2020年5月、SNS上で誹謗中傷を受けた末、女子プロレスラーの木村花さんが亡くなりました。
ネット上で、SNSによる暴力が過激化。
匿名になることで、言葉が凶器へと変わり、容赦なく人の心を切りつける。
果たして加害者はどんな人物で、動機は何なのか。
背景には、社会の構造的な問題があるのだろうか。記者が徹底的な取材で掘り下げる。一方、被害の深刻化、多様化が進み、いつ誰が被害者になってもおかしくない。
被害に遭ったらどう対処すべきなのか。
そして今、何が議論されるべきなのかーー毎日新聞取材班の新刊「SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか」(毎日新聞出版)を期間限定で全文公開します。
12月8日から、第1章~第6章を1章ずつ連日公開します。
第1章の一部のみ無料公開、第2~6章はデジタル毎日会員限定での公開です。
はじめに)被害者は誰でもなりうるし、加害者は私たちとかけ離れた特別な人たちではない
2020年12月7日 16時00分(最終更新 12月15日 12時28分)
新緑がまぶしい時期だった。2020年5月23日未明、1人の女性が東京都内の自宅で命を絶った。プロレスラー、木村花さん、22歳。
新型コロナウイルスの感染拡大がいったん落ち着きかけ、政府による「緊急事態宣言」は多くの府県で既に解除されていた。首都圏でも2日後に解除される見通しが出ており、人々が明るい展望を持ち始めた頃だった。
ただ、花さんにとって、視界は真っ暗だったのかもしれない。ツイッターのアカウントにはこんなメッセージを残していた(現在は削除済み)。
毎日100件近く率直な意見。
傷付いたのは否定できなかったから。
死ね、気持ち悪い、消えろ、今までずっと私が1番私に思ってました。
お母さん産んでくれてありがとう。
愛されたかった人生でした。
側で支えてくれたみんなありがとう。
大好きです。
弱い私でごめんなさい。
男女問わず多くのファンを抱え、女子プロレス界の未来を担う若手として期待されていた。4カ月半前の1月4日には、念願だった東京ドームの試合にタッグで出場。負けはしたが、試合後の会見では「夢のような時間だった」と語っていた。ピンク色の髪と派手なコスチュームで、果敢に相手に立ち向かう。時に余裕のある笑顔を見せる。リング上の動画や写真から伝わるのは、明るく強靱な女性というイメージだ。
そんな現実の華やかさとは対照的に、ツイッターなどSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上では、花さんに対する誹謗中傷が繰り返されていた。きっかけは、花さんが出演していたフジテレビの人気テレビ番組「テラスハウス」での振る舞いだった。SNS上の攻撃的な書き込みは執拗に続き、亡くなる直前まで花さんは心を痛めていた。
ツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどの「コミュニティー型会員制サービス」はSNSと呼ばれ、日本では2000年代後半以降、急速に普及した。今では、ニュースや情報収集、友人同士での近況や話題の共有など、生活を豊かにするツールとして欠かせないものだ。
しかし、SNSは社会的なネットワークを作るという本来の役割を離れ、悪意ある書き込みで、人々を分断するような使われ方が目立つようになった。SNSを通じた誹謗中傷、いじめ、差別……。たびたび問題となりながら、抜本的な対策は先送りされ、半ば放置されてきた。
私たち、毎日新聞統合デジタル取材センターは、世の中の関心事にスピーディーに反応し、インターネット上で読まれる記事を発信することを目的として編成された部署だ。情報収集や発信の手段として普段からSNSを活用し、その便利さや価値も実感している。そんなSNSが、なぜ人に不幸をもたらす凶器として使われてしまうのか。どんな人が被害に遭い、加害者はどういう人なのか――。
疑問を解くために、5月末以降、インタビューを重ね、ウェブサイトと紙面で記事を連載した。匿名になることで時に暴力性を帯びるSNSの特性をふまえ、タイトルは「匿名の刃~SNS暴力考」とした。取材で浮かんできたのは、被害者は誰でもなりうるし、加害者は私たちとかけ離れた特別な人たちではない、ということだった。
本書は連載を出発点とし、大幅に取材を加え、全6章にまとめた。
第1章では、木村花さんやその他の事例をたどり、SNS暴力の被害の実態に迫った
