高度な支援、国が加速 

2016年04月12日 11時06分45秒 | 医科・歯科・介護
 医科学など専門家を配置
 「国策強化の行方」


共同通信社 2016年4月8日 配信

 スポーツ庁が五輪でのメダル量産に向けた施策として中核に据えるのが、有望競技を情報・医科学面から支える「ハイパフォーマンスサポート事業(旧マルチサポート事業)」だ。2009年秋に本格的に始まり、16年度予算は過去最多の35億円。スポーツ強国に倣い、支援の「高度化、専門化」(鈴木大地長官)に取り組む。
 対象は夏季五輪では18競技。日本スポーツ振興センター(JSC)が国費で情報分析やトレーナーなど約50人のスペシャリストを雇用し、各競技に配置している。日本独自の用具開発は筑波大が企業と組んで進めており、12年ロンドン五輪ではフェンシングの剣のグリップや、前傾姿勢を取りやすいレスリングのウエアをつくった。リオデジャネイロ五輪に向けても「秘密兵器」の準備を進めている。
 五輪で現地の支援拠点となる「ハイパフォーマンスサポート・センター」もJSCがこの事業で設置する。4年前のロンドンでは和食や、疲労回復効果のある炭酸泉のプールなどを選手に提供し、史上最多38個のメダル獲得を後押しした。
 JSCによると、五輪前年の世界選手権で8位以内に入った選手の五輪でのメダル獲得率は北京大会では19・7%だったが、ロンドン大会では32・1%と大きく伸びた。和久貴洋(わく・たかひろ)情報・国際部部長は「最後の調整の環境が整ったことで成功率が上がった」と自負する。
 競技団体が独自に実施するのは難しい、多角的な支援。より現場のニーズに合った取り組みを実現するため「研究のための研究になっては駄目」(スポーツ庁関係者)「サポートする側も進化しないといけない」(JSC担当者)と、模索が続く。
(長谷川)

成年後見人の育成促進 

2016年04月12日 11時05分37秒 | 医科・歯科・介護
権限拡大へ関連法成立 
認知症高齢者増に対応


共同通信社 2016年4月8日 )配信
 認知症や知的障害、精神障害などで判断能力が不十分な人を支援する「成年後見制度」の利用を促進する法律が8日の衆院本会議で自民、民進、公明各党などの賛成多数で可決、成立した。認知症高齢者らの増加に対応し、担い手確保のため市民の後見人を育成するほか、選任する家庭裁判所の監督体制を強化する。
 医療や介護に関する後見人の権限拡大も検討する。併せて審議されていた、郵便物の開封や、後見されている人が死亡した後の手続き代行を認める民法の一部改正などは、6日の参院本会議で既に成立している。
 認知症高齢者らは財産管理や介護施設の入所契約を結ぶのが難しかったり、悪徳商法の被害に遭いやすかったりする。後見人はこうした人たちの手続きを代行するが、認知症の人が400万人を超えるのに、利用は約18万人にとどまっていた。
 利用促進法は議員立法。後見人となる人材を確保するため市民への研修や情報提供を実施し、後を絶たない後見人による財産の横領を防ぐ目的で家裁や関係機関による監督体制の強化を政府に求めた。利用者増に向けた施策や目標を定めた基本計画を策定し、首相をトップに関係閣僚が参加する利用促進会議を内閣府に設置すると定めた。
 また意思決定が困難になった人も医療や介護を円滑に受けられるようにするために、現在は財産管理と介護サービス契約の代行などに限られる後見人の業務拡大を検討することも求めた。手術や輸血といった医療行為への「同意権」などが焦点になるとみられるが、後見される人や家族、支援団体からは「自己決定権が侵害される恐れがある」との批判も出ている。
 成年後見制度は2000年にスタート。家族のほか、司法書士や弁護士、社会福祉士ら法律や福祉の専門家が後見人になることが多い。
 ※成年後見制度
 認知症や知的、精神障害などで判断能力が不十分な人を後見人が保護、支援する制度。介護保険制度が発足した2000年に、禁治産、準禁治産制度を廃止してスタートした。家族らの申し立てを受けて家庭裁判所が選任する「法定後見」と、将来に備え、判断能力があるうちに自分で選ぶ「任意後見」がある。後見人は家族のほか弁護士、司法書士などが多いが、研修を受けた市民もなれる。財産管理などが主な業務で、日常の買い物や掃除などは業務に含まれない。

