府を移動した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。6月13日シモーヌと両親は買い物のため外出し、通りのあちこちにパリ無防備宣言のビラが貼られているのを見てそのまま家にも戻らずパリを脱出した。翌日ドイツ軍はパリに入った。6月21日フランス政府はドイツとイタリアに降伏し7月1日にヴィシーへ移転、ここを新しい首都とした。
1940年10月フランス臨時政府(ヴィシー政権は《ユダヤ人法》を発布した。シモーヌが申請していた教職復帰願いも黙殺・あるいは本人に通知されない奇妙な辞令[76]の形で葬り去られた[。
1941年6月、友人の紹介で、農業労働従事の希望実現のため、ドミニコ会司祭で避難民を献身的に世話していたペラン(Joseph-Marie Perrin)神父の元を訪れた。以後、マルセイユを離れるまで何度も語り合い手紙のやりとりをした。
ペラン神父は、農業労働を希望していたシモーヌに農民哲学者ギュスターブ・ティボン(フランス語版)を紹介した。数週間ティボンの農場で研修したあとシモーヌは、彼の隣村の農場で朝から晩まで一ヵ月間葡萄つみの重労働をした。

1941年8月、ヴィシー政権はユダヤ人排斥法を強化し(法令表参照)ユダヤ人の医師の活動も禁止したが、自由地帯(非占領地帯)にいた父ベルナールはシモーヌが働いていたサン・マルセル村に夫婦で滞在し、村の人たちを医師として診療して土地の人たちから人望を得た。
1942年復活祭(3-4月)の時期にカルカソンヌを訪れたシモーヌは、戦傷によってベッドで寝たきりになっていた詩人ジョー・ブスケ(Joë Bousquet)の小屋で一晩語り明かした。一度だけの出会いであったがその後二人は長い手紙のやりとりをした。
ニューヨーク〜ロンドン(33歳〜)

1942年5月、シモーヌはアメリカ経由でイギリスへ渡りそこからフランスに戻る計画を胸に、両親とともにアメリカに渡る(渡米後、すぐシモーヌは戦禍のフランスから離れた事を後悔し始めた)。
4か月後、両親と離れ再び海を越えてロンドンに渡る。
知人[83]のつてでシモーヌは、ロンドンに亡命していたシャルル・ド・ゴールの「自由フランス」本部に行き、文書起草委員として小さな事務室を与えられた。シモーヌがずっと胸に秘めていた「前線看護婦部隊」の創設と彼女自身のそれへの参加という提案書はド・ゴールから「狂気の沙汰」の一言で退けられた。
彼女は深く失望しながらも与えられた仕事をこなし、倒れるまでの4か月間ほとんど寝食を忘れるほどの激務ぶりで大量に書き続けた。

最期(34歳)

1943年4月、下宿の床で昏倒しているシモーヌを友人が発見した。ロンドンの病院に運ばれた彼女は「急性肺結核」と診断されたが、身体的栄養不足によりその回復は妨げられた[88]。彼女は生涯の全時期にわたり繰り返し拒食傾向を示していた。
およそ4か月間、ロンドンの病院に入院したあと、8月にアシュフォード(Ashford)のサナトリウムに移った。その1週間後、1943年8月24日の夜、シモーヌ・ヴェイユは静かに息を引きとった。
検死官による死亡診断書は「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱。患者は精神錯乱をきたして食事を拒否、自ら生命を絶った。」と記された。
後半部分が波紋を起こし、イギリスの新聞2紙が「食物を絶って死ぬ、フランス人一女教師の異常な犠牲行為」との見出しでこの無名な元教師の死を報じた。
シモーヌ・ヴェイユの埋葬に立ち会ったのは7人で、その場に司祭はいなかった。
生前に一冊の著作もない彼女を知っていたのは家族・知人・関係者だけであった。

 
 
500頁を超える大冊。原書の各刊本を校合し、序文はもっとも充実した初版本から、本文は最新の校訂になる全集本から、それぞれ訳出しており、原書のいずれの版よりも充実した構成。一篇の論攷と言ってよい訳者解説。細大漏らさぬ索引。訳文の精確で自然な日本語。まさに決定版というべき新訳。
 