。続く第2章、第3章では、加害者の人物像、動機や心理、背景にある社会構造を掘り下げた。第4章は、被害の多様さ、その深刻さに触れ、第5章は、被害回復の方法、規制のあり方を考えた。最終第6章では、SNSの功罪を検証し、未来を探った。なお、文中の年齢は20年8月末現在で表記した。
SNS暴力という「社会の闇」を、皆さんと一緒に解き明かしていきたい。
第1章・ネット炎上と加速する私刑(2)誹謗中傷は「スープに入ってきたハエ」
2020年12月8日 10時00分(最終更新 12月15日 12時34分)
木村花さんが亡くなった5月23日、SNS上では、中傷書き込みの責任の重さを巡って、議論が渦巻いた。そんな中、ある投稿が目に留まった。
〈悪口や中傷に傷つく人はSNSは向いてない、そうじゃない。SNSに向いてないの平気で人を傷つける人。ネットにはルールとマナー、そして人権がある。言論の自由は何してもいい訳じゃない、それは言論の無法。最初に言論の責任がある。命を離すまでどれだけ悩み苦しんだか、もう悲しくてやるせない。〉
傍観者の目線ではない、ひときわ強いメッセージ性と説得力を感じた。ネット上で「殺人関与」などのデマに長年苦しめられた経験があるお笑い芸人、スマイリーキクチさん(48)の投稿だった。すぐに連絡をとり、インタビューに応じてもらった。
新型コロナウイルス禍のため、オンラインで対面したスマイリーさん。花さんが亡くなったことをどう受け止めたのか。改めて聞くと、言葉を選びながらこう答えた。
「ネット上の誹謗中傷への悩みがあったと聞いて、一人で抱え込んでしまったのかもしれない、と思いました。言葉が刃物のようになって心に突き刺さり、命を絶つまで彼女を追い詰めてしまったのかもしれない、と」
「言葉は刃物になる」。重い言葉だった。
「本当に誹謗中傷が原因だったとしたら、こういう事態が起きないように活動してきた者として、非常に残念で悔しいです」
スマイリーさんはさらに、こう続けた。
「彼女のインスタグラムやツイッターには、誹謗中傷だけでなく、応援メッセージもたくさんありますよね。でも、自分も経験したから分かるのですが、『スープに入ってきたハエ』と同じなんです」
目の前に出されたスープにハエが入ってしまったら、スープ全体の量からすればたとえ小さなハエであっても、どうしても気になってしまう。中傷から逃れられない心情を分かりやすい例えで説明した。
デマから炎上、そして殺害予告
誹謗中傷を受けた経験者として、スマイリーさんのもとには多くの芸能人らが相談に来るという。木村さんの件についても「何か救う手立てはなかったのか、という気持ちもあります」と無念そうに語った。
自身の体験は壮絶なものだった。
〈事実無根を証明しろ、強姦の共犯者、スマイリー鬼畜、氏ね〉
〈ネタにしたんだろ?犯罪者に人権はない、人殺しは即刻死刑せよ〉
〈生きる資格がねぇ、レイプ犯、早く死ね〉
1999年夏。当時SNSはまだ普及しておらず、誹謗中傷の舞台は「2ちゃんねる」などネット上の匿名の掲示板だった。「10年前に東京都足立区で起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人」という、いわれのないデマに基づいていた。スマイリーさんが足立区出身で、事件の犯人と同世代ということ以外、何の根拠もない。書き込んだ者のほとんどが、「少年法により名無し」という匿名のハンドルネームを使っていた。
所属事務所のホームページで、事件への関与と「事件を(お笑いの)ネタにした」といううわさを否定したが、誹謗中傷は収まるどころかさらに広がった。
「当初は、正直ショックでもなくて、『なんとばかばかしい』ぐらいに思っていました。ネットをほとんど使っていなかったので、見なければ知らない問題でもあった」
スマイリーさんは、当時をそう振り返る。
だが、「実害」が出始めた。仕事先にも嫌がらせが入るようになったのだ。出演していた番組やCMスポンサーに「殺人犯は出すな」との抗議が寄せられ、お笑いのライブでも客がヒソヒソうわさするようになった。
さらに、家族や恋人にまで、被害が広がった。
〈家族の情報を知っていたら教えて〉
〈家族も見つけ次第殺す〉
ネット上の投稿は、個人情報を探り出す動きになり、殺害予告もあった。〈彼女がいたら乱暴しよう〉という内容もあった。そして、ある書き込みに戦慄した。
〈近所でスマイリーキクチをみた〉
〈おんなといた。多分あれ彼女だぜ〉
〈この店 ○○○〉
実際、恋人と当時よく行っていた店だった。
「身近にいる。家族も恋人も、町を歩いていたら確実に何かされる。時間の問題だ」
そう考えると、怖くなった
姿の見えない相手が、自分を殺人犯だと思い込み、無数の嫌がらせを送っている。誰が、何の目的で?
