米フラミングハムで起きていること
毎日新聞 2016年4月12日
『ボストン発 ウェルエイジング実践術』
■大西睦子 / 内科医
今年2月、世界で最も権威のある医学雑誌の一つ「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)」に、ボストン大学医学部(BUSM)のスドゥハ•セスハドゥリ教授らによる一編の論文が掲載されました。内容は、米国マサチューセッツ州にあるフラミングハムという街で、30年以上にわたる調査の結果 、認知症の発症率が減っているという報告です。認知症患者の増加は、日米をはじめ世界中で問題になっています。いったい、この街で何が起こったのでしょうか? 今回は、この論文の中身をご紹介しながら、認知症の予防について考えてみましょう。
参考URL:http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1504327
■30年以上にわたり認知症発症率と関連因子を追究
セスハドゥリ博士らは、まず「フラミングハム心臓研究」と呼ばれる疫学研究に、1975年から参加している60歳以上の5205人を対象に、認知症の発症率を調査しました。そして認知症の発症頻度を、四つの期間にわけて計算しました。同時に同じ人たちの教育レベル、喫煙習慣、血圧、糖尿病、高血圧や脂質異常症の既往歴なども調査しています。
結果、調査期間に371人が認知症を発症しました。臨床的にアルツハイマー型認知症は264人、脳血管性認知症が84人と診断されました。各期間の認知症の発症率は以下のようになりました。
グループ1:77〜83年:3.6%
グループ2:86〜91年:2.8%
グループ3:92〜98年:2.2%
グループ4:2004〜08年:2.0%
認知症の発症率をグループ1と2〜4の三つのグループで比較すると、22%、38%そして44%も減少しています。また認知症の平均発症年齢は、70年代後半には80歳でしたが、最近は85歳に上がっています。つまり病気の罹患(りかん)期間が短くなっているということです。アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症ともに減少していますが、アルツハイマー型認知症では有意差はありませんでした。
心血管疾患のリスクを下げる生活が認知症も減らす
認知症発症率の低下は、心臓血管系の健康状態の良さや、心筋梗塞(こうそく)など心血管疾患(CVD) のリスク因子(喫煙習慣、高血圧、高LDLコレステロール血症)の低下に比例していました。例えば、グループ1に比べて、グループ4では、高血圧の治療をしている人が33%から62%に増加、喫煙は20%から6%に低下、脂質異常症の治療をしている人が0%から43%に増加しています。実際、この30年間で心臓病の発症率は低下しました。残念ながら今回の研究で、認知症発症率を低下させた因子は完全にはわかりませんでしたが、心臓病の早期診断や効果的な治療は、脳血管性認知症の発症率を下げる可能性があります。心臓によいことは、脳にもよく、フラミングハムではCVDのリスク因子を減らす生活習慣が定着し、住民の心臓血管系が健康になったため、認知症(少なくとも脳血管性認知症)が減った可能性が考えられます。
セスハドゥリ教授は、BUSMのインタビューに対して「現在、認知症に有効な予防や治療法がありません。ところが、私たちの研究は、認知症のいくつかの例は、予防や、少なくとも発症を遅らせる可能性があること示しました」と言っています。
参考URL:http://www.bumc.bu.edu/busm/2016/02/10/incidence-of-dementia-may-be-declining/
また、高等教育以上の教育を受けた人で、認知症の発症率が大幅に減少していました。高校を卒業していない対象者は、グループ1〜4の間を通じて認知症発症率の低下は見られませんでした。これは教育と社会経済的地位が、認知症の発症に関与することを示唆しています。
■疫学研究の街、フラミングハムとは
「フラミングハム心臓研究」は、48年に開始された実に約70年も続く世界的に有名な疫学研究です。フラミングハムは、ボストンから車で20分くらいの距離にあります。私も何度か訪れたことはありますが、白人の中流階級が住んでいるアメリカによくあるタイプの街です。街の人口は6万8000人、面積は68.5平方kmほど。特にメジャーな産業はなく、ショッピングセンターや小売業が街の主なビジネスです。多くの住民は、ボストンやその周辺で働いているため、ボストンのベッドタウンとして知られています。
なぜこの、一見ありふれた街でこのような疫学研究が始まったのか。「フラミングハム心臓研究」のホームページを参考に、その歴史を少し振り返ってみましょう。
参考URL:https://www.framinghamheartstudy.org/about-fhs/index.php
第二次世界大戦以前、公衆衛生の問題とはすなわち感染症との闘いでした。30〜50年代にかけて、結核や肺炎球菌性肺炎などさまざまな感染症がコントロールできるようになりました。特に42年、抗生物質ペニシリンが導入され、感染症治療が劇的に改善しました。また衛生設備の改善で下痢性疾患が減りました。
ところが40〜50年代、感染症の惨劇は心血管疾患 の流行に置き換えられてしまいます。特に第二次世界大戦後はCVDが激増し、50年までに米国の全男性3人に1人は、60歳に達する前にCVDを発症しました。
ただし当時の治療に重点をおいた基礎実験や臨床研究では、CVDの原因究明ができませんでした。そんな時、予防的なアプローチでCVDの発症を遅らせることができる、という仮説が考えられたのです。それを受け、米国政府、マサチューセッツ州とハーバード大学の共同で、大規模な心臓病の疫学研究がフラミングハムで開始されたのです。
でも、なぜフラミングハムだったのでしょうか?
