いうニュースを聞いて、あまり自分の思い出のことを書いてもしょうがないかナと思いつつも、ちょっと書いてみたりする。
実家が渋谷駅からそれほど離れていなかったので渋谷駅周辺にはしょっちゅう来ていたし、第一、私が通った学校は小学校から大学まで住所は全部渋谷区だった。
根っからの渋谷っこ、ダ。
東急プラザには、ある意味自分の家の庭のような感じで出入りをしていたような気がする。
なので、思い出なんてあり過ぎるほどあるのだけれども、忘れようとしても忘れられないのが、今は亡き恵子の父との二人だけの食事。
まだ学生だった私は(きっとまだ二十歳か二十一)、結婚の正式な申し込みをするために義父に連絡すると(当時義父は私の通っていた大学の教授だったので連絡は取りやすかった)、一緒にどこかで食事をしようということになった。
彼が指定したのが、この東急プラザの最上階にあるロシア料理の店のロゴスキー。
まだきちんとしたロシア料理店なんて一度も入ったことのなかった私は、義父の言われるままに何かを注文したと思うのだが実際に何を注文したのかははっきり覚えていない。
しかし、二人で話をするうちに向こうの方から「式どうするの?」と聞いてきた。
私の気持ちなどとっくのとうに見抜いていたのだろう(今考えると当たり前だと思うが)。
なので、私が「お願いします。お嬢さんと結婚させてください」的な会話はまったくなかった。
むしろ一方的に彼の方が「こうしたら良いんじゃない」「こうしなさいよ」と結婚式やその後の人生についても熱く語り始め、そこで留学したいといったことまで話したような気がする。
彼自身、まだ留学など夢のまた夢の戦後すぐの時代にアメリカに勉強しに行った過去を持っている身なので、私の留学話にむしろ彼の方が乗り気だったような気もする(彼がニューヨークに留学中に私の恩師と出会っていたという偶然もあったり)。
そんなロシア料理店の思い出が蘇ってきたのと同時に、つい昨年の12月にプラザの中にある大型書店で買い物をした時偶然見つけた藤原あや子さんのご本のことも蘇ってきた。
なんであの時あの場所に本を求めに行ったのか?
まあ、きっとそこが私が最も行き易い場所だったからだろう。
自然に足が向いた。
そんな感じだ。
そして、そこのレジにたまたま彼女の本が陳列されてあった。
そんな人生の一瞬、何かに導かれて「ある人」との出会いをする。
そうした私の人生にとって大事な人たちとの出会いが「演出」された場所が閉館したということで若干センチになったのかもしれない。
そうだ、あの場所では買い物や食事だけでなく、何度となく仕事として演奏させてもらったこともあったんだ…。
一階のエスカレーター前の賑やかな場所で…。
まあ、よくある「営業演奏」の一つと言ってしまえばそれだけのことなのだが、あそこが渋谷の東急プラザだから、という思いもけっこう詰まっている。
でも、「ひかりえ」にしても他の再開発計画にしても、渋谷が昔の渋谷でなくなっていくのは何となく寂しい。
渋谷っことしては、「変わらない」ものもどこかに欲しいのだけれども、きっと渋谷はそれを許さない街なのかもしれない(渋谷の街を作っているのはけっして区という行政ではなく東急という大資本だからしょうがないのだろう)。
そう言えば、今度の日曜日は東急プラザの高速を挟んで向い側のホテル、セルリアンタワーで私のコンサートがある。
そんなセンチな気持ちは忘れて、とりあえず頑張ろう。
実家が渋谷駅からそれほど離れていなかったので渋谷駅周辺にはしょっちゅう来ていたし、第一、私が通った学校は小学校から大学まで住所は全部渋谷区だった。
根っからの渋谷っこ、ダ。
東急プラザには、ある意味自分の家の庭のような感じで出入りをしていたような気がする。
なので、思い出なんてあり過ぎるほどあるのだけれども、忘れようとしても忘れられないのが、今は亡き恵子の父との二人だけの食事。
まだ学生だった私は(きっとまだ二十歳か二十一)、結婚の正式な申し込みをするために義父に連絡すると(当時義父は私の通っていた大学の教授だったので連絡は取りやすかった)、一緒にどこかで食事をしようということになった。
彼が指定したのが、この東急プラザの最上階にあるロシア料理の店のロゴスキー。
まだきちんとしたロシア料理店なんて一度も入ったことのなかった私は、義父の言われるままに何かを注文したと思うのだが実際に何を注文したのかははっきり覚えていない。
しかし、二人で話をするうちに向こうの方から「式どうするの?」と聞いてきた。
私の気持ちなどとっくのとうに見抜いていたのだろう(今考えると当たり前だと思うが)。
なので、私が「お願いします。お嬢さんと結婚させてください」的な会話はまったくなかった。
むしろ一方的に彼の方が「こうしたら良いんじゃない」「こうしなさいよ」と結婚式やその後の人生についても熱く語り始め、そこで留学したいといったことまで話したような気がする。
彼自身、まだ留学など夢のまた夢の戦後すぐの時代にアメリカに勉強しに行った過去を持っている身なので、私の留学話にむしろ彼の方が乗り気だったような気もする(彼がニューヨークに留学中に私の恩師と出会っていたという偶然もあったり)。
そんなロシア料理店の思い出が蘇ってきたのと同時に、つい昨年の12月にプラザの中にある大型書店で買い物をした時偶然見つけた藤原あや子さんのご本のことも蘇ってきた。
なんであの時あの場所に本を求めに行ったのか?
まあ、きっとそこが私が最も行き易い場所だったからだろう。
自然に足が向いた。
そんな感じだ。
そして、そこのレジにたまたま彼女の本が陳列されてあった。
そんな人生の一瞬、何かに導かれて「ある人」との出会いをする。
そうした私の人生にとって大事な人たちとの出会いが「演出」された場所が閉館したということで若干センチになったのかもしれない。
そうだ、あの場所では買い物や食事だけでなく、何度となく仕事として演奏させてもらったこともあったんだ…。
一階のエスカレーター前の賑やかな場所で…。
まあ、よくある「営業演奏」の一つと言ってしまえばそれだけのことなのだが、あそこが渋谷の東急プラザだから、という思いもけっこう詰まっている。
でも、「ひかりえ」にしても他の再開発計画にしても、渋谷が昔の渋谷でなくなっていくのは何となく寂しい。
渋谷っことしては、「変わらない」ものもどこかに欲しいのだけれども、きっと渋谷はそれを許さない街なのかもしれない(渋谷の街を作っているのはけっして区という行政ではなく東急という大資本だからしょうがないのだろう)。
そう言えば、今度の日曜日は東急プラザの高速を挟んで向い側のホテル、セルリアンタワーで私のコンサートがある。
そんなセンチな気持ちは忘れて、とりあえず頑張ろう。