「疑問で頭がいっぱいになり、自分が言葉で人を殺すゲームのキャラクターにされたようにも感じました」
さらなる「炎上」要因もあった。ネット上の検索エンジン「Yahoo!」で、質問を送ったり回答したりできる「Yahoo!知恵袋」。2008年3月、ある質問が載った。
〈「○○」という本を読みましたら、「○○(スマイリーさんのデマが流れた事件名)」の主犯格のひとりがお笑いコンビを結成し、芸能界デビューをしているという事実が書いてありました。そのお笑い芸人とは誰なのでしょう?〉
質問に対する回答の「ベストアンサー」にはこんな回答が選ばれた。
〈スマイリー菊地という芸人ですがピン芸人ではなかったかな。本人の事件関与については謎です。〉
この○○という本は実在する。「元警視庁刑事」を名乗り、ワイドショーでコメンテーターとして活動していた男性の著書だった。質問に書かれた記述もあった。
この書き込みをきっかけに、スマイリーさんの名前とデマはさらに拡散された。
警察は血では動くが字では動かない
炎上が続き、スマイリーさんは警察に相談したが、何十人もの警察官に笑われたり、ばかにされたりした。「殺されたら捜査してあげるよ」とも言われた。
「殴られたら血が出るという実害が見えるけれど、誹謗中傷による『心のけが』は第三者から見えないんですよね。警察は血では動くけれど、字では動いてもらえない、と思いました」と振り返る。
そのうち、警察を含め相談した人たちから「あなた頭おかしいよ」「ネット上の言葉を一番信じているのは、あなただよ」と言われるように。味方と考えていた警察まで敵に見えてきた。「俺がおかしいのか?」。自問自答の日々が続いた。
弁護士にも相談すると、「必要な経費は200万円」と言われた。当時のスマイリーさんには、簡単には出せない大金だった。「プロバイダが発信者の情報を開示しなければ、最高裁までいく可能性がある」とも言われた。
解決の糸口が見つからず、袋小路に入ったが、諦めるわけにはいかない。
スマイリーさんには「二つの許せないこと」があった。一つは、スマイリーさんや家族、周囲の人たちにも殺害予告が届いていたこと。「死んだら許してやる」という書き込みが山ほどあった。だからこそ、「生きて身の潔白を晴らす」という思いが強く心の中にあった。
「『死ね、死ね』とたくさん書き込まれて本当に傷ついたけれど、逆に生きることが仕返しだと思った。思いっきり幸せに生きてやる、と」
もう一つは、勝手に犯人だとされた殺人事件の被害者を、冒瀆する書き込みもたくさんあったことだ。「『死人に口なし』とばかりに書き込んでいて、心から許せなかった」
諦めずに警察への相談を繰り返した結果、信頼できる刑事と出会う。2008年夏から捜査が本格化。翌年3月までに、中傷を書き込んだとされる男女19人が名誉毀損容疑などで摘発され、うち7人が書類送検(いずれも後日不起訴処分)された。「ブログ炎上 初の摘発」「ネット暴力に警鐘」といった見出しが新聞各紙に載った。
「ガラケー女」に間違えられて
誹謗中傷の被害者となるのは、著名人だけではない。多くの人がインターネットで広くつながっている時代。誰であっても突然、匿名による卑劣な攻撃にさらされる危険性はある。
「ガラケー女」に間違えられた女性に攻撃的な言葉を投げつけてきた人から、容疑者逮捕の直後には一転、謝罪のメッセージが届いた=東京都内で、五味香織撮影
「ガラケー女」という言葉が盛んに飛び交う事件があった。
2019年8月、茨城県の常磐自動車道で、後方からあおり運転をした男が、相手の車を停車させ、運転席の男性を殴ってけがをさせた事件だ。男が暴行を加えた際、「ガラパゴス携帯」と呼ばれる折りたたみ式の携帯電話を持つサングラス姿の女性が、笑いながら暴行の様子を撮影していたのだ。「ガラケー女」と名付けられたこの女性の姿を収めた動画がSNSで拡散され、テレビのニュースでも繰り返し報じられた。男の粗暴ぶりもさることながら、男と同乗していた非情な「ガラケー女」にも世間の関心が集まった。
