「心」こそ大切

2017年01月19日 21時03分40秒 | 社会・文化・政治・経済
★どのように決意し挑むのか。
どのように一念を定め臨むのか。
これが勝負を決める。
★画家が万物を真に迫って描き出すように、我々の「心」が全てを作り出していく。
一念が定まっているのか、その心の在り方一つで人生の勝利も決まる。
「心」こそ大切なのである。
★一人一人が自分の力を最大限に発揮していれば、おのずから深い団結がなされる。
越えがたき壁を乗り越えるためにも最も大切なのが、粘り強い励ましである。
★励ましとは、相手の心に勇気の灯がともるまで続ける執念と情熱である。
「一対一」の心通わせる励ましの対話に徹することだ。
「心の絆」を結んでいけば、どのような壁も乗り越えていけるはず。
★天に昇るような喜びも、死ぬのではないか思うほどの苦しみも、過ぎてしまえば、夢のようなものだ。
「生命を完全燃焼させた思い出は、一生きえないだろう」
★人生の価値は、個人の幸福を追い求めるだけでは、決して得られないものだ。
★与えられた試練を「使命」と捉え、誇りを持って挑むなら、人は最も強く、最も果敢になれる。
★祈り―それはあきらめない勇気だ。
現状は必ず変えられる。
★ネットで、罵詈雑言をつぶやく。
言葉が行き交う空間が劣化し、政治の世界を短絡的、破壊的にする方向に向かわせる。
★ポピュリズムを適切にコントロールしていくには、長い目で見れば、教育が重要になる。
主権者らしく国の将来を考える人間を育て、市民社会的な共通感覚をいかに育てていくかが問われる。

がん手術拒否

2017年01月19日 08時17分24秒 | 医科・歯科・介護
千葉県市原市で宗田マタニティクリニックを運営する宗田哲男院長は、最近、ある問題に頭を悩ませている。



「乳ガンの患者さんに手術を勧めても、『ほかの治療法にしたい』と言う方が結構いらっしゃいます。つい最近も23歳の患者さんが『乳房を切除したくない』と手術を拒否。放射線による 治療を選択されました。病巣の大きさは2cmほど。予後のことも考えたうえで、手術での切除を勧めたのですが……」



 いま、週刊誌の医療特集を読み、ガン手術を拒否しようとする患者が増えている。その発端となったのが「週刊現代」で、7月16日号では「やってはいけない『手術』飲んではいけない『薬』」を29ページと大特集している。



 一方、週刊現代の記事に「根拠なし」と噛みついた「週刊文春」も、7月14日号で引き続きガン特集を掲載。「『こんな手術は断りなさい』肺がん編」と向こうを張った。



 その結果、医療の現場では大混乱が起こっている。冒頭の宗田医師のほか、全国78人の勤務医、開業医に取材した結果、多数の深刻な声が寄せられた。



「大腸ガンの40代の男性患者さんは手術適応だったんですが……。手術に納得していただけなかったので、セカンドオピニオンを受けてもらうことにしました」(45歳・消化器外科)



「ステージⅢの大腸ガンの62歳の男性患者さんが、どうしても、手術をしないで治療したいとおっしゃる。私ではどうすることもできず、大学病院に希望を伝え、まかせることに」(52歳・ 消化器科)



 そんな風潮を、徳州会グループの外科医集団「湘南外科グループ」の外科部長、髙力俊策医師は強い言葉で憤る。



「手術をしても、結局再発で亡くなる患者さんは多いですし、手術の合併症で命を落とす患者さんも、少数ですがおられます。結果として、本人や家族が後悔する事例はあるでしょう。



 しかし、その患者さんにはあてはまらない無責任な意見に流されて、手術を拒否されることもあります。そんなときは悔しく思う。そうした意見を主張する方は、手術をして結果的に患者を死に至らしめた外科医と同じぐらいの覚悟、なんらかのかたちで責任を取る気持ちを持ってほしい」