疫学研究は、さまざまな地域、人種や社会経済的な因子を含めた人の集団で行うことが理想的です。ところが48年当時のフラミングハムも今と同様、中流階級の白人の街でした。ただし長期疫学調査を行うという点では、フラミングハムは非常に適していたのです。理由は「街のサイズが研究に適していて、住民の生活が安定しているため長期的な調査がしやすい▽街の医師や医療専門家が非常に協力的▽住民リストがあり、保健局が死亡診断書の情報やその他の重要な統計を提供できる▽30年近く前に結核の住民参加によるコミュニティー研究を行い、成功した実績がある▽住民の中に研究への協力の精神はまだ存在していた」などが挙げられています。
■小さな街一つの研究成果が、全米の健康に貢献
中流階級の白人の街、フラミングハムの対象者には、確かに偏りがあります。ところが実際、フラミングハム心臓研究のおかげで、CVDの リスク因子が明らかになり、米国では60年代半ばから心臓病が減り始めました。米国立衛生研究所(NIH)によると、70年から05年の間に、米国人の平均寿命は6.6年も延びており、そのうちの4.7年間(70%)は、心血管疾患による死亡の減少によるものです。
参考URL:https://report.nih.gov/nihfactsheets/ViewFactSheet.aspx?csid=96
フラミングハムと同様に喫煙率が低下し、心臓血管系の健康管理が住民に浸透したことで、国、世界レベルの傾向に反して認知症が減っている、という小さな地域は、先進国ならところどころにあるのではないかと思います。しかし、この研究の大きな意義は、その仮説を約30年分にわたる明確なデータで示したところです。98年にはフラミングハム心臓研究が50周年を迎え、「フラミングハム、アメリカの心臓を救った街!」と称賛されました。BUSMは、今回の論文の成果は「フラミングハム、アメリカの脳の健康を救った街!」と言うに値する名誉だとしています。
確かに今回の結果から、全米の認知症発症率の減少につながる可能性はあります。ただし注意しなければならないのは、発症率が減っても、46〜64年生まれのベビーブーマー世代の高齢化が進むため、認知症患者全体の数は増え続けることです。
また認知症発症率低下の傾向が逆転してしまう可能性もあります。なぜなら心臓病のリスクとなる糖尿病や肥満はフラミングハムでも増加し続けているためです。今回の研究でもグループ1に比べてグループ4では、糖尿病の患者は10%から17%に増え、平均の体格指数(BMI)も26から28に上昇しています。このことは将来、認知症の傾向にも影響するでしょう。
そして今回の研究では、アルツハイマー型認知症のリスクに影響する食事や運動に関するデータは含まれていませんでした。今後の調査が期待されますね。いずれにしても、今回の研究成果はライフスタイルの改善や生活習慣病の予防・治療が認知症の予防につながる、ということが30年以上もの長期観察で明確に示されました。私たち個々人の中長期的なライフスタイルの設計にも、とても参考になるのではないでしょうか。
大西睦子:
内科医師、米国ボストン在住、医学博士。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部付属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月より、ボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。08年4月から13年12月末まで、ハーバード大学で、肥満や老化などに関する研究に従事。ハーバード大学学部長賞を2度授与。現在、星槎グループ医療・教育未来創生研究所ボストン支部の研究員として、日米共同研究を進めている。著書に、「カロリーゼロにだまされるな――本当は怖い人工甘味料の裏側」(ダイヤモンド社)、「『カロリーゼロ』はかえって太る!」(講談社+α新書)、「健康でいたければ『それ』は食べるな」(朝日新聞出版)。
毎日新聞 2016年4月12日
『ボストン発 ウェルエイジング実践術』
■大西睦子 / 内科医
今年2月、世界で最も権威のある医学雑誌の一つ「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)」に、ボストン大学医学部(BUSM)のスドゥハ•セスハドゥリ教授らによる一編の論文が掲載されました。内容は、米国マサチューセッツ州にあるフラミングハムという街で、30年以上にわたる調査の結果 、認知症の発症率が減っているという報告です。認知症患者の増加は、日米をはじめ世界中で問題になっています。いったい、この街で何が起こったのでしょうか? 今回は、この論文の中身をご紹介しながら、認知症の予防について考えてみましょう。
参考URL:http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1504327
