算数の研究会で、授業終盤の習熟の時間に関する話になったことがある。
自分は、その授業で学んだ内容を習熟させる時間が必要だと考えている。どの領域であっても、ほぼ毎時間習熟の時間を設定している。
その時間に、自分は子どものノートを見て回り、
「できたね。」「頑張ったね、マル。」「丁寧だなあ。」などと言ってほめる。
その時間が自分にとって幸せな時間でもある。
○を付けたときに、子供達が喜ぶ姿はとてもうれしい。
その研究会では、次のように発言する人がいた。
「習熟を設定できるかどうかは、領域による。数と計算領域ではできるが、それ以外の領域の単元では、基本問題を理解させることで時間を殆ど使ってしまう。」「数と計算領域以外では、習熟を図る時間は設定できない。」
びっくりした。
それでは、この人たちは、子供達が理解できたかどうかをどのようにして評価しているのだろうか?
きっとしていないのだろうなあ。(しかも、習熟の時間が取れないほど授業が進まないのを子どものせいにしている口ぶりである。)
発言を聞いて思ったことがある。
「思い込んだらいけない。」である。
先の発言をしていた人たちは、きっとこれからも習熟の時間は取れないだろう。
自分で「できない」という制限をかけているからである。
自分で制限をかけるようなことがあれば、進歩は止まると感じた。「できない」と思い込んだら進歩は止まる。