 島根県松江市にある、患者や家族との信頼関係の強さで知られる小児科「ぽよぽよクリニック」。院長・理事長の田草雄一医師はこう嘆く。



「手術にしろ、薬にしろ、必ず作用と副作用があります。医師は個々の患者さんに責任をもって説明しながら、医療を進めているものと信じております。手術しないほうがよいという論調 を流し、患者さんが医師に相談なく信じてしまった場合、そのマイナスはいかばかりのものでしょうか」



 突如巻き起こった「手術は受けるな」論争。医療の現場を熟知している医師たちは、ガンになった場合、手術を選ぶのだろうか。



 本誌が医師78人を対象にアンケートをとったところ、72人(92%)が「受ける」と回答した。もちろん、「何のガンか」、「どこの部位か」、「どのステージか」によって話は変わる。ガン治療は個別の事情に合わせ、各論で考えていくことしか正解はないからだ。



 以下にそうした生の声を掲載しよう。



・ひとつの考え方であるので尊重したいが、十分な情報を得て、熟慮のもとに選択すべきである(49歳・外科)



・手術が必要なガンは多いのに……と残念に思う(60歳・消化器内科)



・まったくナンセンスだ(68歳・外科)



・待てるガンと待てないガンを区別できるのは、研鑽を積んだ臨床医だけだと思っている(48歳・内科)



・やや過度に手術を忌避している傾向が強いと感じている。結局は不利益になっている例が少なくない」 (52歳・消化器外科)



・イヤなら手術しなくていいが、症状が悪くなったあとに来られても困る(30歳・婦人科)



・丁寧な説明をしたうえで、患者さんの決定ならその決定を尊重すべき(60歳・泌尿器科)



 前出の田草医師はこう締めくくった。 「マスコミは、『○○しないほうがよい』という論調が患者さんを本当に幸せにするのか、十分吟味されたうえで発信する責任があると信じております」


ガン手術のリスクを伝えることと、「受けないほうがいい」と断言すること。そのあいだには、大きな隔たりがあるというのだ。

(週刊FLASH2016年7月26日号)

1月18日(水)のつぶやき

2017年01月19日 02時12分26秒 | 医科・歯科・介護

競輪の一時代を築く

2017年01月18日 15時31分27秒 | 医科・歯科・介護
中野浩一元選手

輪での主な獲得タイトルと記録
1976年 競輪祭(新人王)(小倉競輪場) 1977年 賞金王(66,139,600円)
1978年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(82,385,200円)
1979年 オールスター競輪(岸和田競輪場) 賞金王(92,186,200円)
1980年 オールスター競輪(いわき平競輪場) 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(111,410,600円。日本プロスポーツ選手史上初の年間獲得賞金1億円突破)
1981年 日本選手権競輪(千葉競輪場 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(107,685,711円)
1983年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) 賞金王(109,093,600円。史上最多の6回目の座に就く)
1985年 KEIRINグランプリ(立川競輪場。初代優勝者)
1987年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場。同大会最多優勝記録(5回)達成) 1988年 全日本選抜競輪(青森競輪場) オールスター競輪(岸和田競輪場) 1989年 全日本選抜競輪(前橋競輪場) 年間賞金王6回
通算出走回数1236回中1着666回
優勝回数 169
1985年……優勝
1986年……3着
1987年……2着
1988年……5着
1989年……中止
1990年……2着

世界選手権個人スプリント10連覇
特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。

途中までは中団に位置し、残り数百メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい(浩一ダッシュとも言われた)。高橋健二は浩一ダッシュを「一瞬の爆発力。ピストの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が付いた」と評している。
浩一ダッシュの秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻に当たるような、足を出す時に早く巻き込むというようなイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。
競輪競走においてダッシュは2通りある。一つは、いわゆるスタンディングと呼ばれる全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで0発進と呼ばれ、長塚智広が世界有数の能力を持っている。もう一つは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、吉岡稔真のF1ダッシュ(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、長塚智広は並のS1選手であり、吉岡稔真は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。
中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。さらに中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。
競輪競走1236走中9着は僅か4回で、うち一回は落車後の再乗車によるものである。自身も「9着を取らない」ことを相当意識しており、不利な状況でもできる限りの力を尽くしたと後のインタビューで答えている。
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吉岡稔真元選手
1992年 日本選手権競輪(前橋競輪場) 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場) KEIRINグランプリ'92(平塚競輪場)
1993年 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
1994年 寛仁親王牌(前橋競輪場) 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
1995年 KEIRINグランプリ'95(立川競輪場)
1996年 日本選手権競輪(千葉競輪場) 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1997年 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1998年 日本選手権競輪(西武園競輪場)
1999年 全日本選抜競輪(大垣競輪場)
2006年 日本選手権競輪(立川競輪場)
優勝回数 106
年間賞金王3回 - 1992年、1994年、1996年
S級最多連勝(18連勝) - 1994年
ちなみに、A級なども合わせた連勝記録は、ロサンゼルス五輪銅メダリストの坂本勉(青森)の31連勝。 競輪祭新人王戦にはペナルティと特別競輪優勝者除外規定により出場していない。特別優勝による規定を受けたのは、ヤンググランプリを通しても現時点では吉岡稔真が唯一である。