事件から1週間後、お盆の終わりの週末だった。東京都内に住む30代女性は午前6時ごろ、枕元に置いたスマートフォンの着信音で目が覚めた。早朝にもかかわらず、電話とメールが鳴り止まない。寝ぼけ眼で手に取ると、知らない電話番号や番号非通知の着信が大量に表示されていた。その中にあった友人からのメッセージを見ると、「ネットに情報がさらされている」という知らせだった。
添えられていたアドレスをクリックして、飛び起きた。
あるウェブサイトに自分の名前や顔写真が掲載されていた。〈犯人だ〉という言葉も目に飛び込んできた。女性があおり運転事件の「ガラケー女」だという指摘だった。
全く身に覚えがない。サイトは、事件などに関する情報を集積した「まとめサイト」と呼ばれるブログで、〈捕まえろ〉〈自首しろ〉と責め立てる言葉が並んでいた。
知らせてくれた友人からは、SNSで否定するよう勧められたものの、焦りと混乱で何を書けばいいのか分からない。女性は当時、事件についてあまり関心がなく、サイトで自分の写真と一緒に並べられた加害者の男が誰なのかも分からなかった。
女性が個人経営する会社のウェブサイトが画像として出回っていたため、会社に電話やメールが殺到し、転送先のスマートフォンに届いたのだった。女性のインスタグラムにも「早く自首しろ」などという書き込みが相次いだ。匿名で利用していたにもかかわらず、なぜか女性のアカウントだと特定されていた。人違いだということを発信しても、〈そんなことを投稿する暇があるなら、早く警察に行け〉というコメントがつき、さらに炎上した。やがて〈詐欺師〉〈ブス〉などと、事件とは無関係の中傷も交じるようになった。
幸い、翌日に、あおり運転の加害者の男と「ガラケー女」は傷害や犯人隠避などの疑いで逮捕され、SNS上の攻撃は一気に収束した。しかし、約2日間で、不審な電話の着信は約300件に上り、インスタグラムに届いたダイレクトメッセージは1000件を超えた。ツイッターの中傷投稿は、代理人の小沢一仁弁護士(東京弁護士会)が確認しただけでも100件以上のアカウントから届いていた。リツイートを含めると、その何倍もの人が誤った情報を拡散したとみられる。
誤認された理由はこう推測される。女性は匿名でインスタグラムを利用していたが、趣味の旅行や食事のほか商品紹介などで注目され、フォロワーが約1万人もいた。加害者の男もその一人で、そのつながりから男の交際相手と一方的に決めつけられたとみられる。インスタグラムは一方的にフォローが可能で、女性はフォローされていることも知らなかった。
まとめサイトに載せられた女性の写真は、一緒に写っている友人がフェイスブックに掲載した写真を切り取ったものだった。事件当時の「ガラケー女」の服装と似た、帽子とサングラスを着けた写真も出回った。匿名のインスタグラムのアカウントから、どうやって実名のフェイスブックにたどり着いたのかは、その後も謎だ。ちなみに女性は、「ガラケー」は使っていない。
あおり運転関与の男女が逮捕されたと伝わると、インスタグラムやツイッターには、謝罪の言葉が届くようになった。目立ったのは「デマを信じて暴言を吐きました」と釈明する内容のもの。しかし、女性は「デマを信じることと、暴言を発信することは全然違う。許されないでしょう」と憤る。「すみませんでした」という言葉の後に絵文字を付けてくる人もいた。自身の痛みに比べ、あまりの「軽さ」に驚いた。お詫びのメッセージを送ってきた後、アカウントを消して逃げる人もいた。
約1週間後、女性と小沢弁護士は東京都内で記者会見した。中傷投稿した人物に対し、損害賠償請求や刑事告訴をすると明らかにした。損害賠償請求の準備のため、ツイッター社やSNS事業者に対し、発信者情報の開示請求を始め、小沢弁護士は「請求対象は百件単位の規模になる」と話す。
自ら名乗り出て来た人とは和解に応じているが、「普通の人」が多かったという。未成年から年配者まで年齢層は幅広く、住んでいる地域も全国各地に及んだ。子どもに代わって平謝りする保護者、「家族に知られて肩身が狭い」と連絡してくる男性……。幼い子どもを持ち、普段は「良いママ」として暮らしていそうな人もいた。