医療事故調査制度半年 件数低調、判断に戸惑いも

2016年04月12日 11時04分10秒 | 医科・歯科・介護
 遺族「もっと話聞いて」 

共同通信社 2016年4月11日 )配信

 診療に関連した予期せぬ死亡事案を対象とした医療事故調査制度のスタートから半年が過ぎた。医療機関側が「院内調査が必要」と判断し、第三者機関に届け出たのは188件。想定を大幅に下回る件数で「『予期』を巡る判断に現場が苦慮している」との見方も。一方、調査の進め方や結果報告に関し、遺族側から「もっと話を聞いて」「分かりやすい説明を」との声が出ている。
 ▽「予期」の範囲
 制度の対象は全国約18万カ所の医療機関や助産所。第三者機関の「日本医療安全調査機構」(東京)によると、届け出があった188件の内訳は、内科と外科が29件ずつ、整形外科20件、産婦人科15件、精神科と循環器内科が13件ずつなどとなっている。
 機構側は制度開始前、届け出は年間千~2千件と見ていた。院内調査をするかどうかの判断は医療機関側に委ねられているが、制度に詳しい名古屋大病院の長尾能雅(ながお・よしまさ)副院長は「現場では『予期せぬ』の範囲をどう捉えればいいのかという戸惑いが大きい」。機構に寄せられた制度に関する相談は半年間で約千件。半数は届け出の判断や手続きに関するものだった。
 医療現場には依然として訴訟リスクへの警戒感も強いといい、関東地方の総合病院の院長は「届け出た時点で、原因が特定できなくても『医療ミスだ』と騒がれるのでは」と懸念を示す。
 機構の木村壮介)常務理事は「医療機関側は調査対象を幅広く捉え、原因を徹底究明して再発防止につなげる姿勢をもっと積極的に示す必要がある」と話す。
 ▽蚊帳の外
 制度上、機構に報告した事案は院内調査を実施し、その結果は遺族に説明するよう規定。遺族は不服があれば、第三者機関である機構に調査を依頼できる。
 昨年11月に食道がんと診断され東海地方の病院に入院中だった女性が急死し、院内調査が実施されたケース。抗がん剤投与後に激しい嘔吐(おうと)などの症状があり、死亡との因果関係が問われたが、「原因不明」との結論が示され、40代の娘が機構に調査を申し立てた。
 病院側は娘の要望に応じて4ページにまとめた院内調査の報告書を交付。抗がん剤の投与量や死亡の経緯が記されていたが、難解な専門用語やグラフが並べられ、娘は「遺族に内容を理解させようという気持ちは感じられなかった」と振り返る。
 院内調査の過程で話を聞かれることもなく、この点は義務化されていないが「遺族の目線を意識した対応をしてほしかった」。遺族の相談窓口を開設する「医療の良心を守る市民の会」代表の永井裕之さんも「調査過程で蚊帳の外に置かれると遺族は不信感を強める」と指摘する。
 医療側と遺族の信頼構築に向け、永井さんは「医療事故で大切な家族を亡くした人たちは『なぜ』『何が起きた』という気持ちを簡単には拭えない。医療機関側の責任が明確でない場合でも、遺族が知りたいと考える点については説明を尽くすべきだ」と強調する。
 医療事故被害者の間には、遺族の要望に応じる形で院内調査を始める仕組みを求める声も根強い。制度は6月までに見直すことになっており、届け出対象の範囲などの課題をどう整理するか、国や医療界の対応が注目される。

「支援女性死なせた」 手術促した後悔、今も 

2016年04月12日 11時02分57秒 | 医科・歯科・介護
成年後見促進法成立

共同通信社 2016年4月11日 配信

 認知症高齢者や精神・知的障害者の増加を見据え、利用促進法により担い手の育成や権限強化が図られることになった成年後見人。手術への「代諾」(同意)や居住地の選択、死後の財産処理といった場面に立ち会ったとき、後見される人の意思をどうくみ、支援に生かすのか。日々、難しい判断を迫られている。
 「私は被後見人を死なせてしまった」。関東地方で活動する60歳代の男性後見人は唇をかんだ。2008年7月、男性が後見人となって支援していた女性=当時(46)=は喉にできた腫瘍を切除する手術を受けた約2週間後、くも膜下出血で死亡した。女性には重度の知的障害があり「術後の管理のため」病院のベッドに両手足を縛られ、身体を拘束されていた。後見人には拘束する方針は伝えられていなかった。
 腫瘍は良性だったが、こぶし大になり食道を圧迫していた。健常者ならすぐにでも手術してしまうケース。だが、知的障害がある女性は術後、ベッドで安静を保てないことが予想されたため、先延ばしにしてきた。
 「手術をすべきか」。後見人は悩んだ。女性は通常の病院の診察でも恐怖で体を震わせ、目を潤ませていた。意思表示ができたとしたら「手術は望まない」と言ったかもしれない。後見人は「自分だけで結論を出すのが怖くて」精神保健福祉士ら専門職10人に手術について検討を求めた。意見は真っ二つに割れ、結局後見人らに促される形で、代諾権限のある女性の実母が手術に同意した。
 身体拘束と死亡との因果関係は不明だ。だが、もし手術をしていなかったら―。7年以上たった今も、後見人の悔恨の念は消えない。「手術の是非はもちろん、術後管理の方法をもっと病院側と詰めるべきだった」
 成年後見制度は00年、介護保険制度とともに高齢化社会を支える両輪として導入された。今回成立した促進法では従来の財産管理に加え、施設入所や入院などの手続きをはじめとする生活面のサポートを強化。担い手確保のため市民後見人も育成して、サービスの需要増に備える構えだ。
 医療行為や介護に同意する権限を後見人に付与するべきかどうかも議論される。後見人の力が強まる可能性が出てきたことに、現場は戸惑う。
 岐阜県多治見市のNPO法人「東濃成年後見センター」の山田隆司事務局長は、自宅で1人暮らしをしている認知症の高齢者や知的障害者の見守りから施設入所や入院の手続きの代行、死亡後に火葬された被後見人の遺骨の受け渡し、残された財産の遺族への引き渡しまでを一手に担う。
 「当事者や家族の意思にとことん寄り添おうとすれば、覚悟が必要」と山田事務局長。台風でも大雪でも雨戸を開けておくのが好きな独居の当事者の家にほぼ毎日通って雨戸を閉めたり、自宅で突然死した人がいれば、警察の実況見分に立ち会ったりする。残された遺産の相続を拒む親族を、1時間以上にわたり受け取ってもらえるよう説得したことも。「ボランティア感覚の市民後見人では到底無理」と話す。
 国学院大法科大学院の佐藤彰一教授は「促進法が求めている後見人の権限強化や制度拡充を検討する前に、当事者の意思をどのようにくみ取り、支援内容に反映させていくかの議論が先だ」と指摘している。