デビュー時には圧倒的なトップスピードと持久力で競輪の頂点に上り詰めた。
一旦かかってしまえばタレない(スピードが充分に乗ってしまえば、最後の直線でもほとんどスピードが落ちない)という、典型的な地脚(じあし)型の選手。
だが短距離の加速に弱点があり、他の選手が突然ダッシュよく仕掛けた場合、後方に置かれるケースがしばしば見受けられた。
しかし全盛時はそれをも巻き返す強烈な脚力を誇っていた。
引退時まで自力でのトップスピードは衰えることなく、後方からの「F1捲り」が決まる時は全盛期を彷彿とさせる圧勝を演じた。
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滝沢正光元選手
1984年 - 日本選手権競輪(千葉競輪場)
1985年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1986年 - 日本選手権競輪(平塚競輪場)、高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1987年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)、全日本選抜競輪(京都向日町競輪場)、オールスター競輪(宇都宮競輪場)、KEIRINグランプリ'87(平塚競輪場)
1988年 - 日本選手権競輪(立川競輪場)
1989年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1990年 - オールスター競輪(宇都宮競輪場)、競輪祭(小倉競輪場)
1992年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
1993年 - KEIRINグランプリ'93(立川競輪場)
年間賞金王4回 - 1985年、1986年、1987年、1988年
S級年間最多勝利数(80戦64勝) - 1986年
デビュー時から果敢に先頭で走る徹底先行に徹し、最後の直線では力を入れるためか首を上げる独特のフォームでペダルを踏み込んでいる。最初の頃には後ろの選手に捲られたり追い込まれたりすることが多かったが、いつの間にか相手がどれだけ強かろうとも逃げ切ってしまうだけの脚力を身に付けていた。また他の選手との並走や追走についてもほとんど苦にせず、全てにおいてパワフルな走りと滝澤自身が大柄であった事から連想されたのか、いつしか他の選手やファンからは「怪物」と呼ばれるようになり、後に出た漫画のタイトルの由来にもなっている。

競輪選手/プロとしての気魄を体現

2017年01月18日 15時09分36秒 | 未来予測研究会の掲示板
競輪ファンとして、利根輪太郎は、一番驚いたのは吉岡稔真選手(65期、福岡)の存在であった。
まったくスポーツ経験がなかったが、中学時代、友人に連れられて行った競輪祭で中野浩一選手を見て競輪に憧れた。
サラリーマンにはなる気がなかった。
競輪学校では59勝(2位)の成績で卒業している。
また、村上義弘選手(73期、京都)は花園高校で自転車で活躍、1000㍍独走で山形国体で優勝。
4000㍍団体追い抜きでも都道府県大会で優勝。
競輪学校は36勝(16位)の成績で卒業。
花園高校の3年先輩の山本真矢選手(65期、京都)は、インタハイの独走1000㍍で優勝。
競輪学校では76勝(1位)の成績で卒業している。
かなり期待されていた山本真矢選手は、さほど目立った実績がないまま引退している。
さらに注目すべきは、怪物と言われた滝沢正光選手(43期、千葉)は自転車経験がなく、高校時代はバレーボールをやってきて、適性組で競輪学校を受験、学校成績は13勝(42位)の成績で卒業している。
どうして、滝沢選手は多くのタイトルを獲得するまで大成したのか?
学校成績トップが、プロの世界でそれほど活躍できないのはプロ野球も同じである。
村上選手はデビューしたころから完全燃焼、練習でも手を抜かないをモットーに努力を続けてきた。
良き先輩の松本整選手(45期、京都)の影響もあっただろう。
松本選手はファンからサインを求められれば、「気魄」の言葉必ず書き添えていた。
村上選手こそ、競輪選手、プロとしての気魄を体現してきているのである。