 
 
 

 

 
 
 

神を待ちのぞむ

2020年12月27日 11時40分35秒 | 社会・文化・政治・経済
 
師であり友であったペラン神父が、長い躊躇の末はじめて公表したヴェーユの、魂をゆさぶる信仰告白の記録。工場体験のあと直面した彼女の信仰への疑念を示した手紙を併録。戦間期の混乱のなかで、あらゆる価値観が崩壊していくのに直面して、教会をこえた信仰のあり方をとうた著作。工場労働者など虐げられたものたちへの共感など、シモーヌ・ヴェーユの柔らかい側面がかいま見える一冊。
 

内容(「BOOK」データベースより)

待つことのなかに、求めることのなかに神はいるのかもしれない。世界を充たす恩寵のことば。

著者について

[著者]Simone Weil 1909-1943。フランスの女流思想家。リセ時代にアランの教えをうけ、のち哲学の教師についたが、労働運動に深い関心を寄せ、休職して工場に女工として入り8ヶ月の工場生活を体験。36年スペイン内戦では人民戦線派義勇軍に応募。40年独仏戦のフランスの敗北で、ユダヤ人であるためにパリを脱出。その頃キリスト教的神秘主義思想を深める。42年アメリカに亡命、自由フランス軍に加わるためロンドンに渡るが、病いに倒れ、43年祖国のため食を断って衰弱死する。彼女の生涯と遺作は、不朽の思想としてカミュをはじめ世界の文学者、思想家に深い感銘と影響を与えた。
[訳者]1916年生まれ。上智大学名誉教授。2000年逝去。著書に『マリタンと狂気の芸術論』(講談社)、訳書にアラン『イデー:哲学入門』(白水社)、ほか。
 
 
宗教は危ないものだ、怖いものだ・・・と多くの現代人は思っていると思う。それは、日本人だけではない。
私が数年前にキリスト教圏の国で、二人の十代の息子がいる四人家族でホームステイしていたときのことだが
私が、リビングルームの丸机の上に置かれた、十字架にかかったキリストの小さな木製の像を見ていると
長男のほうが、That's all lieと、何気なく言った。両親の二人は困った顔をして、互いを見つめながら笑っていたのを思い出す。

留学中のフランス人は、フランス屈指のパリ政治学院から来ていたが、聖書を読んだことがないと言っていた。
両親ともにカトリックであり、母親のほうは熱心であるが、父親のほうはそうではない。
そして、聖書については、学校教育では一切触れられなかったと教えてくれた。政教分離を徹底しているのだろう。
フランス国民戦線のマリーヌ・ルペンも、去年のForeign Affairsでのインタビューで、このライシテを理由として
反イスラムを正当化していたことを記憶する。(https://www.foreignaffairs.com/interviews/2016-10-17/france-s-next-revolution)

パリ政では、ソクラテスがどうだとか議論をしたり、ニーチェをドイツ語で読もうとしている友人がいたこととかを
話してくれた。また彼は聖書を読んだことはなかったが、サルトルの『嘔吐』は読んだとことがあったのも、対照的でよく覚えている。
そんな話ができるフランスが少し羨ましいと思った記憶もあるが、それよりも思ったのは脱宗教化が進んでいるということだった。

そして、イエス・キリストの生き方に感動し、彼のしようとしたことを理解し、彼がどれだけの思いで十字架の死を選択したかを
理解していると(僭越にも)思っているに私は、とくにこの脱宗教化が一方的に悪いことだとは思わなかった。

それは、本書でヴェイユが指摘している事を引用せずとも多くの人が知っているように
神の名のもとでどれだけの悪事が正当化されてきたかを人は知っているからである。

ヴェイユが指摘している十字軍などを挙げなくとも、キリスト教は神の名のもとに多くの悪を犯してきた。(無論、キリスト教だけではないが)
また、日本で言えばオウム真理教、海外ではPeople's Temple、Children of God, Heaven's Gateなどのカルトが多く存在する。

宗教は怖いという感情に対して、キリスト教や、あるいは上記のようなカルトの信者はその心理を否定しようとする。
しかし、私はそう思わない。宗教は怖いものである。そして危険なものである。気を付けた方がいい。