抗菌薬の重複処方7% 

2016年04月12日 11時00分49秒 | 医科・歯科・介護
京大が124万人レセプト調査

京都新聞 2016年4月11日

 抗生物質(抗菌薬)を複数の医療機関から重複処方されている患者の割合は、抗菌薬を処方された患者全体の7・4%であることが、京都大医学研究科の中山健夫教授と高橋由光講師らの調査で分かった。高橋講師は「医療機関同士の情報共有が不足しているのではないか。重複処方がすべて不適切とは言い切れないが、減らせる処方はあるはず」としている。
 不必要な薬剤使用の防止が課題となる中、薬剤全般の重複処方に関する大規模で包括的な研究は初めて。医療政策学の国際専門誌に発表した。
 研究グループは、各企業でつくる健康保険組合の加入者ら124万人のレセプト(診療報酬明細書)から、2012年12月の1カ月に加入者が外来で処方された全薬剤を分析した。結果、全身用抗菌薬やせき止め薬が、処方された薬の上位の二つを占め、重複処方されている割合もそれぞれ7・4%、8・5%と、上位二つであることを突き止めた。65歳以上では薬剤全体で重複処方の割合が低いことも分かった。
 転売目的の重複処方が問題となった向精神薬についても調査し、10医療機関以上から向精神薬を処方されている患者が2人いることが判明した。ただ、多数の医療機関から処方を受けた理由は分からないという。
 高橋講師は「抗菌薬やせき止め薬は医師が簡単に処方する傾向が推測できる」と指摘する。
 近年、安易な抗菌薬投与が耐性菌を生じさせるとして問題となっており、厚生労働省も今月、20年までに抗菌薬の使用を3分の2に減らす方針を打ち出している。

幻の「専門誌・紙記者列伝」

2016年04月12日 10時55分19秒 | 医科・歯科・介護
無頼派記者
沼田利根は、「専門誌・紙記者列伝」を書こうとしていた時期がある。
元学生運動の闘士
元暴走族
業界のダニとして忌み嫌われた記者
「オイ。ネタ出せ!」とお役人を脅かす記者も居たのだ。
昼間から酒も飲んでいた。
農林省の食堂には酒が置いてあいったのだ。
昼間から記者クラブで麻雀である。
サラ金に多額の借金をしてる者も居た。
彼らは鋭い記事も書いたが、荒んだ生活もしていたのだ。
女タラシもいた。
彼らは、競輪、競馬、競艇も好きであった。
飲めばその道の専門家のように語る。


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無頼派作家

坂口安吾(24年間働きに働いて48歳で死ぬ)、太宰治(実質13年で全集12巻分を残した)、織田作之助(約6年半で全集8巻分を残した)を中心に、石川淳、伊藤整、高見順、田中英光(約10年で全集11巻分を残した)、檀一雄などを指すことが多い。
さらに奥野健男によると、三好十郎、平林たい子を含ませることもある。太宰、織田らと交流があり無頼派に数えられることのある青山光二は晩年のインタビューで、太宰と織田を純然たる無頼派として言及し、長寿の檀一雄や自身については純然たる無頼派ではないと回答している[2]。

日本の近現代文学史上の潮流としての無頼派というより、広範な意味で無頼派と評される作家は、吉行淳之介、色川武大、中上健次、伊集院静らをはじめとして相当数存在する。

坂口安吾短編小説「二十七歳」

2016年04月12日 10時13分16秒 | 社会・文化・政治・経済
矢田津世子には妻子ある男が居た
訪ねてきた矢田から「桜」という同人雑誌への加入を請われる。
「同人になって、仲間になればあなたといつでも会えるから」安吾は舞い上がった。双方の母親が認め合う仲だった。
しかし、プラトニックラブに終わる。

二十七歳

1947(昭和22)年3月1日発行の『新潮』に発表。

 矢田津世子との恋愛に苦しみ抜いた安吾の心情。
それは、この作品の中では一人だけWという伏せ字になっている男と矢田津世子との関係について、感情的になっていることからも伺い知ることができる。

その照れ隠しというわけでもないのだろうが、実名のまま笑いものにしている人物と、Wという人物の対比が際だっている。
それは誰あろう、詩人で現在も多くのファンをもつ中原中也であるのだ。
いつも嘆いているとか、飲みながらもその後の行動を計算して、金を少しだけ残しておくだとか、酔っ払うとサルマタ一枚になるまで脱ぎまくる癖があるだとか、ファンの立場からしてみればこんなことを書く安吾というのは、とんでもない奴だと怒りたくもなるだろう。
しかし、中也ファンは、なぜ安吾が中也の名をそのまま書いたか、もう少し考えてみる必要がある。
安吾が匿名でなく実名で書いているのは、何らかの批判があっても真正面から対処する覚悟ができていたからだ。
実際、そうした批判について安吾は、弁明の文を書いている。(98.7.6)
「坂口安吾の東京を歩く」で昭和6年から11年までを巡ってみたいとおもいます。
この昭和初期は坂口安吾が新進作家として登場した時であり、その時代に彼の出会った人たちとの巡り合いを中心に、歩いてみたいとおもいます。

特にその中で坂口安吾が初めて惚れた女性が矢田津世子でした。
彼女に関しては、友人の大谷藤子が下記のように書いています。
「矢田津世子は、その生涯を書くために生き、そのためには結婚生活に入ろうとさえしなかつた。作品を書けるという生活を彼女ほど厳しく選び、愛した作家も稀れだといいたいほどである。自分はどういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくない、そのために萎縮する性質だからと彼女は語ったことがある」、坂口安吾との関係もこの文を読めば、納得しますね。
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件 27 3月 京都へ旅行
京橋のバー「ウインザア」の女給 坂本睦子と親しくなる
「ウインザア」で矢田津世子と出会う
8月 蒲田の家に矢田津世子が訪ねてくる
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退 28 1月 矢田津世子の自宅を訪ねる
5月 蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんと親しくなる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 29 酒場「ボヘミアン」のマダムお安さんとアパートで同棲
9月頃 大森区堤方町555の十二天アパートに転居
年末に檀一雄と「はせ川」であう

「この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二三分間、高か二筋の涙というものを、ながした。……つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあったが、矢田津世子も亦、そうであったと思う。」、坂口安吾が初めて本当に惚れた女性が矢田津世子でした。坂口安吾が初めて矢田津世子にあったのは「とにかく、私と英倫とほかに誰かとウインザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウインザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。」と書いています。このとき矢田津世子は偶然か、意識的か、蒲田区安方町の坂口安吾宅に訪ねたときに本を忘れます。「手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが……私は遊びに行った初めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされて寛いでいた。その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の初めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。」、やはり坂口安吾にとっては初恋の人だったようです。