競輪界でも有数の知識の深さ 岡本 新吾さん

2017年01月18日 14時28分50秒 | 未来予測研究会の掲示板
元競輪選手42期の岡本 新吾さん

岡本さんの予想は、展開予想と独自の車券理論「ABC法則」を組み合わせた正に博士ナイズされた超車券術で、数々の大穴を的中させておられます

岡本さんと言えば競輪界でも有数の知識の深さと引き出しの多さで、正に競輪博士の名に恥じない方なんですが


真の競輪人 村上義弘選手

2017年01月18日 14時16分59秒 | 未来予測研究会の掲示板
紀州の競輪博士 岡本新吾

35年競輪人生を終えて現役時に経験した独自の体験を生かし、選手の心理・レースの流れを読み調子状態を判断してレース予想し、ヒューマンスポーツ競輪のおもしろさをわかりやすく伝えたい競輪命の競輪博士です。
CS・イベント・ガイダンスやってます!
ファンのみなさんと和を持ってやって行きたいのでよろしくお願いします。
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2016年の締めくくりの年末グランプリ立川は、大歓声の中、嵐の感動を呼び、村上義弘選手(京都・73期)が42歳で劇的に優勝を飾りました。去年、京都嵐山のホテルで行なわれた村上選手のファンイベントでお話をさせてもらった時、かなり厳しい身体の状態と競輪の状況で、岸和田GⅢレースの時も疲労困憊で私も見ていて心が痛かったです。村上選手はSS班のトップ選手の自覚と責任を果たすために、競輪界と全国のファンのために、身を削り日々自分自身に鞭を打ち、気力で頑張って来ました。

2016年ファイナルレース年末グランプリ決勝戦、レースは予想通り同郷の稲垣選手が先行態勢に入り、残り1周から上手く仕掛けて万全でした。先の競輪祭を優勝して年末グランプリ出場を決めベストナインの中で一番調子が良かった平原選手の中団捲くりを残り半周の2センター過ぎから2番手捲くりで村上選手が合わせ切りました。立川競輪場は400mバンクの中でも直線が長く、風がきつくて、バンク自体が凄く重いです。はっきり言って私はレース状況から言って平原選手の2番手を追走していた武田選手のスピードが良かったので完全に差されたと思いましたが、1/4輪抑えて村上選手の持って生まれた気迫と闘争心で1億円を捥ぎ取りました。和歌山競輪場の特別観覧席のガイダンスで思わず「ワアー」と声を出してしまいました。表彰式での村上選手のインタビューを聞いていますと胸が熱くなり、涙が溢れるばかりでした。村上選手に何度感動を与えてもらったか分かりません。村上選手の年齢が過ぎれば過ぎるほど感動が大きくなって来るように思います。


 時代、時代にNo.1の実力を持ち全盛期で競輪ファンに感動を与えられた選手は数人といました。村上選手の全盛期は何が何でも先行主体にレースをして日本一になった頃だと私は思います。戦法が自在になって近畿の絆を固めた結果、周りの若い選手達が強くなり、村上選手自身も向上をして来たのだと思います。


 今年1年間、1番車のチャンピオンシャツを着る重圧を深く感じて一戦一戦、死にもの狂いでレースをすると思います。全国のみなさん、村上選手の生きざまと勇姿をストレートに感じて応援してあげてください。私も村上選手の行き着く所がどうなるのか楽しみです。村上選手は苦しくても辛くても重圧に耐えられなくても、何とか向って行き、打破した時の喜びが競輪にあるから無我夢中になるのだと思います。本当に競輪が大好きで真の競輪人だと思います。