そして、本書のヴェイユが、ユダヤ人であり、カトリックに近づきつつも、あくまでも洗礼を受けなかった
ということに、彼女もこのような思いを抱いていたからではないかと、私は思った。

ちなみに、私は本書『神を待ちのぞむ』を、精神的に落ち込んでいたときに読んだのだが、
ヴェイユの苦しみ(あるいは苦しむ能力)は、自分の何十、百倍もあるのだと感じた。

宗教的組織に入ることがなぜできないのか、という箇所でヴェイユはこう述べている
(宗教的組織に入り、「大衆」と離れることが自分にとってよくないのは)
「そのたましいが本来純潔であるがゆえに、大多数の人間からすでに離れてしまっているので、大衆とのこの分離が重大な差しつかえとならない人達がおります。あなたさまに申し上げたいと思いますが、私については、反対に、私自身の中に、すべての、あるいは殆どすべての罪の萌芽を持っております」 p.15

教会については
「カトリック信者の環境の中に存在している教会の愛国主義というものに私は恐れを抱いております。私の申します愛国主義とは、この地上の祖国に付与されている感情を指しています。教会はそういう感情を人々に鼓吹するにふさわしくないと思われると申しあげるのではありません。そうではなくて、この種のいかなる感情も、私は、自分のために望まないからです。望むという言葉は不適当です。その対象が何であれ、私にとっては不吉なものだということを知っており、確信をもってそう感じているのです。
聖者達は、十字軍、宗教裁判を認めました。かれらは間違ったのだと私は考えずにはおれないのです。私は良心の光を忌避することはできません。かれらよりもはるかに劣る私が、ある点においてかれらよりも明晰にものを見ていると考えますなら、かれらは、この点に関しては、極めて強力なあるものによって盲目とならされたのだということを認めなければなりません。このあるものこそが、社会的なものとしての教会なのです。このあるものたちが聖者を傷つけたとしますなら、社会的影響をとくに受けやすく、かれらよりはほとんど無限に弱々しい存在である私には、教会が加えないようなどんな害があるというのでしょうか」
pp.20-21

このような箇所にあるように、彼女は歴史のなかで教会が振るってきた、あるいは認めてきた暴力を無視するのではなく、それとしっかりと向き合い直面しています。
おそらくは、これは見つめないほうが楽でしょう。それでも、彼女は見つめ、洗礼や、教会に入ることは「自身の中に、すべての、あるいは殆どすべての罪の萌芽を持って」いる自分にはできないと判断したのでした。

教会が間違いを犯すことは、近年でもボストンでの子供に対する性的虐待でも、また明らかになりました。組織的にもみ消そうともしていたそうです。酷い話です。

このように宗教組織は間違いを犯します。そして、それはある超越的存在を理由とします。それはロジックを超えているので、論理的、科学的な反駁は不可能なものです。
そのような意味で、自然の非呪術化が進んだことは、良かったことだと思います。

私は、このように宗教は危ないものである、危険なものである、ということを認めつつも、それでも何かを信じたい、何か自分を超えるもののために、自分の命を捧げたいと願うのが人間であると思います。

そして、本書を著したのは、まさにそのような思いを持ち、まさにユダヤ人がホロコーストでナチスにより虐殺され、心に決して消し去ることのできないほどの傷を受けた人であった、ということである。

本書には、美しい箇所が多くあるが、その中から二つ。

「不幸のために、しばらくの間、神がかくれて見えないことがある。死者の不在よりも、もっと不在であり、真の暗やみである土牢の中の光よりも、もっと暗くて見えないことがある。たましい全体が、何かぞっとするような恐ろしさの中にひたされている。このような不在のときには、何ひとつ愛することのできるものがない。何よりおそろしいのは、このように何ひとつ愛しうるものがない暗闇にあって、もしたましいが愛することをやめるならば、神の不在が決定的になるということである。たましいは、空しく愛することをつづけるか、少なくとも、せめてたましいのごく僅かな部分においても、愛しようとのねがいを持ちつづけるかしなければならない。このようにして、いつかある日、神がご自身のみ姿をあらわしたまい、この世の美しさをたましいに教えてくださる日がやってくる。ちょうど、ヨブの場合もそうであったように。しかし、もしたましいが愛することをやめるならば、たましいはこの世にあってはやくも、いわばほとんど地獄にひとしいような状態のうちに落ち込むのである」 p.106
もちろん、ヴェイユがこのようなことを書けるのは、彼女がこの地獄を経験し、味わったことがあるからである。そして、それでも愛しようと願い続けるときに、イエスのしたことが、またより一段と深く理解できるようになるのだろう。