<矢田津世子>
 明治40年6月15日、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。本名 矢田ツセ、麹町高女を大正13年に卒業後日本興業銀行に勤務、昭和2年名古屋に移り住み、「文学時代」の懸賞小説に「罠を飛び越える女」で当選、昭和11年発表の「神楽坂」は芥川賞候補になる。矢田昭和19年3月病死。

「はせ川」で坂口安吾は初めて檀一雄に会い、一生の友人になります。このほかにも坂口安吾は行きつけの店があり、「この同人が行きつけの酒場があった。ウインザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで…」、と書いています。この同人とは、牧野信一、河上徹太郎で、この酒場では矢田津世子や中原中也と知り合います。またこの中原中也と店の女給を争うことになります。この女給が坂本睦子です。坂本睦子はこのあとも河上徹太郎、大岡昇平などと浮名を流します。新潮の今月9月号に久世光彦が「女神」として坂本睦子の一生を書いています。

蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんのことだとおもわれます。坂口安吾はこの女性の良人の追跡をのがれるため、たびたび住むところを変えます。

矢田津世子が言った。「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」……そして、私は接吻した。矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。……「じゃア、さよなら」矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、「おやすみ」と軽く頭を下げた。それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。」このあと矢田津世子は昭和19年3月、病死します。

「意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。……翌日、それを速達でだした。街には雪がつもっていた。その日、昭和十一年二月二十六日。血なまぐさい二・二六事件の気配が、そのときはまだ、街には目立たず、街は静かな雪道だけであったような記憶がする。一しょに竹村書房へも手紙をだした。数日後、竹村書房へ行ってみると、その手紙が戒厳令司令部のケンエツを受けて、開封されているのだ。してみれば矢田さんへ当てた最後の手紙も開封されたに相違ない。むごたらしさに、しばらくは、やるせなかった。矢田さんからの返事はなかった。」とあります。矢田津世子と本郷菊富士ホテルであった翌日が2.26事件当日ですね、ひたひたと戦争の足音が忍び寄ってきています。

競輪愛好家 裏目に泣く

2016年04月12日 04時21分16秒 | 創作欄
宮坂寅之助を語る時、競輪仲間は彼の「悔しさ」を思い浮かべて、「裏目に泣く」男の皮肉な人生を自らにも重ねた。
「このレースこそ1-3で固い」と強気な宮坂が叫ぶように言う。
口が達者な宮坂はその根拠を述べる。
声も大きいので、説得力があるように思われるのだ。
「でも、もしもがあるよ。裏を返したら?」と荻野一郎がアドバイスをする。
「いや、裏はいらない。素人はそれだから儲けられない。固いレースはどこまでも固く収まるんだ。見ていろ!」
意を決して、宮坂は500万円を1-3の車券に投じた。
茨城県取手の田圃を切り売りして得た500万円であった。
昭和40年の後楽園競輪場は競輪ファンの熱気に包まれ、溢れかえっていた。
だが、本命の1番選手は勝負処の4コーナーで7番選手に外に張られて失速。
巻き返したものの2着をやっと確保し、1-3が3-1となってしまった。
1-3は380円、3-1は4320円の配当となる。
大本命の1番選手が2着になることは宮坂寅之助はじめ多くのファンの誰もが想定していなかったのだ。
彼は呆然としたまま座り込んで暫く立てずにいた。

なぜトーマス・マンは日記を焼却したのか?

2016年04月12日 02時48分44秒 | 医科・歯科・介護
トーマス・マン日記
1918-1921

マンは生前、幾たびか自らの「古い日記」を焼却炉で焼いている。
残されたのは1933-1955年までの日記と、1918年から1921年までの日記のみ。
奇跡的に「後世のために救われた」、第一次世界大戦期の貴重な4年の記録。

沼田利根は中学2年に担任教師に勧められ、日記を始めた。
その日記は、社会人になった4年間まで綴られた。
母親に日記を読まれた苦い経験から、日記を中断した。
それ以降は、「断片」として日々の想いなど綴る。
俳句、短歌、詩、創作などもノートに残していた。
それらの全てをゴミとして家族によって処分されてしまった。
特に惜しく思ったのは映画評論。
読書ノート類でもあった。
段ボール7個ほどであっただろうか。
さらに、友人、20代・独身の頃の恋人などからの手紙類も失われた。

思うに、なぜトーマス・マンは日記を焼却したのか?















numata727 さんが 2015年04月11日 に書かれた記事をお届けします

2016年04月11日 21時40分19秒 | 医科・歯科・介護
真に健康な人生

人間の本性に備わる少年のような無垢の心根「沈黙の春」を著したレイチェル・カーソンは、地球環境の汚染にいち早く警鐘を鳴らした。また、自然界に備わるワンダー(神秘や不思議)への驚きを綴った小品「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン著)では、自然への豊な感性を子どもたちが培い、終生それを失うことがなければ...
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ささいな口喧嘩

感情的になりやすい人は心が幼稚であり、修養が足りないのだ。なるほど、自分の欠点である。徹はつまらないことで彼女と口喧嘩をしてしまい、彼女の部屋から飛び出した。「どう言えば、分かってもらえるのかしら?」弾けるような笑顔が魅惑的な恭子は、険しい顔となっていた。午前12時を過ぎており終電は行ってしまった。酒屋の店頭...
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ジャーナリスト殺害 メキシコでは過去100人以上

国際ペンは、日本のジャーナリスト、後藤健二氏(42)が、「イラクとシリアのイスラム国」(ISIS)と称する反乱グループによって殺害されたことに衝撃を受けている。グループは、経験豊かな戦場ジャーナリストで作家の後藤氏を斬首するビデオを公開した。後藤氏は、ISISに捕えられていた治安コンサルタントの湯川遥菜氏の安...
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私が子ども時代に出会った本

お知らせ・活動報告 講演会「私が子ども時代に出会った本―下重暁子、森絵都、片川優子」4月25日開催 於:国立国会図書館共催:一般社団法人日本ペンクラブ、国立国会図書館国際子ども図書館日時:2015年4月25日(土)14時〜16時(予定)(13時30分開場) 講師:下重暁子氏、森絵都氏、片川優子氏(作家) 場所...
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日本医療研究開発機構

世界水準の医療を実現できるのか?日本医療研究開発機構ゼロからの新しい発想で組織を作り、患者サイドに届ける成果を最大化、最速化する。日本の医療の研究開発の進め方を変えるような難題に挑む。平成25年12月内閣官房健康・医療戦略室https://nk.jiho.jp/servlet/nk/release/pdf/1...