2016年の締めくくりの年末グランプリ立川は、大歓声の中、嵐の感動を呼び、村上義弘選手(京都・73期)が42歳で劇的に優勝を飾りました。去年、京都嵐山のホテルで行なわれた村上選手のファンイベントでお話をさせてもらった時、かなり厳しい身体の状態と競輪の状況で、岸和田GⅢレースの時も疲労困憊で私も見ていて心が痛かったです。村上選手はSS班のトップ選手の自覚と責任を果たすために、競輪界と全国のファンのために、身を削り日々自分自身に鞭を打ち、気力で頑張って来ました。


 2016年ファイナルレース年末グランプリ決勝戦、レースは予想通り同郷の稲垣選手が先行態勢に入り、残り1周から上手く仕掛けて万全でした。先の競輪祭を優勝して年末グランプリ出場を決めベストナインの中で一番調子が良かった平原選手の中団捲くりを残り半周の2センター過ぎから2番手捲くりで村上選手が合わせ切りました。立川競輪場は400mバンクの中でも直線が長く、風がきつくて、バンク自体が凄く重いです。はっきり言って私はレース状況から言って平原選手の2番手を追走していた武田選手のスピードが良かったので完全に差されたと思いましたが、1/4輪抑えて村上選手の持って生まれた気迫と闘争心で1億円を捥ぎ取りました。和歌山競輪場の特別観覧席のガイダンスで思わず「ワアー」と声を出してしまいました。表彰式での村上選手のインタビューを聞いていますと胸が熱くなり、涙が溢れるばかりでした。村上選手に何度感動を与えてもらったか分かりません。村上選手の年齢が過ぎれば過ぎるほど感動が大きくなって来るように思います。


 時代、時代にNo.1の実力を持ち全盛期で競輪ファンに感動を与えられた選手は数人といました。村上選手の全盛期は何が何でも先行主体にレースをして日本一になった頃だと私は思います。戦法が自在になって近畿の絆を固めた結果、周りの若い選手達が強くなり、村上選手自身も向上をして来たのだと思います。


 今年1年間、1番車のチャンピオンシャツを着る重圧を深く感じて一戦一戦、死にもの狂いでレースをすると思います。全国のみなさん、村上選手の生きざまと勇姿をストレートに感じて応援してあげてください。私も村上選手の行き着く所がどうなるのか楽しみです。村上選手は苦しくても辛くても重圧に耐えられなくても、何とか向って行き、打破した時の喜びが競輪にあるから無我夢中になるのだと思います。本当に競輪が大好きで真の競輪人だと思います。

最高の結果より最高のパフォーマンス

2017年01月18日 13時47分09秒 | 社会・文化・政治・経済
★祈り―それは、あきらめない勇気だ。
自分に無理だと、うなだれる惰性を叩き出す戦いだ。
“現状は変えられる!必ず!”
確信を命の底に刻み込む作業だ。
★人生の岐路に立った時、一緒に悩み、道を切り開いていく友人がいる。
★皆、自分自身を磨く方途を求めている。
“生命の鏡”を如何に磨くかである。
★どんな偉大な指導者がいても、皆がその本当の心を知り、力を合せなければ、偉業の成功はない。
★「報恩」こそ、人間の証しである。
報恩は、自分が受けた恩恵を、次世代に贈ることによって完結する。
★人間が人間らしく生きていく、正しい生命の軌道がある。
★勝つことが使命であり、責任なのだ。
★「最高の結果(成績)より最高のパフォーマンスを」
競輪の村上義弘選手
★主張すべき時は、誰にも遠慮はいらない。
★一人一人が人材となり、人材育成を。
★新しい人材を見つけ、新しい力を結集する。
そこに勝利のカギがある。
★たった一人でもいい。
その人が真剣に立ち上がれば、どれほど大きな力を出して、地域活動の波を起こしてくれることか。
そのたゆみない積み重ねからこれまでにない大きな勝利の勢いが生まれていくのである。