「友愛関係には二つの形がある。出会いと別れとである。この二つは、分けることができない。この二つともに、同じ、ただ一つの、友愛という善を含んでいる。いったい、友人でもない二人の人間がたがいに近づいたとしても、出会いはない。離れたとしても、別れはない。同じ善を含んでいるので、この二つはどちらも同じようによいものである」 p.113

……

他にも、多くの美しい箇所があり、本書に興味がある人は手にとってみることを薦める。
 
 

明治維新の意味

2020年12月27日 10時47分55秒 | 社会・文化・政治・経済

北岡伸一 (著)

明治維新の大改革は、なぜあれほどスピード感をもって、果断に進められたのか。国連大使や国際協力機構理事長を務め、「ネーション・ビルディング」の難しさを知る政治学者が、いま改めて問う、制度作りとそれに関わる者たちのありかた。

北岡 伸一(生年月日1948年4月20日)は、日本の政治学者・歴史学者。国際協力機構 理事長。奈良県立大学理事長。政策研究大学院大学客員教授、東京大学名誉教授。

 

本書は着眼の斬新さ、論述の明晰さ、目配りの広さにおいて群れを抜いている。 最大の特色は政治外交史の視点から政治決定の過程を捉え、合意形成がどのように達成されたかを検証した点だ。
いかなる政治改革も支配者にとって大なり小なり自己否定を意味している。
ましてや権力交代となると、当事者にとって死活問題となる。
体制の転換にはしばしば超法規的な手段が用いられ、当事者が衝突したり、流血を招いたりすることも珍しくない。
しかし、大政奉還のとき、国が大混乱に陥ることなく、周辺国に比べると、戦争ごっこのような局地戦しか起きていない。
著者が注目したのは、公論にもとづく国家の意志決定である。
むろん、「公論」とはいっても、現代とは意味がずいぶん違う。
著者は明治維新のことを「民主化」と称している。
民意を反映する政治が形成される歴史の流れにおいて、明治維新はきわめて大切なきっかけをつくったのは確かなことである。
同時代の清国や朝鮮との比較は興味を引く。
幕末の武士たちは、西洋の砲艦を見ると、一瞬にして勝てないことに気付いた。
彼らは現実を直視しており、精神力に頼ることも、過剰な自文化優位の意識に囚われることもない。
日本は儒教文化の中心から離れている分、周辺的な経験はかえって世界を冷静に眺め、合理的に行動することを可能にした。張競評(明治大学教授・比較文学)

 

表題の「意味」に魅かれ、そして帯の「成功の理由はどこに」に期待し、入手。
 本文は、幕末から説き起こし、明治期を通して、「近代国家樹立」の過程を細やかに綴る。
 しかし何があった、何が出来た、それらが主なる記述で、その何が、何故あったのか、何故出来たのか、肝心のそこが殆ど書き込まれていない。
 故に概して明治は、大久保に始まり、死後伊藤が引き継ぎ、彼の死で終わった、それが本書の趣旨であるならば、その筋立てで構成し、書き進めればいいのに、その辺りを判然とさせずに終わる。
 これでは、本書表題の「意味」は不確か、帯の「成功の理由はどこに」は説き明かされず、と云って間違いあるまい。
 まるで『詐欺』に遭ったよう、本音は突き返したい気持ち。

 

発売初日に購入。
流石、北岡伸一さん。
明治維新に対してのわたしの中の懐疑が解決した。
北岡伸一さんの見解に同感です。
明治維新の本質を突いている。
明治維新については、この著作を読まない事には語れないのでは?ないか。
日本陸軍と大陸政策、以来の練度の非常に高い研究書。

 