一方で、女性が訴え、判決が出たケースもある。愛知県豊田市議(当時)の50代の男性は、自身のフェイスブックに、女性の写真を転載し、「早く逮捕されるよう拡散お願いします」などと投稿。2020年8月17日、東京地裁は、男性の投稿が「原告(女性)の社会的評価を低下させる」として、男性に33万円の支払いを命じる判決を言い渡した。ネット中傷に振り回された「激動の日」から、ちょうど1年を迎える日だった。
木村花さんが亡くなったことが報じられた後、女性はある友人に「同じようなことをされたんだよね。生きていてくれてありがとう」と言われた。改めて、自身の被害の大きさを実感した。その一方で、ネット上には、引き続き匿名による悪意が渦巻く。事件や裁判に関連する報道が出る度、SNS上には〈謝っているんだから許してやれよ〉〈しつこい女〉〈金の亡者〉などの心ない中傷が相次ぐ。
ネット中傷問題では、被害者本人だけでなく、代理人になる弁護士に火の粉が降りかかることも少なくない。小沢弁護士も一連の事件対応に関連し、SNS上で身の危険を感じるような中傷を受けたり、画像を面白おかしく加工されたりしたという。
「被害を受けるリスクを考え、ネットトラブルの訴訟を引き受けたがらない弁護士もいると思います」
小沢弁護士はそんな被害の「象徴的な事例」として、次に登場する弁護士の名前を挙げた。
100万回の殺害予告を受けた「炎上弁護士」
「何だ、これ」。2012年3月、東京都内の沖縄料理の居酒屋。知人らと和やかに食事をしていた唐澤貴洋弁護士(第一東京弁護士会)は、携帯電話の画面を見て衝撃を受けた。匿名掲示板「2ちゃんねる」に、自分を中傷する投稿があふれていたのだ。そこから100万回に及ぶ殺害予告など5年にわたる壮絶な被害が始まった。ネット中傷の問題に取り組む弁護士ら関係者の間で、唐澤弁護士を知らない人はいない。
発端は、2ちゃんねるに成績表をさらされるなどした少年から依頼を受け、掲示板に唐澤弁護士の実名入りで削除要請の書き込みをしたことだった。当時は削除要請や発信者情報開示の依頼は掲示板上で行うことになっており、内容がすべて公開された状態だった。唐澤弁護士は名前を出していたため、標的になったとみられる。
削除要請をして数時間後に掲示板を確認すると、既に「炎上」が始まっていた。今後の仕事のためにとツイッターでフォローしていた著名人の中にアイドルの女性が含まれていたことから、〈ドルオタ(アイドルオタク)だ〉と揶揄するようなコメントが相次いでいた。「荒れている」ことに唐澤さんは危機感を覚え、とりあえずツイッターを鍵つきにして見えないようにした。すると、掲示板では〈本人が見てるぞ〉とさらに盛り上がり、投稿が止まらなくなった。
内容は数週間の間にどんどんエスカレートした。そのうち、唐澤弁護士の名前や事務所名を検索エンジンに入力すると、検索予測に「犯罪者」「詐欺師」などの言葉が出てくるようになった。掲示板上では、唐澤弁護士の名前とネガティブな言葉を組み合わせて繰り返し投稿することで、検索エンジンのサジェスト(予測変換)ワードを作りだそうとする動きがあったという。いわゆる「サジェスト汚染」だ。この状態が続けば、弁護士としての信用を失い、仕事にも影響する。そう考えた唐澤弁護士が法的手段を講じようと発信者情報開示の依頼をすると、さらにそれがネタになり、収拾がつかなくなった。
やがて被害は現実世界へ
連日の誹謗中傷は、唐澤弁護士を精神的に追い込んだ。インターネットを見ないようにしようとしても、掲示板などで何が書かれているか気になり、どうしても確認してしまう。見ていない時でも何か悪いことが起きているのではないかと不安で、夜もよく眠れなくなった。頻繁に悪夢にうなされ、感情の起伏もなくなった。少しでもその苦しさから逃れようと、強くもない酒を毎晩あおった。
最初の投稿から4カ月ほどたった頃、ついに殺害予告が書き込まれた。
〈8月16日、五反田で唐澤貴洋を殺す〉〈ナイフでめった刺しにする〉
具体的な日時や事務所を構えている場所、手段まで指定する内容で、今までの誹謗中傷とは明らかに次元が違う。唐澤弁護士は振り返る。
「ぞっとしました。『殺す』という言葉はすごく重い。その上、匿名なので誰が言っているかも分からない。それは恐怖でしかありません」