「共助の力」の大切さを

2017年01月18日 10時18分29秒 | 社会・文化・政治・経済
★「血のにじむような苦労を重ねなければ『本物の人間』ができるわけがない」
人を如何に励ますかである。
★「心のケア」や「地域コミュニティー」の重要性が、阪神・淡路大震災を機に、社会に定着した」
また、1995年は「ボランティア元年」と呼ばれ、この年から、被災地に全国から救援へ向かう運動が定着した。
現在。1・17は「防災とボランティアの日」と定められ、15日から21日までは、「防災とボランティア週間」として、啓発運動も行われている。
★地域のおける“つながり”や絆の重要性が再確認される。
★物質的豊かさを一瞬にして奪った震災は、被災した人々に“本当に価値ある人生とは何か”との問いを投げかけた。
★また、被災地に限らず、超高齢社会や過疎化など、迫り来る地域の難題に誰もが直面する時代に入った。
★慈愛の声、同苦の心、苦難に負けない人間の歩みは、万人に生きる力をもたらす。
★今年、国際交流の拠点・神戸は開港150年という新しい時代を迎えた。
“心の絆”“励ましの力”が地域を潤し、発展させていく。
★自他共の幸福を目指す「共助の力」の大切さを社会、世界に日本から発信していく時代が来た。

「沖縄戦とは、いかなるものか」

2017年01月18日 10時16分53秒 | 社会・文化・政治・経済
★普遍的な教養と豊かな人間性を磨く。
★論理的な思考力、世界の人々と意見を交わせるコミュニケーション技術、異文化理解の力。
世界のどこへ行っても通用する実力を付ける。
★多角的に物事を捉える力を磨き、誰かの意見に左右されることのない、自律した思考力を鍛える。
★世界の舞台で活躍できる本物の人材を育て送り出す。
★不動の心構えの人だけが真の優しを持つ―ラ・ロシュフコー
★沖縄戦の本質に迫る証言集
声なき声を記録
「沖縄戦とは、いかなるものか」を浮き彫りにしてきた。
沖縄戦を生き抜いて14人に取材し、編さんした反戦出版である。
沖縄戦の特徴は、住民を巻き込んだ戦争であった。
軍隊の編成や動き、陣地の場所などが軍事機密に当たる。
これを外国人(米兵)に漏えいすると死刑になるというのが軍機保護法。
日本軍との軍民雑居を強いられた住民は陣地づくりに駆り出され、兵士と同じように軍事機密をいや応なく知る状態にあった。
つまり、住民が米軍に捕まったら軍事機密を漏えいすることになる。
住民は全員、死が前提になっていた。
日本軍は米軍への投降を絶対に許さなかった。
なぜなら、住民に軍事機密を知られているからだ。
迫り来る米軍を前に、皇民化教育、軍国主義教育をベースに「軍官民共生共死」の方針が徹底されたため、沖縄の各地で軍の命令や指導、誘導、強制により、集団死が発生した。
住民は迫り来る米軍(前門の虎)と、投降を絶対に許さない日本軍(後門の狼)に挟まれ、絶体絶命の絶望状態に追い込まれていた。
日本軍や米軍による目を覆うばかりの残虐行為、一つ一つの証言に沖縄戦の真実が凝縮されている。
間もなく沖縄戦の体験者は一人もいなくなる。
戦争体験を「継承すると」は、戦争を体験しない者が「追体験すること」である。
「追体験すること」で、真に「戦争否定の心」が養われる。
この平和の心を子ども時代に育むことが何より大事だ。
未来へ世界へつなげる「平和のウムイ(思い)」ために、想像力を働かしてどう生かしていくか―そこが求められている。
沖縄国際大学名誉教授・石原昌家さん

1月17日(火)のつぶやき

2017年01月18日 02時11分02秒 | 医科・歯科・介護

戦前の亡霊のような靖国神社

2017年01月17日 23時39分31秒 | 沼田利根の言いたい放題
一億総懺悔

軍国主義日本は、当時の日本国民全体の問題でもあったと思われるのだ。
命を賭してまで、流れ止めることができなかった国民ばかりであり、むしろ戦争の流れに協力したのだ。
権力に怯えて、沈黙する構図。
日本は破滅する道へ突き進む。
敗戦するのは当然の帰結であった。
厳密に言及すれば、愚かさ、無知は罪悪なのだ。
戦前の亡霊のような靖国神社に参拝する閣僚の無知で愚かな姿は、日本の政治風土そのものの程度の低さの表れ!
沼田利根