当たり前ですが、目新しい話はありません。しかし、明治維新がいかに「綱渡り」であったかが良く整理された内容です。その「綱渡り」を成功に導いた方々が本当にリレーの様に自分の役割をつないで行ったことは、一種の神意すら感じてしまいます。この時代に興味のある方からすれば、フムフムと了解しながら、気軽に楽しめる読み物(正に新書)です。世界的に見て、帝国主義真っ盛りの時代をワープ並みのスピードの自己変革で生き抜いたことは、本当に奇跡と呼んでいいのかと。その後がいけませんが…。

 

明治維新は我が国の世界に誇る一大事業であり、正に国民が一丸となったネーションビルディングだった。と言うのが分かるよう右にも左にも寄らず客観的な事実の積み上げにより、意図通りの偏向して無い明治維新の入門教科書的な内容に仕上がっており素晴らしいです。

その上で浮かび上がってくる特徴として、西洋近代化の大波が襲来した際に国政に軍人が関わっていたこと。それから下級武士から筍の如く国を憂うスケールの大きな志士が湧き出てきたこと。また旧幕の人材活用に見る寛容さも忘れてはいけません。
他にも色々あるかと思いますが、これらはスタート地点であって、その先にある丘の向こうを見たいんじゃ!と言う気もしますが、先人が成し遂げた偉大な歴史として記憶しておく事には大きな意義があるのは間違い無いでしょう。

 

非常に広い視点から明治維新の意味が分析されており、素晴らしいと思う。
個人的には福沢諭吉の学問のすすめを読んでいなかったので、早速読んでみたい。

 

何処にも偏らない、ことさら強調しない姿勢で作ってあって、読んでいて心地良い本です
これからもそういう作品を作って下さい
 
 
明治維新を別の視点でとらえることができました。

東京の感染者なぜ減らない? 年末年始の過ごし方は

2020年12月27日 10時36分37秒 | 社会・文化・政治・経済

12/26(土) 23:30配信

「東京の感染者、なぜ減らないのか?」「年末年始はどう過ごせば良いのか?」をテーマに
厚生労働省の新型コロナに対策にたずさわる和田耕治さんに伺いました。

◇東京の感染者、なぜ減らないのか?大阪・北海道との違いは?
(和田耕治さん)
北海道と大阪は、自衛隊の派遣などもあったため、地元での様々な協力、
そして時短要請の呼びかけも強かった。
そういったことで人出も減って、成果が得られたんだろうと考える。
重症者のピークも北海道、大阪は超えている状況も見え始めている。
ここまで3週間程度はかかったことが教訓としてある。

東京でも多くの人が協力したので、
海外の状況を見るともっと増えてもおかしくはなかった。
もう少し厳しい対策を早めに行うことで、ここまで皆さんに年末年始の医療の状況であったり、
感染の広がり、不安にさせることなく新年を迎えられるような
チャンスもあったのではないかなと考える。

東京都は、2つのメッセージが流れていた。
1つは「なるべく会食に行かないで」というもの。もう1つは「会食に行くなら5人以下で」などのメッセージ。
結局都民には「どちらなんだ?」と十分に伝わらなかったのではとみる。

また、会食を減らすことが、感染を減らすことにどうつながっているのかというのが、
「事業者」にも「都民」にも十分に情報が行き届かなかったとみる。

◇年末年始はどう過ごすべき?
(和田耕治さん)
まずやはり、体調に敏感になっていただきたいと思う。
風邪のような症状、特に咳がでる、のどが痛い、熱が出る、
こういった場合は外出をしない、当然、帰省もしない。
特にクリスマスや忘年会などで友人との会食のあった方には、
ぜひしっかりと気をつけていただきたいと思う。

◇年末年始の感染者数は増える?
(和田耕治さん)
この年末年始は特にPCR検査の数が減る可能性があるので
例えば お正月の元旦などは感染者の数の報告数が減る可能性はある。
しかしながら それにごまかされて初詣に行っていいというわけではないので気を緩めないで頂きたいのだが、
やはり1月の4日以降、医療がまた戻ってくる中で6日、8日あたりで
感染が広がらないことを願っているが、
こちらは想定をしながら準備をしていく必要があると考えている。