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期待される人ほど、その通りの成果を出せる

★人の為に生きるのが最も生きがいある人生−アイシュタイン★語学力も大切であるが、幅広い教養や論理的思考力を兼ね備えた人材を育む。★他者と協力し、団結していければ、その相乗効果は大きい。★期待される人ほど、その通りの成果を出せる。期待し、そして励ましは、一人一人に内在する限りない可能性を引き出すこである。★人生...
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寛大さや柔軟さ 健康や寿命に寄与

より主体的に人とのつながりを持っている人のほうが長生きする傾向にある。人とのつながりが大切なのは、自分が助けられる以上に、自分が誰かを助け、役立つことが愛着の安定や生きる力につながるからだ。アルツハイマー病や認知機能の低下には、孤独が深く関わっていることが多くの研究者が指摘している通り、人との関わりは私たちが...
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△▼厚生労働省▼△ ・平成28年4月8日付大臣会見概要

2016年04月11日 21時36分54秒 | 医科・歯科・介護
△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      04月11日 10時 以降掲載

○ 大臣会見等

・平成28年4月8日付大臣会見概要
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220663

○ 報道発表

・医薬品成分を含有する健康食品の発見について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220665

・女性の活躍促進に向けた配偶者手当の在り方に関する検討会報告書を取りまとめました
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220667

・第170回労働政策審議会雇用均等分科会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220669

○ 政策分野

・看護師の特定行為研修に関する説明会
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220671

・感染症・予防接種相談窓口
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220673

・ストレスチェック等の職場におけるメンタルヘルス対策・過重労働対策等
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220675

○ 審議会等

・第129回労働政策審議会労働条件分科会
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220677

・第2回食品衛生管理の国際標準化に関する検討会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220679

・薬事・食品衛生審議会 医薬品第二部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220681

・第4回介護のシゴト魅力向上懇談会について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220683

・柔道整復師学校養成施設カリキュラム等改善検討会(第2回) 議事録(2015年12月11日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220685

・第170回労働政策審議会雇用均等分科会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220687

・審議会、研究会等予定
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220689

・第18回社会保障審議会介護給付費分科会介護事業経営調査委員会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220691

○ その他

・フォトレポート(平成28年度入省式の訓示のなかで『すべての人が輝く社会』の構築に全力で取組むことを強く伝える二川事務次官)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220693














「医療機器関連通知」が発出

2016年04月11日 21時33分22秒 | 医科・歯科・介護
┏━━━━━━━━━━━【PMDAメディナビ】━━━━━━━━━━━┓

「医療機器関連通知」発出のお知らせ (2016/04/11 配信)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

「医療機器関連通知」が発出されましたのでお知らせいたします。

(2016年4月8日付)
「電波環境協議会による「医療機関において安心・安全に電波を利用するための手引き」について」
http://www.pmda.go.jp/files/000211546.pdf

今般、電波環境協議会により、「医療機関において安心・安全に電波を利用するための手引き」
(以下「手引き」という。)がとりまとめられ、その周知を通知するものです。
なお、手引きは、以下の電波環境協議会ホームページから入手可能です。
http://www.emcc-info.net/info/info280404.html

医療機器関連通知は当機構ウェブサイト
http://www.pmda.go.jp/safety/info-services/devices/0001.html でご覧いただけます。




┏━━━━━━━━━【PMDAメディナビ】━━━━━━━━━┓

「独立行政法人医薬品医療機器総合機構法施行規則の一部を
  改正する省令の施行について」のご案内
                      (2016/04/11配信)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

日頃よりPMDAの業務にご理解、ご協力いただきありがとうございます。

医薬品副作用被害救済制度に基づく給付については、厚生労働大臣による
医学・薬学的判定に基づいて給付の支給の可否を決定します。
この決定に対して不服がある請求者は、厚生労働大臣に対して審査を
申し立てることができます。平成28年4月1日より、審査の申し立ての期間が、
支給の決定があった日の翌日から三月以内となりました(従来の二月から
延長)ので、ご案内いたします。

引き続き、医療関係者の皆様におかれましては、対象者の方の請求に際しては、
診断書等の作成についてご協力をお願いいたします。

詳細については、下記のアドレスからご覧いただけます。
○医薬品副作用被害救済制度に関する業務 
http://www.pmda.go.jp/relief-services/adr-sufferers/0001.html
○生物由来製品感染等被害救済制度に関する業務
http://www.pmda.go.jp/relief-services/infections/0001.html

また、医薬品副作用被害救済制度について特設サイトを設けておりますので、
ご案内いたします。
●医薬品副作用被害救済制度の特設サイトはこちら
→ http://www.pmda.go.jp/kenkouhigai_camp/index.html














numata727 さんが 2015年04月10日 に書かれた記事をお届けします

2016年04月11日 21時14分57秒 | 医科・歯科・介護
仏道修行

沼田利根は大学頃、友人の座禅に疑念を抱いた。「沼田君、君は何分座禅をしたのかね?」「15分です」「15分?!そんなの座禅のうちに入らんぞ! おれは1時間座禅をした。最低1時間は座禅をしろよ」別の先輩は座禅を3時間である。さらに、先輩は滝に打たれる修行もしていた。その時間も1時間である。仏道修行はある種の快感を...
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私、大正ロマンに憧れるのよね)