「いったい私が何をしたというんだ」

2017年01月17日 23時22分49秒 | 社会・文化・政治・経済
「赤狩り」(マッカーシズム)

トランプ次期大統領をめぐる現象は、つい、戦後間もない一時期、アメリカを席巻し、西側諸国にも影響した「赤狩り」(マッカーシズム)を思い起させる。
ウィンコンシンー州出身の上院議員マッカーシーが、一躍脚光を浴びることになったのは1950年。
ある集会で語った、国務省に多数の共産党者が潜んでいるという爆弾発言からだった。
根拠を示したわけではない。
だが。メディアが取り上げげ、国民の反響の大きさに議会、政府も動く。
当時40代初めのマッカーシーは、精力的に告発をエスカレートさせ、政府内にスパイが巣くっているなどとして要人も名指しで糾弾した。
その勢いに反論ものまれたように乏しく、政界、経済界もおびえ、マッカーシズムという言葉も生まれた。
この異様な現象の背景には、当時の東西冷戦の緊迫、核戦争への不安などがのしかかる時代の「空気」がある。
赤狩りはハリウッドにも及び、ゆえなき追求にチャップリンをはじめ多くの映画人が失意と言滅のうちにアメリカを去った。
マッカーシズムには思想体系としての気概も実体もなく、組織もなかった。
そして支持者は多数で、マッカーシーの言うことを特に信用するわけではなく、おおむんrばかげたこととさえ思う者もいたという。
マッカーシーの威勢は5年ともたなかった。
嘘偽が露呈し、手法もあせ、世論も離れた。
赤狩りの混乱は、マッカーシーが独り起こし、振り回したのではない。
無数の人々の反応と「空気」が押し上げたといえるだろう。
「いったい私が何をしたというんだ」マッカーシーの言葉は、示唆深い。
毎日新聞専門編集委員・玉木研二さん

大岡昇平著「中原中也」

2017年01月17日 19時36分19秒 | 日記・断片
書棚から、大岡昇平著「中原中也」と取り拾い読みする。
昭和49年初版発行、50年八版発行、角川書店

ページを開いて、どこにも読んだ痕跡を見つけることができなかったので驚く。
買って一度も目を通さなかった本はあり得ないはずだが、あったのである。
大学(国文科)で近代・現代文学を専攻し、一応、卒論を書いた時の習性でどこかに書き込みや、棒線などを引いていた。
この「中原中也」は買った時のままの状態であり、目を通した功績がどこにもなかったのだ。
昭和50年は、徹夜麻雀に明け暮れ、神奈川県の相模相模原市かた取手市に移住してきた前後であり、職場も日本薬業新聞社から協同農業新聞社に移籍した時期でもある。
「農業も面白いではないか」と真剣に考えていた日々であり、文学的な興味からは離れた時期であった。
さらに競馬にも、のめり込んでいたのだ。
この本をどこで、とんな時に買い求めたのか、その記憶もないのだ。
25歳~30歳までの時期、つまり結婚前、引き摺っていた一方的な恋愛問題もあったのだが・・・
彼女の死で、心の区切りができたのは、実に皮肉な結果であった。

「ふるさと出島の会」いちごを

2017年01月17日 13時21分16秒 | 日記・断片
昨日、ふるさと出島の会から自宅に宅急便でいちごが届く。
お世話になった前職場の社長宅や家人の姪の家にも注文していちごを贈っている。
とても美味しく、皆から喜ばれるので毎年、家人が届けているのだ。
長男の友人の一人が出島にいたので、「ふるさと出島の会」のいちごを知った。
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かすみがうら市はおいしい野菜・果物の宝庫です。

「地元のおいしいものを皆さんに安く提供し、夢のある農業を目指したい」という思いを持つお店。
「ふるさと出島の会」
住所かすみがうら市西成井1938-3
電話番号029-898-2855
営業時間10:00~18:00
定休日月曜日
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いちご
女峰
とちおとめ
ひたち姫

りんご
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王林
富士


西村
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富有