■30年以上にわたり認知症発症率と関連因子を追究
セスハドゥリ博士らは、まず「フラミングハム心臓研究」と呼ばれる疫学研究に、1975年から参加している60歳以上の5205人を対象に、認知症の発症率を調査しました。そして認知症の発症頻度を、四つの期間にわけて計算しました。同時に同じ人たちの教育レベル、喫煙習慣、血圧、糖尿病、高血圧や脂質異常症の既往歴なども調査しています。
結果、調査期間に371人が認知症を発症しました。臨床的にアルツハイマー型認知症は264人、脳血管性認知症が84人と診断されました。各期間の認知症の発症率は以下のようになりました。
グループ1:77〜83年:3.6%
グループ2:86〜91年:2.8%
グループ3:92〜98年:2.2%
グループ4:2004〜08年:2.0%
認知症の発症率をグループ1と2〜4の三つのグループで比較すると、22%、38%そして44%も減少しています。また認知症の平均発症年齢は、70年代後半には80歳でしたが、最近は85歳に上がっています。つまり病気の罹患(りかん)期間が短くなっているということです。アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症ともに減少していますが、アルツハイマー型認知症では有意差はありませんでした。
心血管疾患のリスクを下げる生活が認知症も減らす
認知症発症率の低下は、心臓血管系の健康状態の良さや、心筋梗塞(こうそく)など心血管疾患(CVD) のリスク因子(喫煙習慣、高血圧、高LDLコレステロール血症)の低下に比例していました。例えば、グループ1に比べて、グループ4では、高血圧の治療をしている人が33%から62%に増加、喫煙は20%から6%に低下、脂質異常症の治療をしている人が0%から43%に増加しています。実際、この30年間で心臓病の発症率は低下しました。残念ながら今回の研究で、認知症発症率を低下させた因子は完全にはわかりませんでしたが、心臓病の早期診断や効果的な治療は、脳血管性認知症の発症率を下げる可能性があります。心臓によいことは、脳にもよく、フラミングハムではCVDのリスク因子を減らす生活習慣が定着し、住民の心臓血管系が健康になったため、認知症(少なくとも脳血管性認知症)が減った可能性が考えられます。
セスハドゥリ教授は、BUSMのインタビューに対して「現在、認知症に有効な予防や治療法がありません。ところが、私たちの研究は、認知症のいくつかの例は、予防や、少なくとも発症を遅らせる可能性があること示しました」と言っています。
参考URL:http://www.bumc.bu.edu/busm/2016/02/10/incidence-of-dementia-may-be-declining/
また、高等教育以上の教育を受けた人で、認知症の発症率が大幅に減少していました。高校を卒業していない対象者は、グループ1〜4の間を通じて認知症発症率の低下は見られませんでした。これは教育と社会経済的地位が、認知症の発症に関与することを示唆しています。
■疫学研究の街、フラミングハムとは
「フラミングハム心臓研究」は、48年に開始された実に約70年も続く世界的に有名な疫学研究です。フラミングハムは、ボストンから車で20分くらいの距離にあります。私も何度か訪れたことはありますが、白人の中流階級が住んでいるアメリカによくあるタイプの街です。街の人口は6万8000人、面積は68.5平方kmほど。特にメジャーな産業はなく、ショッピングセンターや小売業が街の主なビジネスです。多くの住民は、ボストンやその周辺で働いているため、ボストンのベッドタウンとして知られています。
なぜこの、一見ありふれた街でこのような疫学研究が始まったのか。「フラミングハム心臓研究」のホームページを参考に、その歴史を少し振り返ってみましょう。
参考URL:https://www.framinghamheartstudy.org/about-fhs/index.php
第二次世界大戦以前、公衆衛生の問題とはすなわち感染症との闘いでした。30〜50年代にかけて、結核や肺炎球菌性肺炎などさまざまな感染症がコントロールできるようになりました。特に42年、抗生物質ペニシリンが導入され、感染症治療が劇的に改善しました。また衛生設備の改善で下痢性疾患が減りました。
ところが40〜50年代、感染症の惨劇は心血管疾患 の流行に置き換えられてしまいます。特に第二次世界大戦後はCVDが激増し、50年までに米国の全男性3人に1人は、60歳に達する前にCVDを発症しました。
ただし当時の治療に重点をおいた基礎実験や臨床研究では、CVDの原因究明ができませんでした。そんな時、予防的なアプローチでCVDの発症を遅らせることができる、という仮説が考えられたのです。それを受け、米国政府、マサチューセッツ州とハーバード大学の共同で、大規模な心臓病の疫学研究がフラミングハムで開始されたのです。
でも、なぜフラミングハムだったのでしょうか?