 

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村上春樹氏インタビュー、首相が紙に書いたことを読むだけの日本は最悪

2020年12月27日 10時30分59秒 | 社会・文化・政治・経済

12/27(日) 6:01配信

ダイヤモンド・オンライン

日本を代表する小説家、村上春樹氏。幻想的な物語を書くことの多い村上氏だが、インタビューでは現実の政治や社会を辛辣に斬った。写真は朗読をしている様子 Photo by AZUSA TAKADA,TOKYO FM

 コロナ禍が浮き彫りにしたのは、日本の政治家が最悪という事実――そう話すのは、小説家の村上春樹氏だ。コロナから日本学術会議の問題、この国に必要なものまで、2020年の終わりにダイヤモンド編集部のインタビューで語った。前編・後編の2回で届ける。(ダイヤモンド編集部副編集長 杉本りうこ)

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● コロナは突発事ではなく 何かずっと予感していたもの

 ――初めまして。

 (記者の名刺をしげしげと見て)「ダイヤモンド」って、月刊誌でしたっけ。

 ――いいえ、週刊誌です。お金のことばかり書いています。

 そうなんだ(笑)。

 ――なじみがないと思いますが、今日はよろしくお願いします。2020年が終わろうとしています。新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会の在り方も、歴史すらも変わるような年でした。この一年を村上さんはどう過ごしていましたか。

 作家というのは元々、ずっと家にいて1人で仕事をしているものです。特に僕は交際範囲が狭いということもあり、コロナでも日常が変わったという感じはありませんでした。

 朝起きて、近くを走って、仕事をして、音楽を聴いて、ビールを飲んで、そして眠る。こういう僕自身の生活はほとんど変わりませんでした。

 ただ、世の中は大きく変わりました。1人で物を書いていても、そういう空気は感じます。だから、それにどう対処していくかを、僕もずっと考えざるを得ませんでした。

 コロナというのは、突発的な個別の事象ではないと僕は思っています。世界を変えていくさまざまな要因の一つなのだと思っているのです。

 今ちょうど、IT(情報技術)によって新しい産業革命のような動きが起こっています。気候変動も進んでいます。ポピュリズムやグローバル化も進行していて、世の中がどんどん変異し続けています。

 そういう流れの中に、コロナも一つの変異の要因として加わった。そういうふうにしか僕には見えません。突然、コロナ禍が降り掛かってきたというよりも、何かずっと予感していたものが来たような感じです。

 ――村上さん自身の創作活動にも、コロナは影響を与えるのでしょうか。

 それはもちろんです。人は空気を吸って生きているのですから、空気が変われば体の組成も変わりますよね。ただ変化によってどういう作品が実際にできるのかは、できてみないと分からない。

 こういうときの作家としての「対処の仕方」は二つあります。一つはそのもの自体を書くということ。今回だったらコロナで何が変わったのか、具体的に書いていくのです。

 もう一つは起こったことをいったん自分の意識の中に沈めて、それがどういう形で出てくるか見定めるというやり方。これは時間がかかるし、どんなふうに出てくるのか、全然予測もつかない。

 どちらのやり方もそれぞれ大事ですが、僕はどちらかというと後者を好む方です。意識してこう変えよう、こうしようというものではなく、無意識の、意識下の動きでできるものに、僕は興味があるのです。

 僕自身の20年の変化を一つ挙げるなら、海外に行かなかった分、ラジオ(村上氏がDJを務めるラジオ番組「村上RADIO」、TOKYO FMで不定期放送)がきちんとできた。これまでなら1年の3分の1は海外にいましたので、なかなかしっかり放送できませんでした。

 ――大みそかには年越しの生放送を予定しているそうですが、そこにはゲストとして山極寿一さん(京都大学前学長)と山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長)を迎えるとか。この人選は村上さんによるものですか。

 そうです。以前からこの2人とはよく一緒にご飯を食べ、仲良くしているのです。今回の生放送は京都のスタジオでやるというので、真っ先にこの2人の顔が思い浮かびました。

 ――山極さんといえば日本学術会議を巡る大きな議論の渦中にいた人物です。この議論も、20年の日本に非常に大きなインパクトをもたらしましたが、村上さんはどう見ていますか。