身の危険を感じて警察に相談したが、当時は警察もネット上の脅迫に対し、犯罪という認識が薄く、捜査には時間がかかった。
その間もさらに追い詰められ、生活は一変した。
「いつどこで危害を加えられるか分からない」とおびえ、行動パターンを把握されないよう自宅に帰るルートを毎日変え、背後に人がいないか常に気にするように。密室を恐れ、エレベーターではなるべく見知らぬ人と同乗しないようにした。疑心暗鬼が深まり、人の多いところに出かけることも、仕事で人と会うことも負担に感じ、避けるようになったという。
被害はさらに広がり、家族や、現実世界にも及ぶようになった。両親の名前や実家の住所が特定されてネット上にさらされ、それをきっかけに実家周辺の写真や実家の登記簿までアップされた。実家近くの唐澤家の墓に白いペンキがかけられ、墓石に唐澤弁護士の名前「貴洋」が書かれたこともあった。そしてその写真も投稿された。
実は唐澤弁護士には一つ年下の弟がいたが、高校生の時に不良グループから恐喝まがいのことをされて集団リンチに遭い、それを苦に自殺している。弟を救えなかったという無力感が、「法を武器に悪と闘いたい」と弁護士を目指すきっかけになったという。弟が眠る大切な場所が汚されるのは、耐えがたいことだった。寺に迷惑をかけたとお詫びに行った帰り道、涙がこぼれ落ちた。
さらに弁護士事務所にも「実動部隊」が嫌がらせに来るようになった。郵便受けに生ゴミを入れたり、鍵穴に接着剤を詰められたり、唐澤弁護士の後ろ姿が盗撮されてネットに投稿されたりと、ありとあらゆる実害を受けた。このため、事務所は3回も移転を余儀なくされた。さらにグーグル・マップを改ざんして、皇居や警察庁を唐澤弁護士の事務所名に書き換えたり、唐澤弁護士になりすまし、ある自治体に爆破予告したりする者まで現れた。
「当初は実害の矛先は私やその周辺に向いていたのに、だんだん私というネタを利用して『社会を巻き込んで面白いことをしよう』という方向にエスカレートしていきました。完全に愉快犯です」
被害が落ち着いても消えない恐怖心
警察が集計したところ、殺害予告の投稿は約100万回に及んだ。唐澤弁護士によると、海外のネットメディアが出所と思われる「殺害予告をされた件数の世界ランキング」では、1位が世界的人気を誇るカナダの歌手のジャスティン・ビーバー、2位が唐澤弁護士、3位がジョージ・W・ブッシュ元米国大統領──となっているといい、件数の異様さがうかがえる。
2014年5月以降、唐澤弁護士に殺害予告や爆破予告をした人物など10人以上が脅迫容疑などで逮捕または書類送検(一部が不起訴処分)された。しかし、その後も同様のネット中傷や悪質な嫌がらせは続いた。17年夏には、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんの妻・小林麻央さんが亡くなった時、唐澤弁護士になりすました人物がツイッターに〈姪が亡くなりました〉などとデマを投稿し、大炎上。ツイッター上で〈親族でもない人間が勝手なことを言うな〉などといわれのない非難を受けた。
唐澤弁護士は18年に、長年にわたる壮絶な経験を綴り、『炎上弁護士』とのタイトルで書籍を出版。「100万回の殺害予告に立ち向かった弁護士」としてテレビ番組にも出演し、頼まれれば学校などで体験を話すこともある。
被害はここ2~3年は落ち着き、表向きは立ち直ったように見えるが、唐澤弁護士は「今も恐怖心から逃れられない」と明かす。しつこく後をつけられた経験から常に人の視線が気になる。自宅などが特定されないよう、近距離移動でもタクシーを使う。仕事上、人に会わざるを得ないが、初対面の時はとても緊張するようになった。
ちょっとした相手への否定的な感情や遊び感覚で「着火」され、ネット特有の拡散力によって燃え上がる「炎上」。行為に関わる人たちの軽さとは裏腹に、命を絶つほど精神的に追い込まれたり、長年にわたり身の危険を感じておびえたり、被害者が受ける被害はあまりに重大だ。法律的根拠もなく個人に制裁を加える「私刑」とも言える。炎上という現象の周辺にはどんな人たちがいるのか、どんな心理で関わるのだろうか……。(第2章につづく)