有希子は「私、大正ロマンに憧れるのよね」と言った。日本酒好きの有希子は酔うとロレツが回らくなり、幼児言葉となった。「私、どうしまちょう」と目が定まりなくなり、徹に身を寄せた。「送っていくから、ゆきちゃん、ちゃんと歩くね」だが有希子は「もう、むりでちゅ」となおも身を寄せてくるのだ。突然、編集長が結核で入院して、...
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年上の有希子



白と黒赤と黒有希子の服装は常にそのツートンカラーで統一されていた。彼女の個性なのか自己主張の表れなのか?と徹は想ってみた。そして髪型は、彼女が憧れていたヘップバーンスタイルであった。「ゆきさんは、長い髪の方が似合うと思うけど」と徹は言ってみた。「音大時代は長く伸ばしていたのよ。でも、今はこれね」有希子は鏡を見...
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強まる「同調圧力」。メディアは加担していないか

2016年04月11日 21時06分49秒 | 社会・文化・政治・経済
クロ現元キャスター、国谷裕子さん
あの菅官房長官インタビューを語る
―こだわってきた「問いを出し続けること―


BuzzFeed NEWS 2016年4月8日
石戸諭 BuzzFeed News Reporter

■強まる「同調圧力」。メディアは加担していないか。
NHKクローズアップ現代の元キャスターで、先月降板したばかりの国谷裕子さんが論壇誌「世界」5月号に寄稿し、23年間のキャスター生活を振り返った。
タイトルは「インタビューという仕事」。
その中で、国谷さんは少数派や異質なものを排除しようとする「同調圧力が強くなってきている気がする。流れに逆らうことなく多数に同調しなさい、同調するのが当たり前だ、といった圧力。そのなかで、メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか」と書く。
国谷さんがこだわってきたのは「言葉の持つ力」。インタビューという仕事だった。キャスターとして「最初に抱いた疑問を最後まで持ち続け、視聴者の思いを掬い取り、納得がいくように伝えるということが大事だ」という。
■問いを発する理由 フェアなインタビューとは何か。
例示されたのが、集団的自衛権の部分的行使を可能したことについて、菅義偉官房長官に問うたインタビューだ。この放送は菅長官周辺から抗議があり、降板の伏線になったのでは、という声もあがったいわくつきのインタビューだ。
時間は14分弱。大筋は、ホームページで確認できるが、カットされた部分がある。
国谷さんが番組の最後、残り30秒を切った時、「しつこく」問いを発した箇所だ。
国谷さん「しかし、そもそも解釈を変更したということに対する原則の部分での違和感や不安はどうやって払拭していくのか」
菅官房長官が答えようとした時に、番組は終わった。時間も少ないのに、なぜ問うのか。
「日本では、政治家、企業経営者など説明責任のある人たちに対してでさえ、インタビューでは、深追いはしない、相手があまり話したがらないことは、しつこく追及しないのが礼儀といった雰囲気がまだ残っている。(中略)批判的な内容を挙げてのインタビューは、その批判そのものが聞き手の自身の意見だとみなされてしまい、番組は公平性を欠いているとの指摘もたびたび受ける」。
こうした批判を受けてもなお、必要なフェアなインタビューとは何か。国谷さんはこう書く。
「聞くべきことはきちんと角度を変えて繰り返し聞く、とりわけ批判的な側面からインタビューをし、そのことによって事実を浮かび上がらせる、それがフェアなインタビューではないだろうか」
■「問いを出し続けること」
だからこそ、クローズアップ現代では、NHK批判の声も避けなかった。2014年3月、国谷さんは駐日米大使、キャロライン・ケネディさんへのインタビューでこう語った。「日本とアメリカの関係は、安倍政権の一員、それにNHKの経営委員や会長の発言によって影響を受けていると言わざるを得ません」。
キャスターとは何か、国谷さんの言葉は核心へと向かう。
「(キャスターの仕事とは)問いを出し続けることであったように思う。それはインタビューの相手にだけでなく視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあったような気がしている」。

クロ現元キャスター、国谷裕子さん
あの菅官房長官インタビューを語る
―こだわってきた「問いを出し続けること―


BuzzFeed NEWS 2016年4月8日
石戸諭 BuzzFeed News Reporter

■強まる「同調圧力」。メディアは加担していないか。
NHKクローズアップ現代の元キャスターで、先月降板したばかりの国谷裕子さんが論壇誌「世界」5月号に寄稿し、23年間のキャスター生活を振り返った。
タイトルは「インタビューという仕事」。
その中で、国谷さんは少数派や異質なものを排除しようとする「同調圧力が強くなってきている気がする。流れに逆らうことなく多数に同調しなさい、同調するのが当たり前だ、といった圧力。そのなかで、メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか」と書く。
国谷さんがこだわってきたのは「言葉の持つ力」。インタビューという仕事だった。キャスターとして「最初に抱いた疑問を最後まで持ち続け、視聴者の思いを掬い取り、納得がいくように伝えるということが大事だ」という。
■問いを発する理由 フェアなインタビューとは何か。
例示されたのが、集団的自衛権の部分的行使を可能したことについて、菅義偉官房長官に問うたインタビューだ。この放送は菅長官周辺から抗議があり、降板の伏線になったのでは、という声もあがったいわくつきのインタビューだ。
時間は14分弱。大筋は、ホームページで確認できるが、カットされた部分がある。
国谷さんが番組の最後、残り30秒を切った時、「しつこく」問いを発した箇所だ。
国谷さん「しかし、そもそも解釈を変更したということに対する原則の部分での違和感や不安はどうやって払拭していくのか」
菅官房長官が答えようとした時に、番組は終わった。時間も少ないのに、なぜ問うのか。
「日本では、政治家、企業経営者など説明責任のある人たちに対してでさえ、インタビューでは、深追いはしない、相手があまり話したがらないことは、しつこく追及しないのが礼儀といった雰囲気がまだ残っている。(中略)批判的な内容を挙げてのインタビューは、その批判そのものが聞き手の自身の意見だとみなされてしまい、番組は公平性を欠いているとの指摘もたびたび受ける」。
こうした批判を受けてもなお、必要なフェアなインタビューとは何か。国谷さんはこう書く。
「聞くべきことはきちんと角度を変えて繰り返し聞く、とりわけ批判的な側面からインタビューをし、そのことによって事実を浮かび上がらせる、それがフェアなインタビューではないだろうか」
■「問いを出し続けること」
だからこそ、クローズアップ現代では、NHK批判の声も避けなかった。2014年3月、国谷さんは駐日米大使、キャロライン・ケネディさんへのインタビューでこう語った。「日本とアメリカの関係は、安倍政権の一員、それにNHKの経営委員や会長の発言によって影響を受けていると言わざるを得ません」。
キャスターとは何か、国谷さんの言葉は核心へと向かう。
「(キャスターの仕事とは)問いを出し続けることであったように思う。それはインタビューの相手にだけでなく視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあったような気がしている」。
















