今日は、吉田兼好「徒然草」から。カッコ内の現代語訳は中野孝次著「すらすら読める徒然草」(講談社)からの引用です。
「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。」(第七十五段)
(何もせずひとりきりでいるのを、侘しくてならぬといって嘆く人が多いが、あれはどういう了見だろう。
世事に東奔西走する必要もなく、外のことに気を紛らわされることもなく、身を閑の中に置いて、我ひとり
醒めているくらいいいことは、他にないではないか。)
「世に従へば、心、外の塵に奪はれてまどひやすく、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、
心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと、定まれることなし。分別みだりに
起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたること、
人みなかくの如し。」(第七十五段 続き)
(考えてみるがいいのだ。世間の仕組みに従って生きようとすれば、外のつまらぬ事柄に心をとられて、
我が我でなく、いろんな迷いが起きやすい。世間並にすれば人と付合わずにすまされないが、人と付合えば、
もしや人の気に逆らいやせぬかと心配になって言いたいことがあっても言えぬ。人の御機嫌とりには言いたく
ないことも口にせねばならぬ。これでは何を言っても、言うことがまるで自分の心のようではない。また、
世間に生きれば、人とふざけたりもする。人と争いもする。あるときはしてくれなかったと恨み、あるときは
してくれたといって喜ぶ。そんなふうに心が絶えず外のことに動かされて、一時として安定している折がない。
分別心がむやみとさかんになって、絶えずこれは得か損かと利害得失ばかり考えている。
その状態はまさに「惑い」にほかならず、惑いながら酔っぱらって、酔った中で夢をみているようなものだ。
自分でも何をしているかわからないのである。なぜそうしているかもわからぬまま、年がら年中忙しく走り
まわり、ぼうとしたまま生死の一大事を忘れて生きているのだ。世間を見わたせば、世の人の生き方とはみな
そんなふうではないか。世間並に生きればそうなるしかないのである。)
「いまだまことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく
楽しぶとも言ひつべけれ。」(第七十五段 続き)
(しかし、そうでない生き方もある。まだ本当の道がわかるところまで行っていなくとも、世間との縁を切って
身を閑の状態に置き、俗事にはいっさいかかわらず、心を安らかに自由にしておくのこそ、この短い人生をしば
らくでも楽しむ生き方と言うべきだろう。それこそが人生を楽しむ道だ。)
「大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、
下愚の人なり。」(第百五十一段)
(だいたい人は、年をとったらいろんな世俗の事から手を引いて、ゆったりとのどかに暮すのがいい、その
ほうが見た目もいいし、望ましい。いくつになっても世俗の事から手を抜けないで、一生を俗事に携わって
過すのはよほどに愚かな人だ。)