疫学研究は、さまざまな地域、人種や社会経済的な因子を含めた人の集団で行うことが理想的です。ところが48年当時のフラミングハムも今と同様、中流階級の白人の街でした。ただし長期疫学調査を行うという点では、フラミングハムは非常に適していたのです。理由は「街のサイズが研究に適していて、住民の生活が安定しているため長期的な調査がしやすい▽街の医師や医療専門家が非常に協力的▽住民リストがあり、保健局が死亡診断書の情報やその他の重要な統計を提供できる▽30年近く前に結核の住民参加によるコミュニティー研究を行い、成功した実績がある▽住民の中に研究への協力の精神はまだ存在していた」などが挙げられています。
■小さな街一つの研究成果が、全米の健康に貢献
中流階級の白人の街、フラミングハムの対象者には、確かに偏りがあります。ところが実際、フラミングハム心臓研究のおかげで、CVDの リスク因子が明らかになり、米国では60年代半ばから心臓病が減り始めました。米国立衛生研究所(NIH)によると、70年から05年の間に、米国人の平均寿命は6.6年も延びており、そのうちの4.7年間(70%)は、心血管疾患による死亡の減少によるものです。
参考URL:https://report.nih.gov/nihfactsheets/ViewFactSheet.aspx?csid=96
フラミングハムと同様に喫煙率が低下し、心臓血管系の健康管理が住民に浸透したことで、国、世界レベルの傾向に反して認知症が減っている、という小さな地域は、先進国ならところどころにあるのではないかと思います。しかし、この研究の大きな意義は、その仮説を約30年分にわたる明確なデータで示したところです。98年にはフラミングハム心臓研究が50周年を迎え、「フラミングハム、アメリカの心臓を救った街!」と称賛されました。BUSMは、今回の論文の成果は「フラミングハム、アメリカの脳の健康を救った街!」と言うに値する名誉だとしています。
確かに今回の結果から、全米の認知症発症率の減少につながる可能性はあります。ただし注意しなければならないのは、発症率が減っても、46〜64年生まれのベビーブーマー世代の高齢化が進むため、認知症患者全体の数は増え続けることです。
また認知症発症率低下の傾向が逆転してしまう可能性もあります。なぜなら心臓病のリスクとなる糖尿病や肥満はフラミングハムでも増加し続けているためです。今回の研究でもグループ1に比べてグループ4では、糖尿病の患者は10%から17%に増え、平均の体格指数(BMI)も26から28に上昇しています。このことは将来、認知症の傾向にも影響するでしょう。
そして今回の研究では、アルツハイマー型認知症のリスクに影響する食事や運動に関するデータは含まれていませんでした。今後の調査が期待されますね。いずれにしても、今回の研究成果はライフスタイルの改善や生活習慣病の予防・治療が認知症の予防につながる、ということが30年以上もの長期観察で明確に示されました。私たち個々人の中長期的なライフスタイルの設計にも、とても参考になるのではないでしょうか。
大西睦子:
内科医師、米国ボストン在住、医学博士。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部付属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月より、ボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。08年4月から13年12月末まで、ハーバード大学で、肥満や老化などに関する研究に従事。ハーバード大学学部長賞を2度授与。現在、星槎グループ医療・教育未来創生研究所ボストン支部の研究員として、日米共同研究を進めている。著書に、「カロリーゼロにだまされるな――本当は怖い人工甘味料の裏側」(ダイヤモンド社)、「『カロリーゼロ』はかえって太る!」(講談社+α新書)、「健康でいたければ『それ』は食べるな」(朝日新聞出版)。