五色の虹

2016年04月11日 06時00分10秒 | 社会・文化・政治・経済
1938年、日本の関東軍が主導した傀儡国家・満州国(現在の中国東北部)で、国家指導者を養成するための最高学府「建国大学」が創設。
日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族から、えりすぐりの学生が集まった。
しかし、第2次世界大戦の敗戦とともに開学後わずか8年で閉学に。
戦後70年を経た昨年、足掛け4年、5か国にわたる朝日新聞の取材で同大学出身者たちの軌跡を追ったドキュメンタリーが第13回開高健ノンフィクション賞に選ばれ、「五色の虹」(集英社)として上梓。
満州国の実態は、日本人による他民族支配だった。
「建国大学」も、日本の軍国主義が産んだ未完成の教育機関であったと言わざるを得ない。
敗戦後、大学は必然的に崩壊し、出身者の多くは辛い経験を味わった。
しかし、この大学は、日本が初めて独自に創設した「国際大学」であったことも事実。
大学は「五族協和」の“成果”を国際社会にアピールする「実験場」であり、「広告塔」の役割を担っていた。
キャンパス内では「言論の自由」が保障されていた。
戦時下の日本国内における言論統制を思えば、これは驚くべきことだった。
大学は全寮制で、寝食を共にする学生たちが毎晩のように「座談会」を開いていた。
現在の日本人と比べても、彼らは、はるかに国際的だった。
国際社会で生き残るには異民族との交流が不可欠である、と。
その意味で、建国大学出身者たちは、極めて現実的な思考の持ち主だったと思われる。
卒業生の一人は「衝突を恐れるな」「知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ」と語った。
傷つくことを恐れない勇気。
意見の違いを認めつつ相手を受け入れる度量。
そうした人間としての器の大きさは、彼らの“特長”であるように感じた。
戦後70年にわたって途絶えることがなかった同窓生たちの交流は特筆に値する。
彼らの友情は、国交が断絶している国同士でも継続。
特殊なルートで連絡先をたどり、物心ともに支え合いあった。
なぜなら、多感な青年期の大部分を共有し合った絆があったからだ。
若者同士が対等な立場で生活を送れば民族の間の優劣の差などないことは簡単に見抜いてしまう。
建国大学同窓生の国境を超える交流は、国際教育の在り方を考える上で示唆を含んでいる。
著者の三浦英之さんは、1974年、神奈川県生まれ、京都大学大学院修了後、朝日新聞社に入社。
東京社会部、新潟総局、東日本大震災直後の南三陸駐在を経て現在、アフリカ特派員(南アフリカ・ヨハネスブルク支局長)。


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以下は人様のブログからの引用である。
多くのことを教えられた。
『五色の虹』の筆者三浦英之は朝日新聞記者。2010年から翌年にかけて「建国大学」に関する取材にとりくみ、一部は夕刊紙に連載されたとのことである。
 2011年の東日本大震災の取材、その後の米国留学などの間に原稿をまとめ、建国大学同窓会の人々の協力による裏づけを得たのち、出版を決意したという。

インタビューに応じてくれた人々が高齢であることからの「曖昧さ」、あるいはその人が暮らす国の政治状況に対する配慮から、一時は本にすることを断念しようとも考えたとのことだが、かえって建国大学卒業生の人々から背中を押してもらったという。開高健ノンフィクション賞に応募し、受賞したことで書籍化への道が開けたという。
 出版は昨年の12月。
私は東京新聞の書評で知り、5日に外出した際にジュンク堂で購入した。
上記のことから、いつかもっと詳しいことを知りたいと思っていたのだった。
 本を買って帰ると、まずパラパラと拾い読みをしてみる。
そうして読む順番を決める。今すぐに必要な情報が得られそうか、少し腰を落ち着けて読んだ方がよさそうか、などのあたりを付けるのである。
 読み出したら止まらなくなる本というものがある。
他に読みかけの本もあったのだが、こちらを優先させることにした。7日には読み終わった。力作だと思った。よくぞ書いたと思った。



 「建国大学」は満州国の崩壊とともに歴史の闇へと姿を消した。開校して8年弱という歴史の乏しさもあり、大学の資料はほとんど残っていないという。というより、敗戦と同時に焼却されてしまった資料も多いことだろう。
 戦後に卒業生たちがたどった運命もまちまちである。「建国大学」の卒業生・在学生であったことを伏せなければ生き延びられなかった時代を過ごした人も多いようだ。だが、卒業生同士の連帯感は強く、お互いに連絡を取り合いながら名簿などは整理されてきたらしい。「満州建国大学卒業生たちの戦後」というサブタイトルのとおり、各国に散らばった卒業生を訪ね歩いてのインタビューを骨格にしている。卒業生の人々にしてみれば、「今、話しておかなければ」という気持ちがあったのではないか? その語り口をみると「これが最後になるかも知れない」という心情がひしひしと伝わって来る。