● 学術会議問題のまずさは とんでもない意見を言う人を排除したこと

 僕は学者だとか芸術家だとかいった仕事をする人は、どちらかというと浮世離れしていなければならないと思っています。片足は地面に着いているけれど、もう一方の足はどこか別の所に突っ込んでいる。それぐらいじゃないと、そもそも学者や芸術家にはなれません。

 そしてこういう人の意見は、世の中にとっても大事なのだと思っています。「一歩、向こう側」に足を置いている人の意見がね。なぜならそういう人の意見は必ず、「固まった意見」に風を吹き込むのですから。つまり、政治家のような人が発する、世の中の「ある種の総体としての意見」を崩すわけです。

 だからそれを「総体の意見とは違うから」とか、「現実離れしているから」とか言ってどんどん排除していくと、世の中が固まってしまいます。

――固まるとは、どういう意味ですか?

 世の中から、柔軟性が失われていくのです。理屈ばかりで物を考えていくと、物事はうまくいかないのですよ。理屈をちょっと超えたところのものが入ってこないと、世界は滑らかに回転していきません。とんでもないと思えるような意見こそ、意外にも世の中の役に立つものだと僕は思っています。

 だからとんでもないことを言う人が発言権を奪われ、排除されてしまうというのは、大変まずいことだと思う。学術会議に総体の意見とは異なる何らかの問題があっても、むしろ問題があるからこそ大事にしなければいけない。

 今の時代は、SNSやインターネットによって、意見がどんどんマス(集団的)なものになるじゃないですか。そういう時代にこそ、マスにはならない「個の声」の方が、僕は大事だと思っているのです。

 ――村上さんはフィクションを書く一方で、実社会に大きな変化が起こるたびに、作品やスピーチを通してメッセージを発してきました。東京電力福島第1原子力発電所の事故の直後には、「日本人が倫理と規範を失っていたことをあらわにした」と指摘しました。今回のコロナ禍では、何があらわになりましたか。

 まず一つ大きいのは、政治の質が問われているということです。コロナのような事態は初めてのことですから、政治家が何をやっても、間違ったり、展望を見誤ったりすることは避けられません。そういう失敗を、各国の政治家がどのように処理したかを見比べたら、日本の政治家が最悪だったと思います。

 ――日本の政治家の、どこが最悪なのですか。

 自分の言葉で語ることができなかった。政治家自身のメッセージを発することができなかった。それが最悪だったと思います。

 こんな混乱ですから、人が間違ってしまうのは当然のこと。ならば、「アベノマスクなんて配ったのはばかげたことでした」「Go Toを今やるのは間違っていました」ときちんと言葉で認めればよいのです。国民も「間違うことは仕方がないよ、これからちゃんとやってくれればいいよ」と思うはずです。

 それなのに多くの政治家は、間違いを認めずに言い逃れするじゃないですか。だから余計に政治に対する不信が広がっていくのです。そういう、日本の政治家の根本的な欠陥がコロナではあらわになった気がします。

 米国の大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、炉辺談話(ニューディール政策に当たり、ラジオ放送で展開した国民向けの政策説明)をやりました。英首相だったウィンストン・チャーチルも戦争中、ラジオで国民に語り掛けました。

 これはどちらも僕はまだ生まれていなかったけれど、ジョン・F・ケネディのことなら、当時中学生だったのでよく覚えています。彼もきちんと自分の言葉を発信できる人でした。

 日本人であれば、田中角栄さんは話がうまかった。どこまでが本心か、よく分からないところがありましたが。

 こういう人たちと比べると、今の多くの日本の政治家はどう見ても、自分の言葉で語ることが下手です。今の総理大臣だって、紙に書いたことを読んでいるだけではないでしょうか?

 元々日本人には、周囲を見ながら話をして、全体から外れるようだとたたかれてしまう面があります。こういう中でどう発言や表現をするのか。これは政治家の問題でもありますし、同時に、表現を仕事とするいわゆる芸術家の問題でもあるのです。

 >>後編に続く

ダイヤモンド編集部/杉本りうこ

 

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