 三浦が書く通り、建国大学は「日本の帝国主義が生み出した未熟で未完成な教育機関」であったことは間違いないだろう。当初に掲げた「五族協和」の理念も開校数年後には神道や天皇崇拝の強制がはじまり、植民地下における支配と被支配という、そもそもの矛盾を覆い隠せるものであり得るはずもなかった。
 それでも、学費・学寮生活費は免除、他に官費で月5円を支給、言論の自由は完全に保障されるというばかりでなく、むしろ学生たちのみによる宿舎ごとの討論会が奨励される、図書館ではマルクス主義の文献や孫文の著作も自由に閲覧できるという、きわめて実験的な教育方針には興味をそそられる。貧家に育ったために進学を断念せざるを得なかった秀才たちが、その建学精神に呼応して(そうでなくともそれぞれの志を抱いて)きそって受験したため、「建国大学」は超難関校となったというのはあながち嘘ではないだろう。「建国大学」一期生は全部で150人、うち日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、ロシア人5人、台湾人3人であるという。受験生は約1万人であったとのことだ。(ついでにここで書いておくと、入学後は宿舎内も同一の民族ばかりにならないようにし、床をとる順番も互い違いになるよう規則が定められていたという。)



 「建国大学」の発案者は石原莞爾であるとのことだが、その石原はそのあり方について①建国精神、民族協和を中心とすること、②日本の既成の大学の真似をしないこと、の他に、③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること、④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること、といった意見を述べたという。
 これらがその通りに実現されたわけではないが、⑤にしたがって先述のトロツキー招聘も構想されたし、実際に1919年に朝鮮で起こった「三・一独立運動」で「独立宣言書」を起草した崔南善が教授として採用された。その崔南善にひかれて「建国大学」に二期生として入学した姜英勲氏は後に韓国首相となり、南北初の首相会談を実現させた人物である。
 「建国大学」に通っていた非日系の学生の多くは、戦後「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府・民間から厳しい糾弾や弾圧を受けた。
 ただ韓国のみが母国にもどった彼らを「スーパーエリート」として国家の中枢に組み込もうとした。それは語学力や国際感覚に優れていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからだ、というのには考えさせられてしまうが、韓国が置かれた歴史的地位を思えば納得せざるを得ないのかも知れない。
 姜英勲氏は陸軍中将として士官学校校長にまで昇り詰めたが、その姜氏をもってして、朴正煕のクーデターを批判したために4ヶ月の投獄ののち、アメリカへの亡命同然の生活を送らざるを得ないほど、卒業生たちの人生は順調ではなかった。姜氏が首相として招聘されるのは士官学校時代の教え子である盧泰愚が大統領に就任したときである。



 大連で取材にのぞんだ一期生の楊増志氏は、在学中に反満抗日運動のリーダーとして地下活動中に検挙されたという人物であるが、中国当局からマークされていたらしく、インタビュー中に長春包囲戦に話題が及んだとき、突然取材が中止された。長春で取材の約束をとりつけていた七期生の谷学謙氏は幾多の変転の上、中国教育界の重鎮の地位を占めるにいたった人物であり、中国での取材ビザの申請にも尽力があったということだが、どのような力が働いたのか、直前になってキャンセルされた。
 三期生のモンゴル人学生であったダシニャム氏は満州国軍司令官であったウルジン将軍の息子である。そのウルジン将軍の名誉回復がなされたのは1992年になってのことだという。今はカザフスタンのアルマトイで暮らすスミルノフ氏もロシア革命から逃れてきた白系ロシア人の末裔として、他の人々とはまた違った苦難の人生を歩んできた人物である。



 こうして内容を紹介していると、とりとめもなくなってしまう。日本人卒業生については端折ってしまったが、収録されている在学中の日誌を読むと、政府が掲げる建学の理想と現実との矛盾に直面せざるを得なかった日本人学生の心の葛藤を知ることが出来る。また、卒業生のつながりが国境を越えたものであることも知ることが出来る。
 最後に台北に住む一期生の李水清氏のことを紹介して終わりにしよう。頭脳の明晰さから「台湾の怪物」と呼ばれたとのことだ。その李氏が三浦から楊増志氏のことを伝え聞いたとき、大声で笑い出し、次のように語ったというのである。

 「いや、なに、君はまったく心配しなくていいんだよ」(彼は)「格好いいところを見せたかったんだよ」「君だけにじゃない。君の背後にいるたくさんの同期生たちににね。俺は共産党政府なんぞには屈していないぞ、楊増志、未だ反骨精神ここにありってね。」「逮捕されては釈放され、釈放されてはまた逮捕される。その連続こそが彼の人生そのものだったんだ。でも誰も--少なくとも元建国大生は--彼を絶対に軽蔑しない。彼は凄い男なんだよ。」



 「建国大学」は日本の傀儡国家であった満州国の支配のために作られた国策大学であり、「当初の崇高な理念は物理的な閉学を待たずにすでに崩壊して」いたことには、いささかの留保を加える必要もないことは明らかだろう。しかし、そこで青春を過ごした者同士に生まれた絆と信頼が、地理的な壁、時間的な壁を越えて強固に結ばれていたことも信じていいように思ったのである。



三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社(2015.12)

※一度アップした後も書き足りない気持ちでいっぱいだ。
それは一人一人の人生についての紹介はこんなものではとうてい足りないという思いに近い。
「建国大学」はいうなれば負の遺産である。
そうであるから、忘れたふりをしたり、否認したりもしたくなるだろう。
しかし、そこにも否認し得ない人間の営みがあり、喜び悲しみの人生があった。
そして、白系ロシア人スミルノフをして「古い友人がはるばる遠くの国から私を訪ねてきてくれた。
…神よ、あなたは私に最高の人生を与えてくれた」といわしめている。それもこれも、今、書きとめておかなければ、いずれは消えてしまう。
若きジャーナリストである三浦英之が一冊の書物としてこれらの一人一人の人生を書き残してくれたことに心から敬意を表したい。